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昨今の戯曲界を見渡すと、月々発表される戯曲の数こそ多いが、そして、その数の多いことが何となく華々しい外観を呈してゐるが、質の上からいへば、注目に値するものが寔に少い。実際舞台にかけて見て、相当見応へがあると思はれるやうなものは、極く稀れである。この点、私自身も、自ら顧みて忸怩たるものがある次第であるが、かくの如き状態は、度々繰り返して云ふことであるが、わが国の劇作家が、常に一つの「完成された舞台」から、好き刺激と霊感とを受ける機会がなく、一方、雑誌を唯一の発表機関とする不合理な状態から、知らず識らず「舞台的感覚」が作劇の上で、無視せられがちであるからだと思ふ。その上、多くの作家の生活様式が、月々四五十枚の原稿を二晩か三晩で書き飛ばすことを余儀なくさせ、しかも、その生活様式を改めようとしないのであるから、どつしりした、密度のある作品がなかなか生れて来ないのは当然である。しかしながら、これらの理由は、一人の天才の前では、少くともその意味を失ふ性質のものである。それは断るまでもない。
かくの如き戯曲界の現状に向つて、誰がどういふ批難を加へようと、その批難は常に真理を含んでゐると見られる。そこで喧々囂々、甲は乙の傾向を罵り、乙は丙の色調を貶し、丙は又甲の主張を嘲るに日もこれ足らざる有様である。
文壇の事情に通ぜず、また一個の定見を備へない世人の中には、殊に、新しい演劇に好奇の眼を向けつつある若きアマトゥウルの中には、自らその帰趨に迷つて、徒らに頭を悩ます連中がなくもないやうである。これは已むを得ないことには違ひないが、その結果は、新しい演劇に対する民衆の不信と軽侮とを生み、その発達進化の上に著しい障碍を齎すことは慥かである。
私は、自ら一つの立場をもつてゐる演劇研究者であり、殊に、意識的にも、無意識的にも限られた趣味に活きる芸術修道者であるから、期せずして我田引水に陥るかもわからないが、努めて公平な態度を持しつつ現代の戯曲界、並に演劇界の分野について、簡単なる討究を試み、主なる傾向の特色を明かにしたいと思ふ。
一、北欧系。これはスカンヂナヴィヤ、露西亜、及び独墺の作家から影響を受けたもので、それら様々の作家の思想、形式、手法、色調を幾分づつ受継いだもの。この一派は戯曲に「力」を要求し、「深刻さ」を求め、従つてその戯曲中に「人生の意義」を、「社会の問題」を描かうとし、従つて、人物の性格も暗く、沈鬱で、理窟を好み、時によると喧嘩ばかりしてゐる。とは云ふものの、それは北欧作家の共通点でなく、日本の北欧系作家が、その点を強調してゐるだけである。これらの人々の中には、ドラマによつて「魂をゆすぶられ」、「心臓をつかみ出され」ることを望み、「ドカーンと丸太棒でぶんなぐられるやうな不愉快な」目に遭ふことを此の上もなき愉快なこととしてゐる人々がある。
尤も、この一派が、特別に、さういふ要求をし始め、さういふ旗色を鮮明にし出したのは、次に述べようとする一派が擡頭し出したからであることは云ふまでもない。その一派とは、即ち
二、南欧系。南欧系と云つても、主に仏蘭西作家のあるものから影響を受けたやうに思はれてゐる一派であるが、この一派は、まだその数も甚だ少く、殊に、年少の無名作家中に時々見るくらゐなもので、北欧系の人々が考へてゐるほど有力な傾向ではない。この方は、仏蘭西のどの作家から直接影響を受けたのか分らない。仏蘭西にそんな傾向があるのかどうかも分らないが、人々がこれを仏蘭西的であり、南欧的であると呼ぶ理由は、多分これらの作品の多くが軽いスケッチ風のものであり、「力」よりも「香り」を、「深さ」よりも「ニュアンス」を尊び、「人生の苦悶」を苦悶としては取扱はず、寧ろ多分のファンテジイによつてこれを喜劇化し、「社会の冷酷」さを描くよりも、その冷酷さに堪へ得ない人間の自嘲を、又はその冷酷さを憤る人間の泣き笑ひを、理窟抜きに暗示することで満足してゐるからであらうか。この傾向は、一面、信念なき軽薄児の遊戯的人生観とも見られがちである。また、実際さういふものもあるにはある。それは、作家自身の問題である。傾向の罪ではない。或は、南欧人は北欧人よりも軽薄であるといふ見方と、いくらか関係があるのかもしれない。
北欧系が「思想らしきもの」を重んじ、舞台の「動き」を尊重するに反し、南欧系は「詩」を重んじ、「言葉の効果」に神経を集める。「思想」があれば、「詩」はいらぬといふわけではあるまいし、「人生的主義」を伝へるために、最も「言葉の効果」に敏感な神経を働かせればよいのである。が、双方は、何れもその主張に於て、自ら恃むところを、強調するのは已むを得まい。
北欧系は、「人生に正面からぶつかる」ことが文学の本道なりと云ひ、南欧系は、別にそんなことは何とも云はぬが、内心、「人生の脚を掬つ」たり、「睾丸をつかむ」ぐらゐ平気だと考へてゐるらしい。どうかすると、「人生の脇の下をくすぐつて」大いに悦に入ることもある。これが北欧系の気に入らぬ点で、「それは相撲の手ではない」と云つて腹を立てるのである。南欧系は、とぼけて、おや、「おれは相撲を取つてゐるつもりではなかつたが」と、苦笑するなど、甚だ意志の疎通を欠く次第である。
これはまた別の分類法であるが、前述の二傾向に関係なく、特別の名で呼び得る一派がある。
一、近代主義一派。これは、云ふまでもなく、未来派、表現派、ダダイズム、構成派などの芸術的新傾向の追従者で、多くは北欧系に属する作家であるが、もうそろそろ、南欧系の中から、例へば、コクトオやリイヌの亜流の如きものが出て来てもよささうなものである。
未来派、ダダイズムなどの傾向を取り入れた戯曲は、まだ日本に出て来ないやうであるが、表現派、構成派などの名を冠した、一寸信用のでき兼ねる戯曲が近頃ちよいちよい現はれる。この一派は、勿論、既成美学の破壊、従つて、在来の演劇の否定に進みつつあるのであるから、普通、筋道の通つた戯曲や演劇は、彼等から軽蔑され、敵視されてゐる。ここに於て、北欧系の作家中錚々たる人々でさへ、彼等の前では大きな顔ができないのである。その台詞の如きも、例へば「お面だ、お小手だ、お胴だ、そら、お突だ!」といふやうな猛烈な掛声の連続であるから、さすが「力」の作家たちも、たぢたぢである。然しながら、これらの傾向は、何も、恐るるに当らない。沈滞萎靡した末流文学に、一脈の活気を与へるべく生れた注射文学に外ならない。少し痛くても我慢するより外はない。効き目はいつか現はれる。痛い時は、まだ効いてやしない。
この近代主義諸傾向を尻目にかけて、しかも実は、密かに「効くなら一本刺してもらはうか」と思案しながら、それほどでもあるまいと落ちつきを見せてゐる一派、これが、
二、既成作家及びその後継者一派である。シェイクスピイヤより、イプセン、ストリンドベリイ、さてはチエホフ、ブリュウ、マアテルランクなどを師と仰ぎ、オニイルに感心し、ルノルマンを褒め、ルナアルを新しがり、アンドリェエフを一寸真似る手合である。この一派は、近代派が攻撃するほど、「どうにもならない」連中ばかりではなく、勉強次第では、オニイルやルノルマンぐらゐまでなら漕ぎつけ得る才能を恵まれてゐるものもないではない。それくらゐになつたつて何にもならないと云へばそれまでであるが、私は、世人と共に、やはり、この一派に最も期待をかける。何となれば、近代主義も、畢竟、しつかりした基礎の上に築かれなければならぬと信じるからである。写実主義、新浪漫主義、象徴主義、これらの諸流派は、既成文学として排し去るためには、まだ、わが国に於てはあまりに幼稚である。他の部門は兎に角、演劇に於ては、殊に戯曲に於ては、なほ、これらの畑に、本当の果実を実らさなければならない。
もう一つ違つた分類に従へば、これは近頃、問題視されてゐる
一、プロレタリア一派。即ち、共産主義を奉ずる青年作家の一群である。この一派は、文学的流派と呼ぶことはできないが、兎に角、文壇的に擡頭しつつある一勢力である。彼等は文学を以て、共産主義宣伝の手段にすぎずとなす点に、特色がある。従つて、戯曲も、一つの思想的傾向に色づけられ、演劇も、芸術である前に「運動」でなければならないと主張する。甚だ簡単明瞭であるから、議論の余地はないのであるが、ただそれだけならいい。彼等は、共産主義的思想を露骨に掲げない作品、ブウルジュワ階級に対する呪咀、怨嗟、罵詈を根柢としない戯曲を「一文の価値」なきものの如く批評し、引いて、さういふ作家を仇敵の如く、人非人の如く取扱ふに至つて、私は、聊かその了見の狭きに驚くのである。
凡そ、文学の使命といふものは限られてゐる。それが如何なる思想を含んでゐようと、その思想のために人は文学を愛しはせぬ。まして、その思想に同化されはせぬ。なるほど、トルストイの思想は若干の共鳴者を出しはしたが、それは彼が、優れた芸術家であつたと同時に、偉大な人格を背景としてゐたからである。共産主義の思想と雖も、トルストイの如き人物が説いてこそ「宣伝」にもなれ、お互ひが、如何に大声叱呼しても、それは、ただ、「自己の宣伝」に終るのみである。「自己宣伝文学」といふならわかる。然らずんば、単に衆愚を対手とする「煽動文学」たるに甘じるがいい。ただ惜むらくは彼等の中に、二三の才能の優れた作家がゐて、その芸術的才能を動もすればその「目的」のために酷使し、磨滅せしめてゐることである。
私は、共産主義が、彼等の手段より、もつと巧妙に、もつと有効に、もつと正々堂々と「宣伝」されつつある事実を知つてゐる。そして、その「宣伝者」は、その「文学」に「共産主義の色」をつけなくてもすむのである。あらゆる「優れたる文学者」は、常にその優れた芸術のみによつて、「革命」への秘密の導火線を努めてゐる――優れた科学者が、常に社会を変形しつつあると同様に。アインシュタインを、長岡半太郎を、ブレリオを、パストゥウルを、誰かブウルジュアジイの走狗と呼ぶものぞ。況んや、労働組合に加入せざる靴屋の一職工が、一々自ら造るところの靴に、「革命」なる焼印を捺さずとも、いつの日か決然と起つて、彼等の指揮下に馳せ参じないと保証できるか。
彼等の仇敵視する
二、ブウルジュワ作家一派。その中に、彼等の最も信頼すべき味方を発見する日があるであらうと同時に、その思想といひ、その生活といひ、その趣味といひ、一から十までブウルジュワ的な作家が幾人かあることはある。それらの作家は、その作品の中で、その思想を暴露し、その生活を語り、その趣味を表はしてゐる。彼等は思想的に、ブウルジュアジイの弱点を擁護する反動的態度を明示してはゐないが、所謂「現代を呼吸せざる」作家の通弊として、時代の歩みに鈍感であり、「幸福」の観念にわれわれと相通じないものがある。道徳の仮面を着た「獣」であるのは已むを得ない。この種の作家は、今や多く新劇界から忘れられようとしてゐるから、さまで顧慮するに足らぬ。
これ以外に、更に分類のし方もあると思ふが、これら様々の傾向から生れる作品、舞台に接して、その優劣を批判し、好悪を定め、取捨選択を行ふのは世人の勝手である。単に無責任な泥の塗り合ひによつて、その何れにも幻滅を感じない用意が必要である。
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銭形平次の時代には乗物といつてもバスも電車もなく、さうむやみとお駕籠にも乗れなかつたらうから、八五郎が聞きこみをすれば、向う柳原の伯母さんの家からすぐ飛び出して神田の平次の家まで駈けてゆく。そらつと言つて平次は両国だらうが浅草だらうが吉原だらうが行つてみなければならない。歩く方に精力を使つてくたびれてしまふだらうと思はれるけれど、その時分はそれでけつこう用が足りてゐたらしい。平次が江戸で犯人の足どりを考へてゐるあひだに、八五郎は三浦三崎まで出かけて、三日三晩やすまずに容疑者の故郷を悉しく調べて帰つてくる。現代人ならば東京に帰る前につぶれてしまふところだけれど、八五郎は足に豆を拵へたぐらゐで平気でゐる。何もみんな習慣の力であらう。
銭形平次まで遡つて考へないでも、私たち明治の人間の子供時代には、大人も子供もずゐぶんよく歩いてゐた。人力車が安かつたといひながら、それはやはりぜいたくであつた。私の少女時代、土曜日のやすみに寄宿舎から二人乗りの人力に友達と二人で乗つて銀座の関口や三枝へ毛糸だのリボンだの買ひに行き、帰つてくると二人でその車代を払つて、歩いて行けるところだともつと何か買へたのね、なんてさもしい勘定をしてゐた。麻布から銀座まで往復の車代はいくらだつたか覚えてゐないが、とにかく今のハイヤー位の割合で相当なものであつたのだらう。
学校を出てから私は佐々木信綱先生の神田小川町のお宅まで、歌のおけいこや源氏物語のお講義を伺ふため一週一度づつ通つた。ずつと以前中国公使館があつたその坂の下で、永田町二丁目の私の家からは神田小川町までかなり遠かつた。朝九時ごろ人力でゆき、帰りは十二時ごろ向うを出てぶらぶら歩いて帰ると、ちやうど一時間ぐらゐになつた。小川町から神田橋へ出て、和田倉門をよこに見て虎の門へ出る、やうやく溜池の通りまで来ると、右のほそい道へまがつて山王の山すそのあの辺の道が永田町二丁目だつた。
帰るとお昼をたべてお茶を飲んで夕方まで何もしないで草臥れをなほす工夫をしてゐた。それに、その時分の年ごろは遠路を歩いて脚のふとくなることも苦痛の一つだつた。父が勤めをやめて家に引込んでゐた時なので、われわれの家の娘が歌の稽古のために車の送り迎へなぞはぜいたくであると言つてゐたから、片道だけ車にのるのは母の親切によつたので、そんな風にして先生のお宅に通ふといふことはよほど歌が好きだつたためで、つまり文学少女なのだつた。
また或る日は小川町から神保町を通り賑やかな店々を見て――その中でも半襟屋をのぞくことは愉しかつた。本屋はのぞかなかつたやうである――それから九段坂をのぼり、お堀ばたを歩いて半蔵門や麹町通りを横眼に見ながらだらだら坂に来てから右に折れて、麹町隼町に出る、そのつぎが永田町の高台だつたと思ふ、こんな事を考へてゐると車屋さんか運転手みたいだけれど、じつによくも歩いた、一時間と二十分ぐらゐの道であつた。(この中に神田の店々をのぞく時間もはいつてゐる。)むろん晴天の日ばかりであつたが、雨の時お休みしたのかどうか、はつきり覚えてゐない。
さてそんなに遠路を歩いて、下駄はどんな物を履いてゐたか、履物のことは少しも思ひ出せない。どうせふだんの物だから立派な品ではなかつたらうけれど、表がついてゐたかどうかも忘れてしまつた。履物はいつも母が自分のや私たち姉妹のを一しよに赤坂の平野屋で買つて来たやうだつた。その時分は草履は流行でなかつたから、とにかく、どんな下駄にしても、下駄にはちがひない。
その二三年後のこと、先生のお弟子の中ではだいぶふる顔になつてゐた私はお花見がてら春の野遊びの会といふのに誘つて頂いた。先生御夫妻と、そのほか六七人、川田順さんがいちばん年少者で十八ぐらゐであつたと思ふ。どこの駅からどんな風に乗つたか、たぶん立川で降りたと思ふ、山吹の咲いた田舎道を曲がりまがり歩いて多摩川べりに下りてゆき、筏の上や川原の石ころの上でお弁当をたべた、そのあと何処をどんな風に歩いたものか、小金井のお花見をしたのはその同じ日であつたか、それとも翌年の春であつたか記憶が混乱してはつきりしないが、最後に中央線牛込駅で降りたのは夜になつてからで、みんなで九段の上まで歩いて富士見軒で夕食をした。私だけは永田町までの夜みちを一人歩かせるのはいけないとあつて人力を呼んで下すつたが、あとの人たちはみんな九段坂を下りて歩いて帰つた。川田さんだけは牛込の方に。そんなやうに朝から夜まで歩き廻つても別に足の腫れた人もなかつたやうで、習慣や気分のせゐであつたらう。
近年になつて、戦争中電車のうごかない時、東京の主婦たちは一日に何里かの道をあるいて焼けた親類や友人の見舞をすることもあつた、これは気だけで歩いたのだ、しばらく軽井沢に暮してゐた私は駅から旧道の宿屋までの一本道をたびたび往復した。いつも重い荷物を持つてゐたが、夜の軽井沢の道はそれほど遠いとも思はなかつた。わかい人を連れにしてゐたせゐで、散歩してゐるやうな気持でもあつたらしい。
ある忙しい家庭の奥さんが話したことだが、足が動いてゐる時には悪い智慧なぞは少しもうごかない、のんびりと自然の中の生物の一つとして動いて行く。人間は坐つてゐる時や寝てゐる時いろいろな考へごとをするので、長く寝てゐる人は賢こい悟りをひらいたり、或る時は意地のわるい遺言状を書いたりするのだと言つてゐた。ほんとにさうなのだらうと思つて聞いた。
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今日もまた無数の小猫の毛を吹いたような細かい雨が、磯部の若葉を音もなしに湿らしている。家々の湯の烟も低く迷っている。疲れた人のような五月の空は、時々に薄く眼をあいて夏らしい光を微かに洩すかと思うと、またすぐに睡むそうにどんよりと暗くなる。雞が勇ましく歌っても、雀がやかましく囀っても、上州の空は容易に夢から醒めそうもない。
「どうも困ったお天気でございます。」
人の顔さえ見れば先ずこういうのが此頃の挨拶になってしまった。廊下や風呂場で出逢う逗留の客も、三度の膳を運んで来る旅館の女中たちも、毎日この同じ挨拶を繰返している。私も無論その一人である。東京から一つの仕事を抱えて来て、ここで毎日原稿紙にペンを走らしている私は、他の湯治客ほどに雨の日のつれづれに苦まないのであるが、それでも人の口真似をして「どうも困ります」などといっていた。実際、湯治とか保養とかいう人たちは別問題として、上州のここらは今が一年中で最も忙がしい養蚕季節で、なるべく湿れた桑の葉をお蚕様に食わせたくないと念じている。それを考えると「どうも困ります」も決して通り一遍の挨拶ではない。ここらの村や町の人たちに取っては重大の意味を有っていることになる。土地の人たちに出逢った場合には、私も真面目に「どうも困ります」ということにした。
どう考えても、今日も晴れそうもない。傘をさして散歩に出ると、到る処の桑畑は青い波のように雨に烟っている。妙義の山も西に見えない、赤城榛名も東北に陰っている。蓑笠の人が桑を荷って忙がしそうに通る、馬が桑を重そうに積んでゆく。その桑は莚につつんであるが、柔かそうな青い葉は茹られたようにぐったりと湿れている。私はいよいよ痛切に「どうも困ります」を感じずにはいられなくなった。そうして、鉛のような雨雲を無限に送り出して来るいわゆる「上毛の三名山」なるものを呪わしく思うようになった。
磯部には桜が多い。磯部桜といえば上州の一つの名所になっていて、春は長野や高崎前橋から、見物に来る人が多いと、土地の人は誇っている。なるほど停車場に着くと直に桜の多いのが誰の眼にも入る。路傍にも人家の庭にも、公園にも丘にも、桜の古木が枝をかわして繁っている。磯部の若葉は総て桜若葉であるといってもいい。雪で作ったような白い翅の鳩の群が沢山に飛んで来ると湯の町を一ぱいに掩っている若葉の光が生きたように青く輝いて来る。護謨ほうずきを吹くような蛙の声が四方に起ると、若葉の色が愁うるように青黒く陰って来る。
晴の使として鳩の群が桜の若葉をくぐって飛んで来る日には、例の「どうも困ります」が暫らく取払われるのである。その使も今日は見えない。宿の二階から見あげると、妙義道につづく南の高い崖路は薄黒い若葉に埋められている。
旅館の庭には桜のほかに青梧と槐とを多く栽えてある。痩せた梧の青い葉はまだ大きい手を拡げないが、古い槐の新しい葉は枝もたわわに伸びて、軽い風にも驚いたように顫えている。その他には梅と楓と躑躅と、これらが寄集って夏の色を緑に染めているが、これは幾分の人工を加えたもので、門を一歩出ると自然はこの町の初夏を桜若葉で彩ろうとしていることが直に首肯かれる。
雨が小歇になると、町の子供や旅館の男が箒と松明とを持って桜の毛虫を燔いている。この桜若葉を背景にして、自転車が通る。桑を積んだ馬が行く。方々の旅館で畳替えを始める。逗留客が散歩に出る。芸妓が湯にゆく。白い鳩が餌をあさる。黒い燕が往来中で宙返りを打つ。夜になると、蛙が鳴く。梟が鳴く。門附の芸人が来る。碓氷川の河鹿はまだ鳴かない。
一昨年の夏ここへ来た時に下磯部の松岸寺へ参詣したが、今年も散歩ながら重ねて行った。それは「どうも困ります」の陰った日で、桑畑を吹て来る湿った風は、宿の浴衣の上にフランネルを襲ねた私の肌に冷々と沁みる夕方であった。
寺は安中路を東に切れた所で、ここら一面の桑畑が寺内までよほど侵入しているらしく見えた。しかし由緒ある古刹であることは、立派な本堂と広大な墓地とで容易に証明されていた。この寺は佐々木盛綱と大野九郎兵衛との墓を所有しているので名高い。佐々木は建久のむかしこの磯部に城を構えて、今も停車場の南に城山の古蹟を残している位であるから、苔の蒼い墓石は五輪塔のような形式で殆ど完全に保存されている。これに列んでその妻の墓もある。その傍には明治時代に新らしく作られたという大きい石碑もある。
しかし私に取っては大野九郎兵衛の墓の方が注意を惹いた。墓は大きい台石の上に高さ五尺ほどの楕円形の石を据えてあって、石の表には慈望遊謙墓、右に寛延○年と彫ってあるが、磨滅しているので何年か能く読めない。墓の在所は本堂の横手で、大きい杉の古木を背後にして、南に向って立っている。その傍にはまた高い桜の木が聳えていて、枝はあたかも墓の上を掩うように大きく差出ている。周囲には沢山の古い墓がある。杉の立木は昼を暗くするほどに繁っている。『仮名手本忠臣蔵』の作者竹田出雲に斧九太夫という名を与えられて以来、殆ど人非人のモデルであるように洽く世間に伝えられている大野九郎兵衛という一個の元禄武士は、ここを永久の住家と定めているのである。
一昨年初めて参詣した時には、墓の所在が知れないので寺僧に頼んで案内してもらった。彼は品の好い若僧で、色々詳しく話してくれた。その話に拠ると、その当時この磯部には浅野家所領の飛び地が約三百石ほどあった。その縁故に因って大野は浅野家滅亡の後ここに来て身を落付けたらしい。そうして、大野ともいわず、九郎兵衛とも名乗らず、単に遊謙と称する一個の僧となって、小さい草堂を作って朝夕に経を読み、傍らには村の子供たちを集めて読み書きを指南していた。彼が直筆の手本というものは今も村に残っている。磯部に於ける彼は決して不人望ではなかった。弟子たちにも親切に教えた、色々の慈善をも施した。碓氷川の堤防も自費で修理した。墓碑に寛延の年号が刻んであるのを見るとよほど長命であったらしい。独身の彼は弟子たちの手に因ってその亡骸をここに葬られた。
「これだけ立派な墓が建てられているのを見ると、村の人にはよほど敬慕されていたんでしょうね」と、私はいった。
「そうかも知れません。」
僧は彼に同情するような柔かい口吻であった。たとい不忠者にもせよ、不義者にもあれ、縁あって我が寺内に骨を埋めたからは、平等の慈悲を加えたいという宗教家の温かい心か、あるいは別に何らかの主張があるのか、若い僧の心持は私には判らなかった。油蝉の暑苦しく鳴いている木の下で、私は厚く礼をいって僧と別れた。僧の痩せた姿は大きな芭蕉の葉のかげへ隠れて行った。
自己の功名の犠牲として、罪のない藤戸の漁民を惨殺した佐々木盛綱は、忠勇なる鎌倉武士の一人として歴史家に讃美されている。復讐の同盟に加わることを避けて、先君の追福と陰徳とに余生を送った大野九郎兵衛は、不忠なる元禄武士の一人として浄瑠璃の作者にまで筆誅されてしまった。私はもう一度かの僧を呼び止めて、元禄武士に対する彼の詐わらざる意見を問い糺してみようかと思ったが、彼の迷惑を察して止めた。
今度行ってみると、佐々木の墓も大野の墓も旧のままで、大野の墓の花筒には白い躑躅が生けてあった。かの若い僧が供えたのではあるまいか。私は僧を訪わずに帰ったが、彼の居間らしい所には障子が閉じられて、低い四つ目垣の裾に芍薬が紅く咲いていた。
旅館の門を出て右の小道を這入ると、丸い石を列べた七、八級の石段がある。登降はあまり便利でない。それを登り尽した丘の上に、大きい薬師堂は東に向って立っていて、紅白の長い紐を垂れた鰐口が懸っている。木連格子の前には奉納の絵馬も沢山に懸っている。めの字を書いた額も見える。千社札も貼ってある。右には桜若葉の小高い崖をめぐらしているが、境内はさのみ広くもないので、堂の前の一段低いところにある家々の軒は、すぐ眼の下に連なって見える。私は時々にここへ散歩に行ったが、いつも朝が早いので、参詣らしい人の影を認めたことはなかった。
それでもたった一度若い娘が拝んでいるのを見たことがある。娘は十七、八らしい、髪は油気の薄い銀杏返しに結って、紺飛白の単衣に紅い帯を締めていた。その風体はこの丘の下にある鉱泉会社のサイダー製造に通っている女工らしく思われた。色は少し黒いが容貌は決して醜い方ではなかった。娘は湿れた番傘を小脇に抱えたままで、堂の前に久しく跪いていた。細かい雨は頭の上の若葉から漏れて、娘のそそけた鬢に白い雫を宿しているのも何だか酷たらしい姿であった。私は少時立っていたが、娘は容易に動きそうもなかった。
堂と真向いの家はもう起きていた。家の軒下には桑籠が沢山に積まれて、若い女房が蚕棚の前に襷掛けで働いていた。若い娘は何を祈っているのか知らない。若い人妻は生活に忙がしそうであった。
何処かで蛙が鳴き出したかと思うと、雨はさあさあと降って来た。娘はまだ一心に拝んでいた。女房は慌てて軒下の桑籠を片附け始めた。
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それがいまひとつ面白みに欠けます
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東京風物伝
東京駅
東京駅は
ウハバミの
燃える舌で
市民の
生活を呑吐する
玄関口、
朝は遅刻を怖れて
階段を一足とび
夕は
疲れて生気なく
沈黙の省電に乗る
所詮、悪蛇の毒気に触れて
人々の
痲痺は
不感症なり。
隅田河
隅田河
河上より水は
河下に流るゝなり
天の摂理に従へば
古き水は
新しき水に
押しながされて
海に入るなり
一銭蒸気五銭となり
つひに争議も起るなり
あゝ、忙しき市民のためには
渡るに橋は長すぎ
せつかちな船頭にとつては
水の流れは悠々すぎる、
丸の内
『戦争に非ず事変と称す』と
ラヂオは放送する
人間に非ず人と称すか
あゝ、丸の内は
建物に非ずして資本と称すか、
こゝに生活するもの
すべて社員なり
上級を除けば
すべて下級社員なり。
浅草
汝 観音様よ、
浅草の管理人よ、
君は鳩には豆を我等には自由を――
腹ふくるゝまで与へ給へ、
彼は他人の投げた
お賽銭で拝んでゐた
かゝる貧乏にして
チャッカリとした民衆に
御利益を与へ給へ
地下鉄
昼でも暗い中を
走らねばならない
お前不幸な都会の旅人よ、
地下鉄を走るとき
爽快な風が吹く
でも少しも嬉しくない
政治といふ大きな奴の
肛門の中を走るやうだから
地下鉄は
つまり多少臭いところだ。
銀座
もし東京に裏街といふものが
なかつたら
銀座は日本一の表街だが、
表は表だが
銀座は
医者にひつくりかへされた
トラホームの眼瞼のやうだ
ブツブツと華美で賑やかな
消費の粒が
まつかにただれて列んでゐる
突如
ウヰンドーに
煉瓦を投げつけて
金塊を盗む悪漢現る。
旭川風物詩
師団通り所見
鈴蘭通りの美しさ
北国の夜の街は白痴美
商店街のネオンサインは
光りの瞼をうごかさず
もつとも人生万事
動けば金がかかるからね
でも街を静寂から救ふものは
光りの明滅ではなく
市民が活動的であることだ!
光りも、心も
共に明るい街となれ
我々の旭川よ!
北海ホテルの茶房
北海ホテルの茶房で
僕はひとゝきの旅愁を味ふ
こゝは旭川のジャーナリストの巣で
卓上の桜草をふるはして
打合せをしたり原稿を書いたり
フレー、ジャーナリスト
文化は新聞から
市民のために
精々イキのよい
人生を探しだしてくれよ
火の見やぐら
古き火の見は
時を越えてそゝり立つ
茫漠たる街と原野
夜も昼も見守る
はてもなき展望
こゝで火の番でも勤めたら
相当ながいきが出来さうだ
旭橋の感想
旭橋、橋に掲げられた大額には
『誠』と書れてあつた
この橋をわたるとき
市民は脱帽した
私も敬意を表した
しかし橋や建築師に
私は脱帽したのではない
人間の『誠実』を愛する
こころに脱帽したのだ
愛と、誠実の街
旭川よ!
常磐公園所見
公園の築山にのぼつて
天下の形勢を見れば
池の水ぬるみ
つつじ咲く
軍都にこの平穏あり
ボートの中の仲善い男女
間もなく彼女は
軍人を産むであらう!
東京短信
扇風器の歌
あゝ、扇風器はまはれども
人造の風は悲し
恋をするには
なまぬるく
アクビをするには力なし
夜の喫茶娘
ぼんぼりの下に
彼女は、その
ぼんぼりよりも、ぼんやりと
ぼんやりと、ぼんやりと
青春を流すなり
倦怠
爽やかな
昼は去つた
彼女にだるい――夜が来た
誰か
彼女に
注射を――、
注射を――、
鳩時計
鳩時計
扉をひらいて鳩が出てきた
さてクックッと鳴いたきりで
何んにも報告することが
ないと引退つた
報告のない人生
まさに彼女のいふ通り
池袋風景
池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が
街にでてくる
彼女のために
神経をつかへ
あまり、太くもなく
細くもない
在り合せの神経を――
銀座所感
足は小さく
背は高く
青春短かく
眉長く
靴屋と服屋の見本が通る
浅草流浪人の歌
観音さまに祈らうには
手をうごかせば腹がへる
煙草のない日は
牢獄のごとし
飯のない日は
死のごとし
隅田河
隅田河
腐臭は
水面をただよひ
罐詰のカン、
赤い鼻緒の下駄、
板つきれ、
ぐるりばかりになつた麦藁帽
青い瓶、
などがポカンポカンと浮いてくる
市民の生活の断片と
人間の哀しい運命の破片
波は河岸を
汚れた舌のやうに
ひたびたと舐めてゆく
| 1
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冬の香りがしました
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巍々タリ此石標スルニ杳々超脱ノ詞ヲ以テス嗚呼是レ亡友漱石ヲ追懷セシムルモノニアラズヤ漱石明治四十三年此地菊屋ニ於テ舊痾ヲ養フ一時危篤ニ瀕スルヤ疾ヲ問フ者踵ヲ接ス其状權貴モ如カザルモノアリ漱石ノ名聲四方ニ喧傳セルハ實ニ此時ニアリトス蓋シ偶然ノ運行ニ因ルト雖モ忘ルベカラザルコトナリ夫レ病ハ身ヲ化シ身ハ心ヲ制ス漱石生死ノ間ニ彷徨シテ性命ノ機微ヲ捕捉シ知察雋敏省悟透徹スルトコロアリ漱石ノ思想ノ轉向躍進ヲ見タルハ亦實ニ此時ニアリトス固ヨリ必然ノ結果ニ屬スト雖モ忘ルベカラザルコトナリ漱石ノ修善寺ニ於ケル洵ニ名ト實ト共ニ忘ルベカラザルモノヲ得タリ漱石逝キテヨリ茲ニ十七年此地ノ有志相謀リ其忘ルベカラザルモノヲ明カニシ併テ仰慕ノ至情ヲ表セント欲ス乃チ碑ヲ公園ニ建テ漱石當時排悶ノ一詩ヲ勒ス字ハ之ヲ擴大セルモノ由テ以テ片鱗ヲ存シ記念ト爲スニ足ル顧フニ漱石深沈ニシテ苟合セズ靜觀シテ自適ス往々流俗ト容レザルモノアリ彼若シ知ルコトアラバ又此碑ヲ以テ贅疣ト爲サンノミ然リト雖モ贅疣尚ホ能ク衆目ヲ牽ク天地ノ裕寛ナル其用ヲ認ムルニ吝ナラザルナリ況ヤ此碑ニ於テヲヤ敢テ需ニ應ジテ碑陰ニ記スト云フ
昭和八年四月
狩野亨吉識
菅虎雄書
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Hard
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1
眞實の道は一本の繩――別に高く張られてゐるわけではなく、地上からほんの少しの高さに張られてゐる一本の繩を越えて行くのだ。それは人々がその上を歩いて行くためよりも、人々がそれに躓くためにつくられてゐるやうに思はれる。
2
すべての、人間の過失は、性急といふことだ。早まつた、方法の放棄、妄想の妄想的抑壓。
3
凡ての他の罪惡がそこから生ずる根元的な罪惡が二つある。性急と怠惰。性急の故に我々は樂園から追出され、怠惰の故に我々はそこへ歸ることができぬ。併しながら、恐らくはたゞ一つの根元的な罪惡があるのみであらう。性急。性急の故に我々は追放され、又、性急の故に我々は歸ることができない。
4
死んだ人々の影の多くは、死の河の波を啜ることにのみ沒頭してゐる。何故といつて、死の河は我々の所から流出してゐて、なほ我々の海の鹽の味がするからだ。かくして、河は、胸をむかつかせ、逆流して、死人共を再び生に掃きもどす。併し、彼等は狂喜し、感謝の頌歌を唱へ、そして、憤激せる河を抱擁するのである。
5
ある點からさきへ進むと、もはや、後戻りといふことがないやうになる。それこそ、到達されなければならない點なのだ。
6
人類の發展に於ける決定的な瞬間とは、繼續的な瞬間の謂である。此の理由からして、彼等の前のあらゆるものを、無なり、空なり、とする、革命的運動は正しい。何となれば、實際には何事も起らなかつたのであるから。
7
惡魔の用ゐる最も有效な誘惑術の一つは爭鬪への挑戰である。それは女との鬪ひに似てゐる。所詮は寢床の中に終るのだ。
8
Aはひどく自惚れてゐた。彼は、自分が徳性に於て非常な進歩を遂げたと信じてゐた。といふのは、(明らかに、彼がより挑戰的な人間になつたためであるが)彼が、今迄知らなかつた種々な方面から、次第に多くの誘惑が攻めてくるのを見出すやうになつたからだ。だが、本當の説明は、より強力な惡魔が彼を捕へ、さうして、より小さい惡魔共の宿主が、より偉大な惡魔に仕へるために走つて行つたといふことである。
9
人間が、たとへば、一個の林檎について抱き得る觀念の多樣性。單に卓子の上にあるそれを見るためのみにも、その頸をのばさなければならない小兒の眼に映じた苹果と、それを取上げ、主人らしい品位をもつて客の前に差出す、一家の主人の眼に映じた苹果と。
10
智識發生の最初の徴候は、死に對する希求である。此の人生は堪へがたく見える。あるひは到達しがたく見える。人はもはや、死を望むことを恥としない。人は、彼の嫌ふ古い住家から、彼のなほ嫌はねばならぬ新しい住家へと導かれることを祷る。このことの中には、ある信仰の痕跡がある。その推移の間に、偶〻「主」が廊下傳ひに歩いてこられて、この囚人を熟視し給ひ、さて、「此の男を二度と監禁してはならぬ。此の男は余の許に來べきものだ。」とおほせられるかも知れない、信仰の痕跡がある。
11
(以下缺)
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Xが地球にやさしい
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Easy
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女は、窓に向いて立っていた。身じろぎさえしない。頬には涙のあと。
「……ね。……思い返して呉れませんか。……もう一度。……。ね」
男は、荷造りの手をまた止めた。
女はうしろを向かなかった。女の帯の結び目を見上げていた男の眼から、大粒な涙が滴った。かすかな歔欷。
女はまだうしろを向かなかった。女の涙の痕へまた新らしい涙の雫が重なった。
男は立って行って、女の傍へ寄った。この十日程のなやみで、げっそり痩せた女の頬。男の顎もまた無慙に尖ってしまったのを女は見た。
窓の外の樹々の若葉が、二人の顔や体に真青に反映した。
「駄目? え?」
男の逞ましい手が、女の肩にやわらかく触った。女は、けわしい眼をした。
「幾度言ったって同じですわ」
女は、けわしい眼を直ぐに瞑った。そして、男から少し顔をそむけた。新らしい涙がまた……。
「…………」
「…………」
男はまた力なく、荷造りを始めた。
「××ちゃん」
男は女の名を呼んだ。不用意に女は後を向いた。
行李の前へしゃがんだまま、男は一抱えの書物を女に示した。
「もう、これを入れれば、すっかり荷造りが出来るんです、けど、も一度……」
女は、男の抱えている書物をみつめた。女は、体ごと男の方を向いてしまった。
男は書物を床の上に置いて立ち上った。そして、傍の椅子に腰かけた。今一つの椅子へ女を招んだ。女はだまってそれに掛けた。
ピアノや、大きな書架や、古びたデスクや、壺が、男と女のまわりにあった。足下には、男の造った三つの行李と、最後に手がけていた蓋のしかけた行李が一つ。
男は女の赤いスリッパの爪尖を見ながら言った。
「僕はどうしたって駄目なんです。こうやって荷造りなんかしたっても、あなたに離れて行くことなんか、とても出来ない」
「…………」
「ね、も一度、おもい返して呉れない。そして兄さんに僕を置いて下さるようにって、頼んで呉れない?」
「思い返すも返さないも……もう、いくら考え抜いて斯うなったんだか分りゃしないのに……」
女の言葉は末が独白になった。
「そりゃそうだけれど、そりゃそうに違いないけれど……」
男は唇を顫わせながら、女の顔を見た。女の唇も顫えている。
「それに、いくら考えたって、兄さんに言われたより本当のことは無いでしょう。わたし達には」
二人で死ぬか、別れるか。どちらか一つを採れ。と女の兄は、いつものおだやかな顔に凜々しい色を見せてきっぱり言った。
男と女の恋が女の兄に許されて、男が女の家に来て棲んでから三年になる。男は、多感なだけに多情だった。男のまれな美貌と才能に多くの女が慕い寄った。女を深く愛しながら、男は外の女をも退けかねた。男が二人目のほかの女を隠し持ったのが知れた時、女は発狂してしまった。女の体と心が無慙に苦しみ抜いた。
三度目に、男がほかの女と交換していた手紙の束を女に見出されたのは、女の発狂が癒って一年ばかり後のつい先頃だった。
女の悲しみや怒りが、男と女の間を最後の場面に追い込めた。これは男にとっても女にとっても、大問題であった。この大きな問題に面接した驚きの為めに、男が、ほかの女に向けていた男の一部分の感情は打ちひしがれて、男はただ、この女ばかりを真正面に見つめてしまった。女の怒りや悲しみのなかに色々複雑な感情が交った。別離。執着。昏迷。当惑。
兄は男を憎みはしなかった。しかし多情な性質を見きわめた。
「一緒に死ぬか、別れるか」
多情な男と棲むことは、女の一生の苦しみであり、一人に愛を強要する女の為めにも男は悩み通さねばならないと兄は助言した。
ところで、二人は一緒に死ねなかった。死ぬほどの熱情を男も女も失っていた。只、死に度いとは、あせりにあせった。夜も眠らず、昼も食べずに。しかし仇な努力であった。別れる日が来た。女は離愁に堪えられなかった。この辛さもみんな男の多情からだと、一さいの後の怒りがまた女によみがえった。男はまた何が何でも元通り女と一緒に棲んで行き度いと願った。
が、別れるのが、やっぱり二人の運命だった。いよいよ別れる時が来た。男の荷造りもすっかり終った。
二人はいきなり抱き合った。泣きに泣いた。泣き入った。怒りも絶望も、愛執も離愁も一つに籠めて。
やがて二人は泣き疲れた。二人は黙って、離れ離れに椅子へ倚った。
開け放された窓が二人の眼の前に在った。二人は殆ど同時に溜息をした。疲れた空洞のような眼が、ひとしく窓へ向けられた。
窓! 窓!
二人は二人の始めから、この窓に就いての多くの思い出を持っている。男の頭に今、ひらめいたその一つ、――真赤な夕焼空に、ぱらぱらと幾つもの鳥が真黒に飛んでいた。それを男はじっとこの窓から見ていた。寒い木枯が、さっと吹き込んでも、男は窓を閉めなかった。男はペンキの少し剥げたこの窓框へ肘を突いて立っていた。その頃はまだ、二人の恋は、女の兄に知られなかった。男は女の客として、女の部屋に通されていた。
女はなかなか二階へ上って来なかった。女の兄の画室で、ごとごとと音がしていた。「兄の画筆でも洗っているかな」不具で妻も持てない兄に侍して婚期をも後らした女を、男はあわれに思った。が、先刻から随分待たされた。男はいらいらしていた。一つの鳥が、群を離れてあちらの森へ飛んで行く……それを淋しく男は眺めた。「自分の恋が、女の兄に容れられようか……」
男はだんだん淋しくなった。どこか遠くで、かすかな長い汽笛の音。男は旅を思った。女を連れて、どこかの果てへ遠く旅立ってしまおうか……。
女は、ある真夏の夜半のことを思っていた。突然に、けたたましい半鐘の音。男が先ず起きて窓を開けた。「火事。火事です。Xの森だ」
男が半開きにした磨硝子の窓には火焔の反映が薄赤く染っている。女は寝乱れた髪もそのまま、男と並んで半身を窓から出した。Xの森は窓から三丁ばかり離れた右手の方に在った。ずんずん開けて行く大都市のはずれに一廓、ここばかりはそのままに保存されている或る旧大名屋敷の後庭となっていたところ。太古のような老樹の森林。そのXの森の中に一棟、森の老樹と同じような古色を帯びて立っている小さな茶室――今は茶室として使われていない。只、取残された昔のかたみとして、なかば朽ちている軒が、かすかに樹間を通して外から気味悪く窺われていた。――が焼けるのだと、窓の下をわめいて行きちがう人の声々で知った。
ぱしゅ、ぱしゅ。ぱち、ぱち、ぽん。ぽ、ぽん。どしん‼ 火勢がすさまじい音を立てて募って行った。
夜になっても灯ひとつ点されたためしのない処から、どうしてあのすさまじい火が出たか。「怪火⁈」咄嗟の間に女の頭を掠めて行った恐怖が、女を激しく戦慄させた。
「大丈夫、河からこっちへ来るもんですか」
男は女をなだめた。女は諾いた。水を深く湛えた広い河が、森をめぐって流れていた。一たん盛り上った火の子が、みな素直に河へ落ちて行った。風がすこしもないからであった。女はだんだん落着いて行った。そして、火事場と周囲の対照を、静かに見較べることが出来るようになった。
空には月があった。しかし、真珠のように小さくて薄かった。かすかな瑠璃色がようやく空一面と空間の或る部分にまで行きわたり、下界にまでは光がとどかなかった。森はいやが上にも黒かった。翼のように、舌のように、逆に梳る女頭のように、火は焔になり、焔は幾条の筋をよって濛々とした黒煙に交り、森から前後左右に吐き出された。
が、空はやはり澄んでいた。そのほのかな瑠璃色の落着きが却って下界のひとところの――真黒な森の狂異を気味悪く見せる。
やがて、火は余程に静まった。其処に集る人々の提灯の火が目立つほど、森の中心の火は衰えた。と。どうした火の躓きか、けたたましい一つの爆音と共に、一団の煙が空を目がけて飛び上り、そして忽ちに霧散した。その拍子に一挺の金簪のような鋭い火線が、爆竹色に霧散して月の面を掠める煙の中に鋭くひらめいた。
「あっ」
女は叫んで窓を閉めた。とたんに女の体が麹のように躍って、右手が男の頬をはっしと打った。異様な火のひらめきに刺戟され、その夜の就寝前、女の激しい妬情が、発作的によみがえったのである。男の眼は光った。そしてぎくりと立って女に向った。女も自分の狂暴に自分で愕いた。そして、呆然と自失して暫く男に向い立っていた。
だが、ほとばしる嗚咽と共に男の胸に顔を埋めた女――男に謝する女の心、男を恨む女の心。女はいつまでもそのまま嗚咽を続けた。
やがて窓にはしらじらと暁の明りがさして来た。火事場の騒ぎはしんと静まって、どこかで朗かな鳥の声が聞えた。
表の門扉の鈴がけたたましく鳴って、男を乗せて去る俥が来た。
絶望の溜息と共に二人は同時に椅子を立った。と、どちらからともなく、つと寄った――。圧搾された「最後」の力で二人は強く抱き合った。
去って行く男の俥上の後姿が、二三丁離れた路角の大欅の下に見えた。新らしい麦藁帽が、欅の新緑を洩れる陽にちかちかと光った。それもまた見えなくなった。窓に寄った女の眼の前には、不具な兄をたすけて、これからまた自分の辿るべき涯しもない灰色の道が長く浮んで見えた。
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東京第一の射的場なる戸山の原、あちにも、こちにも、銃聲ぱち〳〵。臥してねらふ兵士、立ちて列をなして射撃にとりかゝらむとする兵士、部下を集めて射撃の講釋をなす士官、午後の暑さをよそに、とり〴〵、汗を流して活動し、喇叭の聲やかましく、走る馬に塵たつ中を通りぬけて、ほつと一息す。寺の名は、亮朝院、神佛混淆の痕跡、七面大明神の額に殘れる堂前に、石の仁王あり。左の仁王に榜して、『この石像をたゝくべからず』としるせり。知らぬものは訝かるべく、好奇心を起すべし。右の仁王をたゝけば、こつ〳〵と石の音し、左の仁王をたゝけば、かんかんと金の音す。これは不思議と、物ずきのもの、つどひ來ては、石にてたゝくに、これでは、仁王の身も、終に破滅すべしと氣づかひて、かくは禁札をたてたるものと見ゆ。去年までは、こんな禁札は無かりきなど、先達ぶりで、説明するもの也。さて、何故に、金の音がするかは、言はぬが、お慰み〳〵。
雜司ヶ谷の鬼子母神に到る。繁昌は、稻荷の佛化せる威光天に侵されて、子授銀杏、むなしく偉大也。こゝなる石の仁王は、御利益ありと見えて、赤き紙片ひら〳〵貼りつけられたり。大欅の竝木は、東京に、その類なき奇觀なるが、餓鬼道の亡者には、名物の燒鳥あるべし。
雜司ヶ谷の墓地を過ぐ。青山、谷中、染井、その次には、こゝが數へらるゝ墓地なるが、名士の墓は、見當らず。木蔭の砂利路、さまで、きたなからざるに、横臥して休息す。見上ぐれば、われを蔽へる五六本の欅、可成り高く枝しげる。處々、枯枝あり。上なる枝に、頭をおさへられて、日光をうくるに由なきを以て、いづれも斯くは枯朽せる也。觀ずれば、一本の中にも、人生あり。優者は存し、劣者は亡ぶ。進取なる哉。人は死ぬるまでも、進取せざるべからず。さは云へ、進取にも、種類あり。世俗、一般には、利と權とのある處、廉恥なく、同情なく、下司の根性を逞しうして、他を押倒し、踏みしだき、殘忍非道の行ひをなして平氣なるもの、物質界の成功者となる。苟くも精神界の趣味を解し、物のいはれを知れる者は、渇しても盜泉の水は飮まず。盜賊一味の輩と伍を爲して、物質界の成功を得るに忍びざる也。その枯るゝは、眞に枯るゝに非ず、物質界に屈して、精神界に伸ぶる也。
下枝を枯枝にして青葉かな
音羽の護國寺の境内を逍遙す。形勝の雄、都下に冠たり。堂宇の壯も、都下にては、十指の中に入るべし。たゞ四周の欄干にあるべき筈の擬寶珠すべて無くして、みすぼらし。まさか、和尚が鼻の下の建立にあてたるものにはあらず。必ずや、盜賊がぬすみ去りしものなるべしなど、入らぬ心配をして、征露記念塔に到れば、四天王の銅像無し。これも盜賊に奪はれたるにや。それとも盜難を恐れて、他に藏せるにや。
緑陰や釋迦牟尼佛の像高し桃葉
川越街道を横切りて、路を王子に取る。東京の膨脹、こゝにも及びて、新築の小さき家ならび連なる。中に一軒、勸工場式、むしろ、ハイカラ式といふべき店ありて、唐物の類を賣り、垢ぬけしたる女、流行の二百三高地ならで、ゆひたての舊式の高髷つやゝかに、店頭に新聞を讀む。これは場所に似合はずと、いぶかりつゝゆくに、路傍に下宿屋多く、幾んど下宿屋毎に『有空房』の三字の貼り札あり。路づれの桃葉、これを見て、『普通の明間ならよけれど、空房では、空閨が聯想せらる』といふのに、はじめて氣が付き、下宿人は支那人なるべしとて、名札を見るに、すべて支那人也。それで、空房の漢語も讀めたれば、場所に似合はぬ唐物屋も、よめたり。なほ進めば、宏文學院の巣鴨別校ありて、その門前には、支那料理店も控へたり。支那の學生は、幸か不幸か。このあたりは支那學生の爲に榮ゆ。啻にこのあたりのみならず、數萬の支那學生を收容して、東京の一部は、爲に賑へり。過日、めづらしき、孔子祭が行はれたるが、これ表面には、ちやんと、日本人が孔子を祀るべき理由あり。されど、裏面に、支那人の機嫌をとらむとする小刀細工あるは、孔子祭の發起人のおもなるものが、支那學生教育家のおもなる者なるを見ても、わかること也。有つても、害は無し。孔子は、かつがれても、不平は無かるべし。
飛鳥山に上る。山一面、葉櫻に蔽はれたり。眺望も、亦蔽はれたり。そのために、煤烟天を焦す幾多の烟突も蔽はれて、却つて、うれしき心地す。老松の下に老婆の茶を賣るも、場所にふさはしく、春の熱閙にひきかへて、夏は幽靜清凉の地也。
花の山青葉になりぬ茶の畑
王子神社へとて、山を下る。一條の川、堰ありて、水、四條に流る。他に、其類まれ也。この川、このあたりは音無川と稱す。三寶寺池より發する石神井川也。有名なる瀧野川の楓は、四五町ばかり上流に在り。その瀧野川は、世人、往々、川の名と思へど、村の名なり、川の名にはあらず。崖を攀づれば、王子神社あり。拜殿の前に、四方あけはなしの舞殿あるは、東京にては、幾んど、其比を見ず。樓門をひかへて、末社多く、ありとあらゆる屋宇、みな朱塗にして、緑陰の中に、燦然として、光彩を放てり。『土足のまゝにて上るべからず』、『堂内にて午睡すべからず』など、制札多く、その上にも、『神前結婚式、有志諸士の爲に之を行ふ。其順序方法は社務所に聞合せられたし』といふ札もあり。さりとは、粹な神樣かな。今、二十年も早からば、來りて、御世話にあづからむものを。あゝ、われは老いたり。君等はいかにと云へば、同行、皆、苦笑す。
田端停車場へとて、道灌山下を歩す。田にも、森にも、暮烟たなびきて、日暮れむとす。一望蒼々たる水田より、一群の白鷺とびたち、杳々として、去つて暮色の中に沒す。
白鷺の青田離るゝ夕哉桃葉
停車場に近づけば、役宅多し。かひ〴〵しく、水をくみて運びゆく女もあれば、買物風呂敷さげて歸る女もあり。其中に、年まだ若く、湯上り姿の新しき女、塀に倚りて立てるは、夫の歸りを待つにや。
蚊柱や新粧の女門にたつ
(明治四十年)
| 0.45
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Medium
| 0.659
| 0.267
| 0
| 0.462
| 2,428
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久保田万太郎君の「しるこ」のことを書いてゐるのを見、僕も亦「しるこ」のことを書いて見たい欲望を感じた。震災以來の東京は梅園や松村以外には「しるこ」屋らしい「しるこ」屋は跡を絶つてしまつた。その代りにどこもカツフエだらけである。僕等はもう廣小路の「常盤」にあの椀になみなみと盛つた「おきな」を味ふことは出來ない。これは僕等下戸仲間の爲には少からぬ損失である。のみならず僕等の東京の爲にもやはり少からぬ損失である。
それも「常盤」の「しるこ」に匹敵するほどの珈琲を飮ませるカツフエでもあれば、まだ僕等は仕合せであらう。が、かう云ふ珈琲を飮むことも現在ではちよつと不可能である。僕はその爲にも「しるこ」屋のないことを情けないことの一つに數へざるを得ない。
「しるこ」は西洋料理や支那料理と一しよに東京の「しるこ」を第一としてゐる。(或は「してゐた」と言はなければならぬ。)しかもまだ紅毛人たちは「しるこ」の味を知つてゐない。若し一度知つたとすれば、「しるこ」も亦或は麻雀戲のやうに世界を風靡しないとも限らないのである。帝國ホテルや精養軒のマネエヂヤア諸君は何かの機會に紅毛人たちにも一椀の「しるこ」をすすめて見るが善い。彼等は天ぷらを愛するやうに「しるこ」をも必ず――愛するかどうかは多少の疑問はあるにもせよ、兎に角一應はすすめて見る價値のあることだけは確かであらう。
僕は今もペンを持つたまま、はるかにニユウヨオクの或クラブに紅毛人の男女が七八人、一椀の「しるこ」を啜りながら、チヤアリ、チヤプリンの離婚問題か何かを話してゐる光景を想像してゐる。それから又パリの或カツフエにやはり紅毛人の畫家が一人、一椀の「しるこ」を啜りながら、――こんな想像をすることは閑人の仕事に相違ない。しかしあの逞しいムツソリニも一椀の「しるこ」を啜りながら、天下の大勢を考へてゐるのは兎に角想像するだけでも愉快であらう。
(二、五、七)
| 0.454
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Medium
| 0.6
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| 0.309
| 0.666
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夏の晩方のことでした。一人の青年が、がけの上に腰を下ろして、海をながめていました。
日の光が、直射したときは、海は銀色にかがやいていたが、日が傾くにつれて、濃い青みをましてだんだん黄昏に近づくと、紫色ににおってみえるのでありました。
海は、一つの大きな、不思議な麗しい花輪であります。青年は、口笛を吹いて、刻々に変化してゆく、自然の惑わしい、美しい景色に見とれていました。
「昨夜も同じ夢を見た。はじめは白鳥が、小さな翼を金色にかがやかして、空を飛んでくるように思えた。それが私を迎えにきた船だったのだ。」
青年は、だれか知らぬが、海のかなたから自分を迎えにくるものがあるような気がしました。そして、それが、もう長い間の信仰でありました。この不自由な、醜い、矛盾と焦燥と欠乏と腹立たしさの、現実の生活から、解放される日は、そのときであるような気がしたのです。
「おれは、こんな形のない空想をいだいて、一生終わるのでないかしらん。いやそうでない。一度は、だれの身の上にもみるように、未知の幸福がやってくるのだ。人間の一生が、おとぎばなしなのだから。」
彼は、ロマンチックな恋を想像しました。また、あるときは、思わぬ知遇を得て、栄達する自分の姿を目に描きました。そして、毎日このがけの上の、黄昏の一時は、青年にとってかぎりない幸福の時間だったのであります。
奇蹟が、あらわれるときは、かつて警告というようなものはなかったでしょう。そして、それは、やはり、こうした、ふだんの日にあらわれたにちがいありません。
青年は、今日もまた空想にふけりながら、沖をながめていました。ふと、その口笛は止まって、瞳は水平線の一点に、びょうのように、打ちつけられたのです。いましも、金色に縁どられた雲の間から、一そうの銀色の船が、星のように見えました。そして、その船には、常夏の花のような、赤い旗がひらひらとしていました。
「あの船だ!」
青年は、夢の中で見た船を思いだしました。とうとう、幻が現実となったのです。そして幸福が、刻々に、自分に向かって近づいてくるのでありました。
見ていると、銀色の小舟は、波打ちぎわにこいできました。入り陽が、赤い花弁に燃えついたように、旗の色がかがやいて、ちょうど風がなかったので、旗は、だらりと垂れていました。船の中で、合図をしているように思われました。彼は、がけをおりようかと思いましたが、ほんとうに、自分を迎えにきてくれたのなら、何人か、ここまでやってくるにちがいない。すべて、運命や奇蹟というものは、そうなければならぬものだと考えられたからであります。
それで、彼は、じっとして見守っていました。船から、人がおりて、汀を歩いて、小さな箱を波のとどかない砂の上におろしました。そして、その人影は、ふたたび船にもどると音もなく、船はどこへともなく去ってしまったのです。
青年は、赤い旗が、黄昏の海に、消えるのを見送っていました。まったく見えなくなってから、彼はがけからおりたのであります。砂の上に、ただ一つ、黙って置かれている、小さな箱の方に向かって歩きました。小さな黒い箱は、すぐ近くになりました。このとき、思いがけなく、白いひげをのばした老人が、そばから、青年に呼びかけたのです。
「若いの、あの箱を拾う勇気があるかの。」
おじいさんの言葉は、なんとなく、意味ありげでした。
この刹那、青年の頭のうちには、幸福と正反対の死ということがひらめいたのでした。
「おれは、まだ死んではならない。もうすこしで、あぶないものをつかむところだった!」
彼は、せっかく、箱に近づいたかかとを、後方に引き返しました。ふり向くと、夕闇の中に、老人の姿は消えて、黒い箱だけが、いつまでも砂の上にじっとしていました。
夜中に、目をさますと、すさまじいあらしでした。海は、ゴウゴウと鳴っていました。青年は、待ちに待った船が、遠くから持ってきてくれた箱のことを思い出しました。
「あの箱の中には、なにがはいっていたろう?」
夜の明けるのを待ちました。やがて、あらしの名残をとめた、鉛色の朝となりました。浜辺にいってみると、すでに箱は波にさらわれたか、なんの跡形も残っていません。
その後青年は、この話を人にしました。
「君は、夢を見たのだ。」と、だれも信じてくれませんでした。そのうちに、彼の青春も去ってしまったのであります。
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僕はバスで学校に行きます。
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金沢の方言によれば「うまさうな」と云ふのは「肥つた」と云ふことである。例へば肥つた人を見ると、あの人はうまさうな人だなどとも云ふらしい。この方言は一寸食人種の使ふ言葉じみてゐて愉快である。
僕はこの方言を思ひ出すたびに、自然と僕の友達を食物として、見るやうになつてゐる。
里見弴君などは皮造りの刺身にしたらば、きつと、うまいのに違ひない。菊池君も、あの鼻などを椎茸と一緒に煮てくへば、脂ぎつてゐて、うまいだらう。谷崎潤一郎君は西洋酒で煮てくへば飛び切りに、うまいことは確である。
北原白秋君のビフテキも、やはり、うまいのに違ひない。宇野浩二君がロオスト・ビフに適してゐることは、前にも何かの次手に書いておいた。佐佐木茂索君は串に通して、白やきにするのに適してゐる。
室生犀星君はこれは――今僕の前に坐つてゐるから、甚だ相済まない気がするけれども――干物にして食ふより仕方がない。然し、室生君は、さだめしこの室生君自身の干物を珍重して食べることだらう。(昭和二年四月)
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ペンを貸していただけますか。
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あれはマニアの間でしか流通していない
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私はわざわざガスで鍋に湯を沸かしました
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さあ、心のとびらを開きましょう
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Xが14ページに御座います
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人生は戦争の歴史なり。刀鎗銃剣は戦争にあらず。人生即ち是れ戦争。世を殺せし者必らずしも虚栄に傲る勝利者のみにはあらじ、力ある者は力なき者を殺し、権ある者は権なき者を殺し、智ある者は智なき者を殺し、業ある者は業なき者を殺し、世は陰晴常ならず、殺戮の奇巧なるものに至つては、晴天白日の下に巨万の民を殺しつゝあるなり。銃鳴り剣閃めき、戦血地を染め、腥風草樹を槁らすの時に、戦争の現状を見る、然れども肉眼の達せざるところ、常識の及ばざるところに、閃々たる剣火は絶ゆる時なきなり。
人の性は不調子なり、人の命は不規律なり、争ふ事を好むは猿猴よりも多く、満足する事能はざるは空の鳥に学ばざる可からざるが如し、是非曲直を論ずれども、我利の為に立論するの外を知らず、正邪真偽を説けども、遂に成覚の見を養ひし事なし、知らず、人間の運命遂にいかならむ。再び猿猴に返らんとするか。
われ庭鳥の食を争ふを見る、而して争ふ時には常に少者の逃走するを見る、少者は母鶏の尤も愛する者なり、而して慾の即時に於ては、尤も愛する者も尤も悪む者となり、最後、尤も劣れるもの、尤も敗るゝ者となる。これ天則か。天則果して斯の如く偏曲なる可きか。請ふ、行いて生活の敗者に問へ、新堀あたりの九尺二間には、迂濶なる哲学者に勝れる説明を為すもの多かるべし。
冷淡なる社界論者は言ふ、勝敗は即ち社界分業の結果なり、彼等の敗るゝは敗るべきの理ありて敗れ、他の勝者の勝つは勝つべきの理ありて勝つなり、怠慢、失錯、魯鈍、無策等は敗滅の基なり、勤勉、力行、智策兼備なるは栄達の始めなりと。
われは信ぜず、天地の経綸はひとり社界経済の手にあるを。見ずや、栄達の中にも苦悩あるを、敗滅の中にも希望あるを。栄達必らずしも勝つにあらず、敗滅必らずしも敗るゝにあらず、王侯の第宅必らずしも福神を宿すところなるにあらず、茅舎の中、寒燈の下、至大なる清栄を感謝するものもあるなり。今日のみ凡ての問題の立論点ならば知らず、昨日を知り、又た明日を知るを得ば、勝敗が今日の貧富貴賤を以て断ず可からざる事は明白ならむ。
社界経済の外に吾人を経綸する者あり、吾人は分業の結果を以て甘心する事能はざるの性を有す、吾人は遂に希望を以て生命とするの外あらざるなり。今日は吾人の永久にあらず。今日は吾人の明日にあらず、言を換へて解けば、吾人は今日の為に生きず、明日の為に生くるなり、明日は即ち永遠の始めにして、明日といへる希望は即ち永遠の希望なり。希望は吾人に囁きて曰ふ、世は如何に不調子なりとも、世は如何に不公平、不平等なりとも、世は如何に戦争の娑婆なりとも、別に一貫せるコンシステント(調実)なる者あり。人生のいかに紛糾せるにも拘らず、金星は飛んで地球の上に堕ちざるなり、彗星は駆けつて太陽の光りを争はざるなり。大宇宙に純一なるコンシステンシイあるは、流星の時に地上に乱堕するを以て疑ふに足らざるなり。江海の水溢れて天に注ぐ事なく、泰山の土長く地上に住まることを知らば、地上にも亦たコンシステンシイの争ふ可からざる者あるを悟らざらめや。何をか調実の物と言ふ、マホメット説けり、釈氏説けり、真如と呼び、真理と称へ、東西の哲学者が説明を試みて止ざる者即ち是なり。而して吾人は之を基督といふ。基督にありて吾人は調実を求め、基督にありて吾人は宇宙の経綸を知る。ナザレのイヱスは真理を説きたるにあらず、真理にして真理を発顕したる者なり。
基督の経綸には社界分業の法則あらざるなり。社界経済は人間の労苦より起りて、弥縫の策に過ぎず、彼と此とを或仮説の法則の下に、定限ある時間の間撞突なからしむるのみ。経済上の問題として世を経営するは寸時の方策のみ。基督の経綸は永遠なり。未来あらず、現在あらず、過去あらざるなり。凡ての未来、凡ての現在、凡ての過去は彼に於て一時のみ。もし天地間、調実なるものひとり彼ありとせば、心を虚うして彼の経綸策を講ずる者、豈智ならずや。
吾人は聞けり、基督は愛なりと。
吾人は聞けり、基督は今も生けりと。
吾人は聞けり、基督は凡ての人類と共にありと。
凡ての人類と共にあり、限りなきの生命を以て限りなきの愛を有する者、基督なりとせば、天地の事、豈一の愛を以て経綸すべしとなさゞらんや。紛糾せる人生もし吾人をも紛糾の中に埋了し去らば、吾人も亦た※(月+(「亶」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」))血を被ぶるの運を甘んずべし、然れども希望の影吾人を離れざる間は、理想の鈴胸の中に鳴ることの止まざる間は、吾人は基督の経綸を待つに楽しきなり。
博愛は人生に於ける天国の光芒なり、人生の戦争に対する仲裁の密使なり、彼は美姫なり、この世の美くしさにあらず、天国の美くしさなり、死にも笑ひ、生にも笑ふ事を得る美姫なれども、相争ひ相傷くる者に遭ひては、万斛の紅涙を惜しまざる者なり。味方の為に泣かず、敵の為に笑はず、天地に敵といふ観念なく、味方といふ思想あらざるなり。基督が世に遣れる政治家は即ち彼なり。
世は相戦ふ、人は相争ふ、戦ふに尽くる期あるか。争ふに終る時あるか。殺す者は殺さるゝ者となり、殺さるゝ者は再た殺す者となる。勝と敗と誰れか之を決する。シイザルの勝利、拿翁の勝利、指を屈すれば幾十年に過ぎず、これも亦た蝴蝶の夢か。誰れか最後の勝利者たる、誰れか永久の勝利者たる。
不調実にして戦争の泉源なりとせば、調実は平和の始めなり。争はず戦はざる事を得るはひとり調実なりとせば、終に勝たず終に敗れざる者、ひとり調実のみならむ。終に勝たず終に敗れざる者は、真に勝つものにあらざるを得んや。故に曰く、最後の勝利者は調実なりと。調実、言を換ゆれば真理、再言すれば基督。
来れ、共に基督の旗に簇まらむ。われら最後の勝利者に従ひ、以てわれらの紛糾せる戦争の舞台を撤去せむ。平和は、われらが基督にありて領有する最後の武器なり。
(明治二十五年五月)
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前に村井弦斎のわた抜きあゆの愚を述べたが、あゆは名が立派だけにずいぶんいかがわしいものを食わせるところがある。そうしたインチキあゆのことを、少し述べよう。
東京ではむかし生きたあゆは食えなかった。生きたあゆどころか、はらわたを抜き取ったあゆしか食えなかったので、解釈によっては、昔の東京人はインチキあゆばかり食っていたのだといえないこともない。
そこへいくと、京都は地形的に恵まれているので、昔から料理屋という料理屋は、家ごとにあゆを生かしておいて食わせる習慣があった。料理屋ばかりでなく、魚屋が一般市民に売り歩く場合にも生きたあゆを売っていたくらいだ。
わたしたちの子供の時分によく嵯峨桂川あたりからあゆを桶に入れて、ちゃぷんちゃぷんと水を躍らせながらかついで売りに来たものである。このちゃぷんちゃぷんと水を躍らせるのに呼吸があって、それがうまくゆかぬとあゆはたちまち死んでしまう。これがあゆ売りの特殊な技術になっていた。
そんなわけで、わたしはあゆを汽車で京都から運ぶ際に担い桶をかついだまま汽車に乗り込ませ、車中でちゃぷんちゃぷんをやらせたものであった。もちろん駅々では水を替えさせたが、想い起こしてみると、ずいぶんえらい手間をかけて東京に運んできたものである。たかだか二十五、六年前のことだが。
しかし、いずれにしても、あゆをそういう工夫によって長く生かしておくわけにはゆかない。本当の生簀でもあゆを入れておくと、どうしても二割ぐらいは落ちるものが出てくる。これとても食えないことはないが、味がまずい。単にまずいばかりでなく、第一塩焼きにしても艶がなく、見た目にも生き生きしていないから料理にならない。そこで料理屋はこれにタレをつけて照り焼きに仕上げるのである。まさかこればかりを客に出すわけにもいかないから、活あゆの塩焼きといっしょにして「源平焼きでございます」などといって出す。それを知らないで、中には自分の方から源平焼きをくれなどと注文して料理屋を喜ばす半可通もないではなかった。
半可通といえば、東京にはもっとひどい話があった。なんでも大正八、九年の好況時代のことだ。日本橋手前のある横丁に、大あゆで売り出した春日という割烹店があった。これは多分に政策的な考えからやっていたことであるらしい。ところが、このあゆが非常に評判になった。一時は春日のあゆを食わなければ、あゆを語るに足りないくらいの剣幕であった。しかも、会席十円とか十五円とか好況時代らしい高い金を取っていたのであるから、馬鹿な話だ。なにしろ世間の景気がよくて懐に金がある。そこへ持ってきて、大あゆなるものが東京人士には珍しい。あゆの味のよしあしなどてんで無頓着な成金連だから、あゆの大きさが立派で、金が高いのも、彼らの心持にかえってぴったりするというようなわけで、自己暗示にかかった連中が、矢も楯もたまらず、なんでも春日のあゆを食わなければという次第で、この店は一時非常に栄えたものだ。
あまりの評判だからついにある日、わたしも出かけてみた。行ってみると、そのあゆなるものが、まるでさばみたいな途方もない大きな奴で、とうてい食われた代物ではない。仕方がないから、腹の白子を食って帰って来たが、どうしてこんなものが評判になったのかといえば、今いった通り、あゆというものをてんで知らない連中が、大きくて、いかにも立派なものだから、それにすっかり魅せられてしまったのだろう。
料理人の野本君は才人でもあり、太っ腹の男でもあったから、時に応じた考えから、大あゆばかりをたくさん取り寄せ、それを葛原冷凍に預けて、出しては食わせ、出しては食わせていた。それにあゆの本当を知らぬひとびとが、彼の政略にまんまと引っかかった。しかし、この店も料理人の野本君が出てからは、なんだかすっかりだめになってしまった。
だが、こんなインチキが、必ずしも過去の語り草ばかりではなく、現在築地あたりでこの手をやっているところがないではない。
ある日河岸へ行ってみると、あゆのついた弁当が十五銭でできるという話をしている者があった。腐っても鯛という諺はあるが、いかになんでもあゆである。安くても三十銭や五十銭はするであろうのに、あゆをつけて一つの弁当にしたのが十五銭とは何事だと、これには私もいささか驚いた。
ところが、底には底があるもので、河岸あたりであゆが売れ残ると、これを冷蔵庫へストックしておく。それがいつとはなしに何千何百とたまってくる。そうなると、その処分に困ってくる。腐ってもあゆだとすましてはいられない。そこで捨てるよりはましだというわけで、これを抜け売りに出す。こんな次第でその際には五厘のあゆ、三厘のあゆというのができる。まさか三厘や五厘でもあるまいが、二銭か三銭で相場が立ったらしい。
もちろん、わたなどないにきまっているが、ともかくあゆ入り弁当が十五銭ででき上がったのである。さすが東京は広いと舌を巻かざるを得なかった次第である。
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一、警戒警報発令中の興行に関しては、其の期間、劇場、映画館の閉鎖を以て一応の対策と見做し、目下これに従つてゐるのであるが、警報長期に亙る場合、然も早急に解除の見込立たざる情勢下に於ては、各地方官庁に於て適宜必要に応じ、興行場の再開を許可する方針らしいけれども、其の内容及興行方法に就ては、自ら臨時的考慮を加へなければならぬであらう。
一、空襲を受けた場合、その被害地に於ける興行場の再開に関しては、勿論当局の指示を俟つべきものであるが、興行関係者としては、常に其の動員態勢を崩さず、民心の動向と被害の実情とを察知し、最も敏速に其の機能を発揮して各方面の要求に応へ得る準備を整へておかねばならぬ。
次に東京都を一例とすれば、直ちに研究実践に入るべき問題は左の通りである。
1、空襲を予想して準備すべきもの
イ、劇場、映画館等は直接災禍を免れたとしても、被害現場に近いものは、恐らく罹災者殊に負傷者の臨時収容場として利用されるであらう。
従つて興行場としての機能を果すことは不可能であるから、かゝる処置が決定されると同時に、所在の機具等で移動し得べきものは、責任者を定めてこれを適当な場所に運搬し、出来ればその場所を仮興行場として直ちに当局の認可を求めておくこと。
ロ、空襲直後は多少人心興奮し、応急の自衛処置に忙殺されてゐるから、主として音楽、殊に吹奏楽の如きものを街頭へ繰り出す必要があらう。
これが為には、日本音楽文化協会の組織する各区音楽挺身隊の活躍に期待されるが、この場合、各挺身隊の事務方面を興行関係者が奉仕的に援助し、活動能率を高めることが出来れば最も理想的である。
ハ、日本音楽文化協会、日本浪曲協会の独自の活動に始まる空襲直後の芸能事業は、更に、演芸各部門を組合せた慰問隊の活動となるであらう。
この慰問隊は、何人によつて組織され、派遣されるかの問題は、今日から決定しておかねばならぬ。各機関各団体がめいめいの思ひつきによつて、てんでんばらばらの行動をとることは出動者の為にも迷惑であり、重複と空白の出来るおそれも多分にあるから、この統制は或る程度絶対必要である。
そこで先づ、次のことを今日から提言しておく。
芸能事業の統制は、東京都は東京都庁がこれに当り、都庁は、警視庁の治安取締を背景として、都庁の委嘱する芸能事業非常対策委員会の手に一切の責任と権限を与へる。
委員会は、興行協会、芸能会各部会の役職員、並に大政翼賛会支部職員を以て組織する。
委員会は、興行者、興行場主、芸能仲介業者、芸能各部門の動員計画を樹て、都内各地区に於ける仮設興行場(屋内、屋外共に)の実地調査を行ひ、専門家の協力を得て必要なる準備計画を進める。芸能各部門及び芸能会が独自の立場に於て展開せんとする運動、及び公私団体の名義による芸能事業の内容を知悉し、成し得れば予め協議を行ひ、その間の調整を計る。
ニ、慰問隊の活動に次いで、映画の巡回映写又は移動演劇が要求せられるであらう。
映画にあつては、日本映画配給社、日本移動映写連盟、演劇にあつては日本移動演劇連盟の活動を主としなければならぬが、場合によつては、映画館の人的物的能力をこれに充当することも考へられ、劇団の自主的挺身活動も期待せられる。
これらについては、大体取締当局の諒解を得れば適時任意にこれを行はしめ、たゞ、委員会は、これに対し応分の補助と便宜とを与へることゝする。
劇団の挺身活動に関し、それぞれの計画案を予め委員会に於て取纏めておくことは必要であり、それによつて、各劇団の使命が自ら明かとなる。なほ、それらの計画案に基き、更に綜合的計画を委員会に於て作製することも出来、各劇団の部署を定めることも出来る。
ホ、劇団自体は、空襲直後の活動に備へて、団員の連絡につき周到な規定を作り、演出目録の撰定を行ふことが必要である。予め作者の諒解を求めておくことも忘れてはならぬ。
ヘ、劇団の自主的挺身活動は、いろいろの形で行はれるであらうが、この場合、他からの補助を受けることが出来ず、興行場借入等の為め困難が生ずる場合を顧慮し、興行場主は一定期間興行場の無償提供を行ふべきである。一歩進んで、興行者としては、時期を見て、無料興行を行ひ、国民士気の振作に当らねばならぬ。
興行場の再開に当り、災害の程度と、秩序の恢復程度に応じ、興行法にも自ら適切な工夫を盛るべきであり、演し物についても一応の稽古ぐらゐしておくのが当然である。
ト、映画、演劇、演芸等の外、一般観物と称せられるものゝ興行については、特に空襲時の対策は必要なきものゝ如くであるが、若し、慰問の意味に於て無料提供の意志ある場合、それぞれの団体の統制に服するやう指令すれば足りる。
2、空襲直後実施すべき事業計画
以上の準備に基き、各方面それぞれ活動を開始するのであるが、問題は、一に、被害場所、程度、人心動揺の実情に照し、且つ、政府当局の政治的処置に応じ、最も敏速、適切なる対策が講ぜられなければならぬ。しかしながら、いちいち各種の情況を想定し、これに該当する対策を準備することは不可能であるから、大体に於て左の三つの場合を標準として、臨機応変の措置に出なければなるまい。
一、被害場所が比較的小部分に限られ、帝都全体にさしたる影響なき場合。
一、被害相当大なるも局部的にして、全体として見れば人心や、動揺の色ある不安を生じてゐる場合。
一、被害は帝都の全地域に亙り、治安維持の為め非常措置がとられ、都民の生活混乱に陥りたる場合。
第一の場合は、主として被害地区の慰問激励であるが、都委員会の機構整備の上は恐らく大した問題ではあるまい。
第二の場合は、被害地域の慰問激励と併せて、都民全体の士気を鼓舞するため、敏速に芸能活動を開始しなければならぬ。即ち、被害地区以外に在住する芸能人は、先づ自発的に激起し、都委員会と連絡し、その指令に基いて必要な場所に出動する。都委員会は、自動車又はトラツクを以てこれら挺身隊を移動せしめ得ることが必要である。
次に、都委員会は被害地区の視察を行ひ、計画的に慰問激励の演芸団、劇団、巡回映写隊等を派遣する。それと同時に被害地区に非ざる地域の興行場は、当局の諒解指示を求め、可能な限り急速に、しかも、時期を撰んで最も効果的に開場せしめる。なほ、それと併行して移動演芸、演劇、映写隊の計画配給を行ふ。
この場合、町内会を単位として、これと連絡、時日及時間場所等の打合せをし、一般に回覧版を以て予告せしめることが必要である。
第三の場合は、言語に絶する困難な事情の下に芸能活動が行はれるのであつて、これは、もはや、強力な政治の一翼として、民心把握の原動力たるべきものであり、最も活溌に、しかも、堂々たる形式に於て実施されなければ効果が薄い。単なる個人的思ひつきや、特定の団体の慰問といふ名義では一層混乱を助長する恐れなしとしない。
政府自体、少くとも、都自体が、国家の名に於て、国民に呼びかけるといふ形をとらなければ、群衆心理に支配されがちなかゝる立場の民衆を惹きつけることは不可能である。
従つて、空襲直後、未だ人心安定を保たない初期の活動は最も困難ではあるが出来るだけ大規模な、整頓した陣容を以て之を行ふ計画を樹てゝおかねばならぬ。或は陸海軍々楽隊の出動を要請するが如きは最も効果的であらう。その他、優秀なる吹奏楽団、合唱団等の総動員も計画通り実施する。
廃墟と化した地区へ、若しバラツクでも建ち並ぶことがあるとすれば、適当の空地で、恐らくラヂオは急速に設備されるであらうが、なほかつ、音盤音楽試聴会の如き催しを行ふことも、音盤協会の事業として適当である。その為に要する人員の動員は、地区婦人会或は女子青年団の協力によつて達成し得ると思ふ。
一、警視庁管下の警察管区内に、芸能報国会なるものが設置せられ、警察当局の慫慂指導により目下主として出征遺家族の慰問事業が行はれてゐる場所がある。
また一方、音楽文化協会の事業部面に於て、都下各区に音楽挺身隊が組織せられ、必要に応じ出動演奏の準備態勢にある。いづれも、その目的とするところは結構であるけれどもその事業の限界と、同種事業間の連帯関係を無視することにならなければ幸である。従つて、これらの機関は、常に、都下芸能事業全体の一環として、その占むべき地位を明らかにし、空襲時に於ける事業の統一調整を乱さないやうな配慮が必要であるのみならず進んで、上部機構の指令を仰ぐと共に都委員会の計画に基く芸能適正配置の意図を汲み、その統制に服する用意がなければならぬ。
一、空襲時に於ける興行とは、前述の如き情勢の下に運営せらるべき芸能事業の一重要部門である。
従つて、興行者及興行場主、並に、その職域機関たる大日本興行協会の役割は、当然、自主的たると、所謂上意によるとを問はず、常に、純然たる公共事業の経営管理者たる責任に於て果されなければならぬ。
固より、情況これを許し、事業の精神に反せざる限り、適正な企業の形式に立ち帰ることは差支ないけれども、しかも時局対応の処置が、自己防衛の手段に通ずることは厳に戒めるべきであり、寧ろこれを機会として、わが芸能事業の国家性と公益性とを全企画面に具現し、しかも、国民大衆の必然的要望に応へ、苛烈なる戦局を背景として、新鮮溌剌、最も滋味に富む芸能の生産活動を促し、企業そのものゝ信用に基く確乎たる発展を期すべきである。
興行とは抑も「現に在るもの」をたゞ眼先を変へて大衆に観せることではなく、芸能の本質に徹した識見を以て、時代の好尚と芸能界の動向を察し、優れた才能の萌芽を発見して之を障碍なく成長せしめ、斬新卓抜な趣向を加へてその創造的価値を公衆の前に遺憾なく示し、芸能の魅力によつて其精神に慰安と糧を与へんとする一個の文化事業なのである。
演劇といひ、演芸といひ、また映画といふも、何れも今日では型にはまつてしまつてゐる。興行者は公平にみて其責任の一半を負はねばならぬ。なぜなら、その趣味に偏向がありすぎ、企業としての安全を求めるに急であつたからである。
既往は問はず、この際、興行者は、本然の姿に帰り、戦時下の芸能界に新風を捲き起す抱負をもつて、あらゆる智能を結集しこれを事業の面に取入れ、新鮮な感動によつて国民の渇を癒やすことも亦戦力増強の所以なることを如実に示すことが急務である。興行界にこの機運ありとみれば、才能ある芸能人の奮起は固より期して俟つべく、平時に於て許される如き悠長な重々しい形式内容を離れ、簡素にして明快、しかも、色とりどりの綜合的芸能様式が、何人かの立案によつて生まれて来ること必定である。
かの露国人パレイエフの率ゐる蝙蝠座の公演を一度観たものは、その印象を終生忘れ得ず、かゝる趣向が、如何なる天才の頭脳から生まれたかを知りたく思ふのである。ところが趣向としては別に奇想天外なものではなく、たゞ、パレイエフの芸能各部門に対する綜合的な理解によつて、各部門の有機的な結合が見事に行はれ、スラヴ民族独特の色彩が、その結合に自然な調和と弾力とを与へてゐるのである。単純素朴と快活大胆とが、微妙な近代的感覚によつて処理調合され、そのまゝの模倣ではやゝ日本の国情と時代に適せぬ一面もあるが、それを除けば、採つてもつて今日なほ範とすべき面が多々あるのである。特に附言したいことは、この趣向は決して一部好事者の口に合ふばかりでなく、同国人には勿論、異国の一般大衆にも同様に愛好される極めて万人向きの最も興行らしい興行の見本であるに拘らず、この事業に参加する音楽家、美術家、舞踊家、俳優、そして詩人は、舞台感覚ともいふべき一種訓練された技術的閃きをもつてはゐるが、この仕事に参加するまでは、恐らく、所謂興行界とは無縁乃至は縁の遠い人物ばかりであるといふことである。
更にもう一つ、興行者にして座頭のパレイエフは、開幕前の挨拶を必ずひとくさりやるが、これが聴きもので、観衆は先づ、この人物の類のない魅力に胸を躍らすのである。
巴里を中心に、前大戦後欧米の興行界を驚倒させた曲者は、まことに芸能の国露西亜の宝であると言つて差支なからう。
必ずしも、蝙蝠座に似たものを日本にも作れといふのではない。空襲を予想される戦時下の興行とは正にかくの如きものではないかといふことを言ひたかつたのである。
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この雑誌にこんなことを書くと、皮肉みたいに思われるかもしれないが、西洋の諺、「飢えは最善のソース」には、相当の真理が含まれている。
一流の料理人が腕をふるってつくり上げたソースをかけて食えば、料理はうまいにきまっているが、それよりも腹のへった時に食うほうがうまい、という意味である。
六十年を越す生涯で、いろいろな場合いろいろなものを食ってきたが、今でも「うまかった」と記憶しているものはあまり沢山ない。そのなかで飢えをソースにしたものをちょっと考えてみると、中学校の時、冬休みに葉山へ行っていて、ある日の午後何と思ってか横須賀まで歩いた。着いた時は日暮れ時で寒く、駅前のそば屋で食った親子丼が実にうまかった。しかしこれは飢えばかりでないプラス寒気で、湯気を立てる丼飯を私の冷えた体が歓迎したのだろう。
大人になってからも似たような経験をした。毎日新聞の記者として芦屋に取材に出かけ、晩方の九時頃仕事を済ませて、やはり駅に近いそば屋でテンプラそばを食った。これも冬だったが、七味唐辛子をウンと振り込み、最後に汁を呑んで咽喉がヒリヒリしたことまでおぼえている。これは飢えプラス寒さプラス仕事を終った満足感である。
大正十二年の大震災の時には大阪にいたが、生れ故郷が東京なのですぐ行けと命令され、中央線廻りで上京した。その途中笹子のあたりで山津波があり、汽車が半分埋まってしまった。その泥の流れのなかを歩いてぬけて、ちょっとした高台にある村にたどりつき、一軒の飲み屋で酒を所望すると、ぜんまいを一緒に出した。もちろん干したぜんまいをもどし、煮干しで味をつけた物だが、その煮干しのガサガサした歯ざわりさえ憶えているのだから、相当感銘したに違いない。この場合は飢えプラス山津波を逃れた安心感だろう。親子丼、テンプラそば、ぜんまいと、実にありふれた食物だが、飢えプラス何物かが最上のソースになったのである。
私が冒頭で「相当の真理」といったのはこれなのである。つまり飢え単独では腹がはった満足はあっても、決して「うまい」とは感じない。
*
私が若い頃登った山には、番人のいる小舎が極めてすくなく、大体水に近い場所にテントを張り、飯をたいて食事をしたものである。食物としては米、味噌が主で、味噌の実にはそこらに生えている植物をつかった。罐詰類は重いので、せいぜい福神漬か大和煮を、それもたくさんは持っていかず、動物性蛋白質は干鱈だった。飯をたき味噌汁をつくった焚火のおきに、縦半分にさいた干鱈をのせ、アッチアッチと言いながら指でちぎって食うのである。満腹はするがちっともうまくないので、東京へ帰ったら何を食おう、あれを食おうと、第一日の晩から食物の話ばかりで、事実東京へ帰って腹をこわしたりした。それでいて翌年の夏には同じことを繰り返すのだから、山の魅力は大したものである。
いつだったか本格的なアルピニストであるI・A・リチャーズ夫妻と一緒に、後立山を歩いたことがある。籠川を入っていくと松虫草が咲いていた。暑い日で一同かなり参っていたが、リチャーズはこの花を見て、外側に滴が露になってついているカクテル・グラスを思い出し、「初日からそんなことを言い出すとは、out of form だ」と奥さんに叱られた。こうなると英国人も日本人も同じである。ところがこの旅で、番人のいる唯一の小舎に罠でとった兎があり、その肉を持参のバタでいため、はこび上げてあったビールで流し込んだ時、リチャーズはこんなに贅沢な山小舎は世界じゅうにないと感激した。
*
太平洋戦争の末期に近く、私は北部ルソンのジャングルの中にかくれて生活していた。大きな部隊が移動した後に入り込んだ狙いはあやまたず、ここには米と塩がかなりたくさん残してあった(もっとも終戦がもう一週間もおくれたら、私は餓死していたことだろう)。だがそれ以外の食物は、すべりひゆと筍――長くのびた奴の頭のほう二寸ばかり――に昼顔の葉である。私は現在インダストリアル・デザイナアとして活動している柳宗理君と組んで、盛んに食物をさがした。まず川のカニである。あれを飯盒に入れて火にかけると、最初はガサガサ音を立てるがやがて静かになる。真赤な奴を食うのだが、とにかくその辺をはいまわっているカニだから、肉など全然なく、ちっともうまくない。私はすっかり歯を悪くしてしまった。
その数年後阿佐ヶ谷の飲み屋で、伊勢のどこかでとれるカニを出された。一年じゅうでとれる日が一週間とか十日とかに限られているそうである。これも小さいカニで肉はないが、足や鋏はカリカリしていていい味がする。
ちょっと余談になるが、食いしんぼうの私は、ほかの人たちよりも食える物をよく見つけ出した。野生のレモン、唐辛子――わが国で「鷹の爪」と呼ぶ種類――、れいしがそれである。そしてパパイヤの木のしんが大根そっくりで、すこし古くなるとオナラ臭くなることまで発見したので、これを刻み、太い竹の筒にこれも刻んだ唐辛子の葉と実、れいし――緑、黄、赤と順々に色が変る――、レモンの皮とまぜて押し込み、塩をして一晩おいた。これはとても素晴らしい漬物でいつか有名になり、貰いに来る人がふえるようになった。
*
いよいよ終戦投降ときまると、自殺用に持っていた手りゅう弾のつかいみちがない。これも私が主張して、かくれ場の近くの川の深淵にいくつか投げ込み、下流の浅瀬で待っていると、大小の魚が無数に目を廻して流れてきた。みんな大喜びをしたが、特に私たちはヒネしょうがとにんにくを持っていたので、ぼらのさしみをつくり、その骨でダシを取って結びさよりのお吸物をつくり、鰺の塩焼その他で夜中の十時近くまで大御馳走を食った。この時のごとき、まったく飢えプラス「もう負けてしまったんだから仕方がないや、どういうことが起るか、とにかく捕虜になって見よう」という気持と、こちらが変な真似をしなければ、米国人は捕虜を虐待したりしない人間である、という私の知識経験が、このジャングルでの晩飯を、記憶すべくうまい物にしたのである。
*
だから飢えだけが「最善のソース」ではない。これで私のお話は終る。
(いしかわ きんいち、毎日社友・評論家、三三・三)
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『樹木と果實』は赤色の表紙に黒き文字を以て題號を印刷する雜誌にして主に土岐哀果、石川啄木の二人之を編輯す。雜誌は其種類より言へば正に瀟洒たる一文學雜誌なれども、二人の興味は寧ろ所謂文壇の事に關らずして汎く日常社會現象に向ひ澎湃たる國民の内部的活動に注げり。雜誌の立つ處自ら現時の諸文學的流派の外にあらざる可らず。雜誌の將來に主張する所亦自ら然らむ。二人は自ら文學者を以て任ぜざるの誇を以て此雜誌を世の文學者及び文學者ならざる人々に提供す。
歌の投稿を募る。初號分締切二月十日限り。用紙は半紙判二つ折大とし歌數制限なし。選拔は哀果啄木二人の合議に據る。
編輯所は便宜上東京芝區濱松町一の十五土岐方及び發行所内の二箇所に置き投稿、書籍雜誌の寄贈を受く。
定價一部金十八錢郵税二錢△半年分前金税共一圓十錢△一年分同二圓十錢
廣告料 菊判一頁金十五圓 半頁金八圓
(明44・2・1「創作」第二卷第二號)
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前金購讀及び廣告申込は必ず左記發行所宛の事又爲替劵に豫め受取人を指定する時は發行所同番地石川一とせられたし。郵劵代用は堅く謝絶す。
發行所 東京都本郷區弓町二の十八 樹木と果實發行所
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私の家に来てください。
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自分で思ひ立つて映画を観に行つたことはまづないと云つていゝ。大ていは女たちの御招伴である。これは映画と女とを一緒に軽蔑してゐるやうに聞えるが、決して女も映画も軽蔑してゐるわけではなく、全く無精だからである。――芝居の方はどうかと訊かれると、これはまた一層ひどい。一年に二三度あるかなし、その代り、これは自分で思ひ立つ。
評判になつた封切ものなど、家の誰かゞ観て来て話をするのだが、つひそのまゝになつてしまふことが多い。
今頃こんな標題を持ち出すとその道の人は嗤ふかも知れないが、「嘆きのピエロ」といふのでも、つひ先達ある機会に初めて観たので、それまでは、なんといふことなしに、もう何処かで観たやうな気がしてゐたのである。実物を観た後でも、その前に想像してゐたいろいろの場面が、はつきりしたかたちこそ取つてはゐないが、何時までも頭にこびりついてゐて、実物の印象がだんだん影を薄くして行くのである。
最近観たものと限られては非常に窮屈になるから、私だけは特別の詮議で、今迄観たものといふ風にして感想を述べさせて貰ひたい。映画について印象めいたものを書くのはこれが始めてだし、さう古いことは思ひ出さうとしても思ひ出せないんですからいゝでせう。
私が活動写真を観て、始めて芸術的感激をうけたのは「車輪」が巴里で封切された時だ。あゝいふ感激は二度繰返されるものでないことは知つてゐるが、その後チヤツプリンの「小僧」といふのを見て悦んだことがある。「面影」は非常に佳い場面と映画には無理だと思ふ場面とが頭に残つてゐる。
「最後の人」は映画の技術と、ヤニングといふ名優型の役者に心を惹かれた。
「ヴアリエテ」はちつとも面白くなかつた。
「レ・ミゼラブル」はユゴオの通俗的半面のみを誇張した愚作であり、「タルチユフ」はモリエールを履き違へ、オート・コメデイイの精神を解しない醜悪な写真である。
こんなものよりは、「チヤング」のやうな実写的のものの方が見てゐて退屈しない。但し、実写なら実写らしく、変な芝居気を抜いて、素直に紹介の役目だけを果して欲しい。裸の土人に、わざとらしい驚きの表情などさせるには及ばない。
「ビツグ・パレード」を観て、かういふ写真が、なぜもつと早く出なかつたか、それが不思議なくらゐだつた。最後の場面は亜米利加式で月並以下だが、所謂「戦線」の生活は巧に物語られてゐる。近来の見つけものである。
「プラアグの大学生」は何処までも「芸術と手術」(?)張りで、あのフアイトとかいふ役者の夢遊病者的演技も大方底が見えたやうである。いや、それよりも、あの魔術使ひ見たいな金貨を、さも深刻らしく使つたところなど、独逸流の悪趣味に相違ないが、これがまた活動写真式とでも云ふのであらうか。
一体、独逸の映画は、芝居がさうである如く、監督の意志が隅々まで行き渡り、あらゆる効果が精密に計算され、観客は、常に与へられたものだけで満足することを強いられるのである。一部の観客は、与へられるが故に満足するが、他の観客は、自ら求めんとするが故に不満を感ずるのである。
さうは云ふものゝ、そんなら独逸映画の向を張る映画が何処にあると問はれゝば自分は知らないと答へるより外はない。
私は固より映画を素人として鑑定してゐるのであつて、それも、多くは単なる娯楽のつもりで出かけるのであるから、観て損をしたと思ふことは滅多にない。芝居なら腹が立つたり、馬鹿々々しくつて顔をそむけたくなるやうなところでも、映画では案外平気で笑つて観てゐられる。「動く写真」といふ興味だけでも、まだ私は惹きつけられる。况や、外国の都会や、田園の風物は、またそれを背景として動く幾多の人物や生活の種々の相は、そのまゝ私の好奇心と、想像と、追憶とを撫でるに十分である。私は時とすると、物語そのものゝ発展を忘れ、断片的な場面々々を、それぞれ勝手に、自分の好みに通つた空想に結びつけて、愉快な一晩を過すことさへある。
さういふ私であるから、映画俳優に対しては、演技の優劣を離れて好悪の感情に支配されることが多い。特別に好きな役者はまだ「決まらない」が、嫌ひな役者は、いくらでもある。アドルフ・マンジユウとダグラス・フエヤバンクスは、どちらもたまらなくいやだ。
家の者同志が、ある映画の話をし合つてゐる。「それはなんだ」と聴くと、最近私も一緒に観たことのある写真だつたといふやうなことがある。茲に到つて、私は、映画を語る資格がないことを覚らなければなるまい。
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今でこそ洋画にしろ日本画にしろ、モデルというものが大きな問題となっているが、今から四、五十年も前の我が画壇をふり返ってみると、そんなものはまるでなかった。
私の最初の展覧会出品画は「四季美人図」であって、これは明治二十三年、東京で開かれた第三回勧業博覧会に出品したもので、当時まだ十六歳の若年であった。
今から思ってみれば、若々しく子供っぽいものであったが、モデルというものがないので鏡台にむかって自分のいろいろな姿態、ポーズというか、その格好を写しては下絵にとり、こうして最初の「四季美人図」が出来上ったのである。
「四季美人図」というのは、幅二尺五寸、竪五尺の絹本に四人の女性人物が描かれてあり、それぞれ春夏秋冬の一時季を表わしている、といった極く簡単なもので、まず春には一ばん年端の若い娘を描き、梅と椿の花を生けている処。夏は前の娘よりはいくらか年の上の、まあ、すぐ年上の姉ぐらいの娘が絽の着物で観世水に紅葉を散らし、涼し気に島田を結っている姿、金魚だとか簾だとかで夏らしい感じを出そうと試みてあり、秋になると夏に描かれた娘よりはもう一つ年かさの、中年増と言いますか、それくらいの年の女性が琵琶を弾じている図で、着物だとか、色彩から秋の落ちついた静寂な気分を漂わせた。最後に冬になると、もうずっと年配のいった一女性が雪中の絵の軸物を見ているところを描いたものであった。
どんなところから「四季美人図」の題材構想を考えたかと言うと、別に深い仔細があったわけではなく、万象の萌え出でる春の季から一年中の最も盛んな夏季、それが過ぎ去ってやがて木々の葉がもの淋しく落ち散ってゆく秋景色から、最後にすべての自然が深い眠りのなかに入ってゆく冬の季までのひと歳の移り変わりとを、それぞれ似つかわしいような美人をもって描いた、人間にもある春とか、夏とか、それぞれの年齢を描きわけしてみた、という、まあ言ってみれば極く子供らしい着想で描いたものに過ぎなかった。
絵に対する苦しみとか絶望懐疑といったものが、当時の私には全然なかったと言ってよい。絵の素材を考えたり、そんなことで頭をしぼるのがとても楽しかった。絵というものに苦悩ではなく心から嬉しい喜ばしい気分で接し得られたのである。
その「四季美人図」を描いた気持ちというのも同じようなもので、十六歳と言えばまだ半分は子供心であったわけで、あとから考えてもそれほどたいして頭をひねって制作したものではなかったように思う。
「先生、こないなふうに描こうと思うとりますがどないどっしゃろ?」
「ふん、こうしたらよかろ」
といったぐあいで、本当に子供らしい気ばりで絵にむかっていったものである。
一枚の絵をながいことかかって描いた。
絵につかう用紙は、当時は普通紙本で稽古し、特別にどこかに飾ったり出品しなければならないようなものには絹本を用いたが、絹本に描くよりは紙本に描くことの方が難しかった。
第三回勧業博覧会は東京で開催されたが、まず私ども京都画壇では京都中の出品をその前年の明治二十二年十二月に京都府庁内で府庁の手によって展覧に供され、やがてそれを一まとめにして東京に荷送りしたもので、出品の人選はそれぞれの師が自分の弟子たちのなかから自由にえらんだものである。
「絵を出さしてやるさかいきばって描きなさい」
「この子、絵筋がええさかい、きばって描かそか……」
といったぐあいで、現今のように審査という選定方法もなく、出品された以上は落第も及第もなかったので、結局それぞれの師の目にとまった絵が自選の形式で出品されていたわけである。
そのようにして鈴木松年先生の塾からもたしか十五、六枚出されたように記憶している。
しかし東京の博覧会では審査があり、審査員の審査によって賞とか褒状の等級がきめられた。一等上が銅牌で、私には思いがけなくも一等褒状が授与せられた。
一等褒状を貰ったときはさすがに嬉しかった。何分当時はまだ十六歳の小娘でしたから思いもかけなかったのであろう。
当時さる国の皇太子殿下がちょうど日本に来ておられ、博覧会場におなりになり、はしなくも私の拙ない絵をお眼に止められて大そう気に入られたとみえて、お買上げの栄を得た。
当時このようなことはことに京都では珍しいことであったと見えて、新聞紙上にいろいろ私の絵のことやら、私のことやらが載せられたもので、ついせんだってもふとしたところから四十数年も前の、京都発行の「日の出新聞」をみつけ出し、おや珍しいもの、とひろい読みしていたところが、当時の、その私の勧業博出品画に関する記事があったので非常に昔なつかしい感を覚えました。
その時のことですが、私の親戚で、ひとりなかなかよくゴテる叔父がおって、私が画学校に通うことを非常に嫌い、というより、母が私を許して絵の学校へやっていることが気に食わない。
「上村の娘、絵など覚えてどないするつもりかいな」
と、私の家へ来るごとはもちろん、かげでもうるさく非難しておったが、母がべつに他人様や親類すじから世話になっているわけでもなし、と一向気にかけなかった。
ところが、この叔父が新聞紙上で私の博覧会出品作に褒状がくだされたということを読み識ってからは、一変してしまい大へん有頂天に喜んで、わざわざ私の家へ祝いにやって来た始末。それからは私のまあ、今でいうファンですが、大へんひいきにしてくれて、展覧会などへは絶えず観に行っては私の絵を褒めまわっていたようである。
その翌々年の明治二十五年にも同じ題材、同じようなイキで「四季美人図」を描いて展覧会に出品したが、これは前の勧業博出品の「四季美人図」が評判になったためであろうか、農商務省からの名指しで、始めからシカゴ博の御用品になされる由お達しがあり、六十円の金子が下げられた。そこで私は描き上げた絵を板表装にして送ったが、その時分の六十円だから、私にとっては驚くほどの多額でした。
何しろその時京都から出品したのは、私のほかにと言っては岩井蘭香さんがおられたくらいのもので、蘭香さんは当時もう六十歳くらいの御年齢でしたから、まるで破格の待遇であったわけだ。東京から跡見玉枝さんなどがこの博覧会に出品されたように覚えている。
この時の「四季美人図」も審査の結果二等になり、アメリカでは私の写真入りで大いに新聞が書きたてたそうである。
そのとき送って来た唐草模様の銀メダルが今でも手許に残っている。
表装してくれた京都の芝田堂の主人、芝田浅次郎さんが自分の絵が入選でもしたように悦んで、早速お祝いに来てくれたことも憶い出となっている。
東京の跡見玉枝、野口小蘋の両女史、京都の岩井蘭香という名声嘖々たる女流画家に伍して、十八歳の私が出品出来、しかもそれが入賞したのであるから、母は涙を流さんばかりに喜んでくれたものであったが、これも想えばかぎりなくなつかしい昔話となってしまった。
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俺達は一度に声を挙げて集まって来たのだ、
反動の軍旗をへし折って来たのだ、
真っ青になって口も利けなくなった師団長の
高慢なシャッポを蹴飛ばして来たのだ。
俺達は目まいのしそうなビルディングの足塲から下りて来たのだ。
俺達は街の鋪道から――
地下工事の泥水の穴の中から匍い出して来たのだ。
俺達は汽関車の胴の中から
煤だらけの顔をしてやって来たのだ。
俺達はボイラーの前からスコップを投棄てて来た。
俺達は「就業中面会謝絶」の工場から、
屋根までガタガタ呻らせる動力を止めて来たのだ。
俺達は飢餓の中から
俺達は軒の下から
俺達は寒気の中から
一度に声を挙げて集まって来たのだ!
さア、時が来たんだ!
素晴らしい生活が始まるんだ!
もう昨日の惨めな俺じゃないぞ。
昨日の俺じゃないぞ。
いいか、いいか、いいか!
しっかりやれ!
クレムリンへ向ってブッ放された、
最初の一発!
疾風のように、広場を横切って走った、
最初の赤旗!
――さア! 合図だ!
心の底に蓄積されていた全ての欝憤、
復讐と、怒りと、憎悪を、
爆発させろ!
俺達の生きた肉をムシャムシャ喰った奴等。
勲章とシルクハットの反動共。
泥棒の分前を、
気に入りの片隅で楽しんでた奴等、
あの忌々しい「満足してた」奴等を、
倒してしまえ!
国境の外へ押し出せ。
プロレタリヤの祖国を
母を妹を子供達を、老人達を
此の革命で
守れ!
資本家が、地主が、貴族が、坊主が、
俺達の首っ玉を引きずって
吹雪の、戦線に追いやったのではないぞ、
俺達の雨脚は雪の中で石のように凍っているのに、
レーニンは自動車で並木道を滑って行く、
――割が悪いと、ブツブツ云う奴は恥じろ!
ああ! 一人ぽっちだった俺、
失業と餓死の脅怖におびえた眼で、
入口の守衛の顔をオズオズ見ながら
牢屋のような鉄の格子の窓の中で、
働いて居た俺、ボロボロの青服の俺、
投捨てられたように助けのない者だと思っていた俺。
だが、今は知っている!
今は知っているぞ! 俺は唯の一人なのではない!
俺はプロレタリヤだ!
レーニンは俺の足で、俺は彼の腕なのだ。
俺はパリのコミュンの時から生きていた。
そして地球と一緒に、
太陽と一緒に、
いつまでも生きて行くだろう!
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私はその犬にブーツを食いちぎられた。
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最近東京を騒がした有名な強盗が捕まって語ったところによると、彼は何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることができるという。その棒を身体の前へ突き出し突き出しして、畑でもなんでも盲滅法に走るのだそうである。
私はこの記事を新聞で読んだとき、そぞろに爽快な戦慄を禁じることができなかった。
闇! そのなかではわれわれは何を見ることもできない。より深い暗黒が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえできない。何が在るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことができよう。勿論われわれは摺足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足で薊を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。
闇のなかでは、しかし、もしわれわれがそうした意志を捨ててしまうなら、なんという深い安堵がわれわれを包んでくれるだろう。この感情を思い浮かべるためには、われわれが都会で経験する停電を思い出してみればいい。停電して部屋が真暗になってしまうと、われわれは最初なんともいえない不快な気持になる。しかしちょっと気を変えて呑気でいてやれと思うと同時に、その暗闇は電燈の下では味わうことのできない爽やかな安息に変化してしまう。
深い闇のなかで味わうこの安息はいったいなにを意味しているのだろう。今は誰の眼からも隠れてしまった――今は巨大な闇と一如になってしまった――それがこの感情なのだろうか。
私はながい間ある山間の療養地に暮らしていた。私はそこで闇を愛することを覚えた。昼間は金毛の兎が遊んでいるように見える谿向こうの枯萱山が、夜になると黒ぐろとした畏怖に変わった。昼間気のつかなかった樹木が異形な姿を空に現わした。夜の外出には提灯を持ってゆかなければならない。月夜というものは提灯の要らない夜ということを意味するのだ。――こうした発見は都会から不意に山間へ行ったものの闇を知る第一階梯である。
私は好んで闇のなかへ出かけた。溪ぎわの大きな椎の木の下に立って遠い街道の孤独の電燈を眺めた。深い闇のなかから遠い小さな光を跳めるほど感傷的なものはないだろう。私はその光がはるばるやって来て、闇のなかの私の着物をほのかに染めているのを知った。またあるところでは溪の闇へ向かって一心に石を投げた。闇のなかには一本の柚の木があったのである。石が葉を分けて戞々と崖へ当った。ひとしきりすると闇のなかからは芳烈な柚の匂いが立ち騰って来た。
こうしたことは療養地の身を噛むような孤独と切り離せるものではない。あるときは岬の港町へゆく自動車に乗って、わざと薄暮の峠へ私自身を遺棄された。深い溪谷が闇のなかへ沈むのを見た。夜が更けて来るにしたがって黒い山々の尾根が古い地球の骨のように見えて来た。彼らは私のいるのも知らないで話し出した。
「おい。いつまで俺達はこんなことをしていなきゃならないんだ」
私はその療養地の一本の闇の街道を今も新しい印象で思い出す。それは溪の下流にあった一軒の旅館から上流の私の旅館まで帰って来る道であった。溪に沿って道は少し上りになっている。三四町もあったであろうか。その間にはごく稀にしか電燈がついていなかった。今でもその数が数えられるように思うくらいだ。最初の電燈は旅館から街道へ出たところにあった。夏はそれに虫がたくさん集まって来ていた。一匹の青蛙がいつもそこにいた。電燈の真下の電柱にいつもぴったりと身をつけているのである。しばらく見ていると、その青蛙はきまったように後足を変なふうに曲げて、背中を掻く模ねをした。電燈から落ちて来る小虫がひっつくのかもしれない。いかにも五月蠅そうにそれをやるのである。私はよくそれを眺めて立ち留っていた。いつも夜更けでいかにも静かな眺めであった。
しばらく行くと橋がある。その上に立って溪の上流の方を眺めると、黒ぐろとした山が空の正面に立ち塞がっていた。その中腹に一箇の電燈がついていて、その光がなんとなしに恐怖を呼び起こした。バァーンとシンバルを叩いたような感じである。私はその橋を渡るたびに私の眼がいつもなんとなくそれを見るのを避けたがるのを感じていた。
下流の方を眺めると、溪が瀬をなして轟々と激していた。瀬の色は闇のなかでも白い。それはまた尻っ尾のように細くなって下流の闇のなかへ消えてゆくのである。溪の岸には杉林のなかに炭焼小屋があって、白い煙が切り立った山の闇を匍い登っていた。その煙は時として街道の上へ重苦しく流れて来た。だから街道は日によってはその樹脂臭い匂いや、また日によっては馬力の通った昼間の匂いを残していたりするのだった。
橋を渡ると道は溪に沿ってのぼってゆく。左は溪の崖。右は山の崖。行手に白い電燈がついている。それはある旅館の裏門で、それまでのまっすぐな道である。この闇のなかでは何も考えない。それは行手の白い電燈と道のほんのわずかの勾配のためである。これは肉体に課せられた仕事を意味している。目ざす白い電燈のところまでゆきつくと、いつも私は息切れがして往来の上で立ち留った。呼吸困難。これはじっとしていなければいけないのである。用事もないのに夜更けの道に立ってぼんやり畑を眺めているようなふうをしている。しばらくするとまた歩き出す。
街道はそこから右へ曲がっている。溪沿いに大きな椎の木がある。その木の闇はいたって巨大だ。その下に立って見上げると、深い大きな洞窟のように見える。梟の声がその奥にしていることがある。道の傍らには小さな字があって、そこから射して来る光が、道の上に押し被さった竹藪を白く光らせている。竹というものは樹木のなかで最も光に感じやすい。山のなかの所どころに簇れ立っている竹藪。彼らは闇のなかでもそのありかをほの白く光らせる。
そこを過ぎると道は切り立った崖を曲がって、突如ひろびろとした展望のなかへ出る。眼界というものがこうも人の心を変えてしまうものだろうか。そこへ来ると私はいつも今が今まで私の心を占めていた煮え切らない考えを振るい落としてしまったように感じるのだ。私の心には新しい決意が生まれて来る。秘やかな情熱が静かに私を満たして来る。
この闇の風景は単純な力強い構成を持っている。左手には溪の向こうを夜空を劃って爬虫の背のような尾根が蜿蜒と匍っている。黒ぐろとした杉林がパノラマのように廻って私の行手を深い闇で包んでしまっている。その前景のなかへ、右手からも杉山が傾きかかる。この山に沿って街道がゆく。行手は如何ともすることのできない闇である。この闇へ達するまでの距離は百米あまりもあろうか。その途中にたった一軒だけ人家があって、楓のような木が幻燈のように光を浴びている。大きな闇の風景のなかでただそこだけがこんもり明るい。街道もその前では少し明るくなっている。しかし前方の闇はそのためになおいっそう暗くなり街道を呑み込んでしまう。
ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに言ってみれば、「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんなふうに消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。
その家の前を過ぎると、道は溪に沿った杉林にさしかかる。右手は切り立った崖である。それが闇のなかである。なんという暗い道だろう。そこは月夜でも暗い。歩くにしたがって暗さが増してゆく。不安が高まって来る。それがある極点にまで達しようとするとき、突如ごおっという音が足下から起こる。それは杉林の切れ目だ。ちょうど真下に当る瀬の音がにわかにその切れ目から押し寄せて来るのだ。その音は凄まじい。気持にはある混乱が起こって来る。大工とか左官とかそういった連中が溪のなかで不可思議な酒盛りをしていて、その高笑いがワッハッハ、ワッハッハときこえて来るような気のすることがある。心が捩じ切れそうになる。するとそのとたん、道の行手にパッと一箇の電燈が見える。闇はそこで終わったのだ。
もうそこからは私の部屋は近い。電燈の見えるところが崖の曲り角で、そこを曲がればすぐ私の旅館だ。電燈を見ながらゆく道は心易い。私は最後の安堵とともにその道を歩いてゆく。しかし霧の夜がある。霧にかすんでしまって電燈が遠くに見える。行っても行ってもそこまで行きつけないような不思議な気持になるのだ。いつもの安堵が消えてしまう。遠い遠い気持になる。
闇の風景はいつ見ても変わらない。私はこの道を何度ということなく歩いた。いつも同じ空想を繰り返した。印象が心に刻みつけられてしまった。街道の闇、闇よりも濃い樹木の闇の姿はいまも私の眼に残っている。それを思い浮かべるたびに、私は今いる都会のどこへ行っても電燈の光の流れている夜を薄っ汚なく思わないではいられないのである。
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凄い人が話しをする
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巴里は世界の十字路といわれている。巴里の中でもブラス・ドゥ・オペラ(オペラの辻)は巴里の十字路といわれている。
冬の日が暮れると神廟のようなオペラの建物は闇の中にいよいよ黒く静まり返える。オペラの開幕は八時だから今はまだその広い入口の敷石に衛戍の兵士が派手な制服で退屈な立番の足を踏み代えているだけである。その前にすぐ地下鉄の出入口が客を呑み吐きしている。オペラに向って左角がカフェ・ド・ユ・ラ・ペイユだ。竪縞に金文字入りの粋な日覆いを歩道まで遠く張り出して軽いテーブルと椅子に客はいつも一ぱいだ。さすがに風当りを防ぐ為めに硝子の屏風をたて廻し場の中央に円いストーブを燃している。しかし、戸外はやっぱり戸外だ。街路樹のマロニエの梢に切られて吹きおろす風は遊び女たちの肌にかみそりの刃のように当る。「おお、結構!」身ぶるいをした彼女はそういって、そこでいこじになってヴァニラとチョコレートと盛り分けのアイスクリームを誂える。巴里人達は窮屈嫌いで屈托嫌いで戸外好きだ。
金魚が金魚を見物している。インコがインコを見物している。カフェの店先に衣裳を着飾って同じ衣裳を着飾った行人と眺め交わしている巴里の男女を見るとき、自分はいつもこう思う。それほど彼等は人間離れのした装飾物となってお互いに見惚れることにわれを忘れている。こういう場合、巴里の男女は情痴を却ってうるさいものとする。現代人の彼等は眼の楽しみだけで沢山だ。一々心まで掘下げてはやりきれないという。
カフェの前が大通。オペラ通りを十字に横切ってイタリアン大通。界隈の男女達は潮のようにこの十字路へどよめきかかる。
ルイ朝式の服を着たマダムがポケット猿を抱え人に揺られながら、アルジェリアの服装をした楽師風の男と猿の病気の話をしている。ウルトラヴィオレットの電光飾はほとんど町を硝子細工のようにした。二階造りのショーウィンドウに悉く燈がついて銀色のマネキン人形たちは白い支那絹に出来た緑の影を機械的に見せ合っている。
二度目に自分等が巴里へ入ったとき(最初は私達は子どもだけパリへ置いてロンドンへ渡り約一年後に巴里に来た。)こどもが最初に私達を誘ったのはこのカフェ・ド・ユ・ラ・ペイユだった。
「なるほど美感の贅沢なこの子が巴里を好きで好きでたまらなかった筈だ」
と私はその時思った。
「やっぱり巴里にこどもを取られる――仕方がないかしら」
と私は私自身陶然として来る心のなかでうやむやにもがいた。
「まず、茲で往来の人を見なさい。それからご飯にしよう、ね」
こどもはこんなにも巴里に馴れて来たのかとあきれたような心嬉しさだった。
一年の間によくもこんなにフランス語がはなせるようになった。苦労の嫌いな子が嫌いな苦労ばかりして覚えたものとは思われない。好きなればこそ巴里に沁みつく子どもの心に語学もひとりでに沁みついたのだろう。初めはちっといやみを感じたフランス風の会話にともなう肩の上げ下し手の開き具合いも我が子なればこそあきれた心嬉しさの哀感に変って行く。私は何だかおずおずとして仕舞うのであった。
「どうしたの、おかあさん。相変らず、こどもだなあ」
とこどもは私の肩へ手をかけた。
わたしはこどもから、こどもだといつもいわれる。女なのだ。何もかも生理的にさえまだ出来上っていないかと思われる未熟な女なのだ。それだのに、どうして時には私の兄のようにさえ振舞うこの子への「母のなげき」だけが斯う完全に発達しているのだろう。何かこの子に対する常の歎きが心にたっぷり根を張っているのだ。愛のなげきは不思議なものだ。この子がいとしいと云ってはなげくのだ。この子が憎いという時にはなげき、この子が賢いと嬉んでもなげかれる、この子が愚しく見えても歎かれる。この子がいないでもなげかれるし、この子がいてうるさくてもなげきだ。つまり絶ち切れない因縁のふかみこそはなげきなのだ。
この子がこんなにも好きな巴里だ。自分だって好きな巴里だ。「いつまでも巴里にいたくなった」と英国にいた時着いた手紙にこの子が書いてよこした。私のこの子へのなげきが卑怯にも怯え切った。
「自分が連れて来て仕舞った巴里に奪られるのじゃないか」
と自嘲しても見た。
こどもは画家を志して東京の美術学校へもよい成績で入った。こどもの洋行はゆっくり卒業後という腹で一家はあった。ところが突然、父親が依頼された仕事の関係上、またわたしの勉強の都合上急に日本を立つことになった。そして子どもは予定どおり日本に残して学校を卒業の上代り合って洋行と一応相談を極めた。けれども出立間際になって私は子どもをどうしても手放せなかった。短い一生だ、二三年でも愛に背きたくは無い。無理にでも子どもを連れて行くといい出した。他人は早くから巴里へ修業におやりになり感心な親だとほめた。しかしほんとはほめられた義理のものではなかったのだ。この子どものような母が自分の兄のような大きな子どもが手ばなせないと駄々をこねたに過ぎなかったのだ。いわば情痴と同じなげきからだ。
私のことを何から何まで呑み込んでいられ学校の休学を与えて呉れられた子どもの師匠は笑い乍らいわれた。
「だが、帰りにうまく連れて来られるかな。子供の方で残るなんていったら骨ですぞ」
この言葉の意味は子どもが英国へ巴里を讃美し巴里に愛着をふかめる表現の手紙を呉れる度だんだん私にはっきり分って来た。
「一人で辛いことなかった。太郎さん」
小さい声で私はいった。すると子どもはその手を振り切って父にも聞えるような声で、
「ちっとも――いいや普通だった」と答えた。この子どもはこの子の父親のように感情を現わすのを嫌味とするような肌合のところがあった。
「だけど、おかあさんなんかしつっこい人だもの、僕にいつでもくっついているような気してたもの」
この子どもはまた愛するものをむごくいいすてるくせがあった。
私は洋服も帽子もすっかり巴里風になった子どもを見上げ見下ろした。つい一年ばかり前日本に居た時の美術学校の制服姿が眼に浮ぶ。私の子に対する情痴の結果が子をこんなにも変らせたのか。好いことか悪いことかはそれは知らない。だがもうあの美校姿におそらくこの子は帰ろうとしないだろう。私はベルベットの洋服の袖で眼をぬぐった。
「まだ泣いている。さあ、これから僕達一緒に巴里に棲むんじゃないか。仕合せに元気に暮らそうよ」
子どもは稚い母が泣く意味を知っていた。顔が真赤だった。
私達がパリに棲みつきシャンゼリゼ座で世界の唄手シャリアピンを聴いて帰る道での興奮。西班牙の美女ラッケ・メレの舞踊を見ての礼讃。名優サシャギトリー見物後の批評等。世界の芸術道場に在って親子三人いつも一緒に観賞をむさぼれるのはしあわせだった。だが
「こうして居る間も巴里がいよいよ子どもに染み込む」私の子に対する情痴はいつもおびえていた。
事実巴里は一日一日と子どもに染み込んで行った。巴里をかりに悪くいえば子どもは真赤になって怒った。巴里はもはや完全に子どもの恋人だった。親の見る眼もいとおしいほど子どもの若い心に巴里の悲哀も歓楽も染みて行った。巴里から、とても子どもは離せまいとすっかり見極めをつけずにはいられなくなった。この子の巴里を迎い入れる天稟も私の好尚の第一意義に合致するのはうれしくも遣る瀬ないことだった。
子どもが学校の寄宿へはいり私達がベルリンに移り住む前夜のオペラ見物のかえりに三人はまたカフェー・ド・ユ・ラ・ペイユに行った。夏の夜だった。
「ベルリンから来年の春日本へかえるんだけれど太郎さんはやっぱり残る?」
「おや、またその事?」
子どもは一寸うるさそうにいったが、やがて顔を真赤にしてどもり乍ら云った。
「僕、親に別れるのはつらいけど……でも巴里からは絶対に離れ度く無い!」
わっと私は声を立てて泣いて仕舞った。涙にむせび乍ら私は自分だけに聞えるくらい小さな声で叫んだ。「この小鬼奴! 小鬼奴! 小鬼奴!」
× ×
ドイツで冷静に勉強していた期間に私は決めた。どうせ親の情痴を離れ得ぬとしても今までの情痴を次の情痴に置き換えよう。子がたとえ鬼の娘を妻にして呉れとせがんでも断われないだろう私なのだ。巴里と云う子の恋人の許へ置いて行くよりほかはあるまいものを。世人よ。十年二十年巴里に子を置き違い画かきにするなぞいう野心の親とは私は違う。幸い私が方向を換えた芸術の形式が私に今までの歌より多くの収入を与えるなら、私はみんな子への情痴の世界にそれをつぎ入れよう。巴里と云う恋人と同棲する子にお金の不自由をさせ度く無い。
× ×
今年の始め巴里の停車場で最後に子と別れた私と子の父親は汽車の中で人目も恥じず折重なって泣いた。
フランスの田舎のけしき汽車にして
見よと人いふ泣き沈むわれに。
いとし子を茲には置きてわが帰る
母国ありとは思ほへなくに。
眼界に立つ俤やますら男が
母に別れの涙拭きつつ。
「おとうさんも、おかあさんも、僕別れていると思ってませんよ。ね。一緒に居って仲のわるい親より別れていたってこんなに思い合って居るんですもの」
最後にお前もいつもの恥らいを忘れ感情を露骨に出して泣いてこういった。
おお、よくもこういって呉れた。子よ、太郎よ、今、巴里のカフェー・ド・ユ・ラ・ペイユの張り出し椅子の並ぶあたりに春の夕陽が斜にさしかかってはいないだろうか。
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毎年、多くの日本人がアメリカの大学に留学します
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茅野停車場の十時五十分発上りに間に合うようにと、巌の温泉を出たのは朝の七時であった。海抜約四千尺以上の山中はほとんど初冬の光景である。岩角に隠れた河岸の紅葉も残り少なく、千樫と予とふたりは霜深き岨路を急いだ。顧みると温泉の外湯の煙は濛々と軒を包んでたち騰ってる。暗黒な大巌石がいくつとなく聳立せるような、八ヶ岳の一隅から太陽が一間半ばかり登ってる。予らふたりは霜柱の山路を、話しながらも急いで下るのである。木蘇の御嶽山が、その角々しき峰に白雪を戴いて、青ぎった空に美しい。近くは釜無山それに連なる甲斐の駒ヶ岳等いかにも深黒な威厳ある山容である。
予らふたりはようやく一団の草原を過ぎて、麓を見渡した時、初めて意外な光景を展望した。
諏訪一郡の低地は白雲密塞して、あたかも白波澎沛たる大湖水であった。急ぎに急ぐ予らもしばらくは諦視せざるを得ない。路傍の石によろよろと咲く小白花はすなわち霜に痛める山菊である。京で見る白菊は貴人の感じなれど、山路の白菊は素朴にしてかえって気韻が高い。白雲の大湖水を瞰下してこの山菊を折る。ふたりは山を出るのが厭になった。
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彼が1度リモコンのスイッチを押した
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私はXを時々見掛けました
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各国演劇史
僕は本が好きだから、本の事を少し書かう。僕の持つてゐる洋綴の本に、妙な演劇史が一冊ある。この本は明治十七年一月十六日の出版である。著者は東京府士族、警視庁警視属、永井徹と云ふ人である。最初の頁にある所蔵印を見ると、嘗は石川一口の蔵書だつたらしい。序文に、「夫演劇は国家の活歴史にして、文盲の早学問なり。故に欧洲進化の国に在ては、縉紳貴族皆之を尊重す。而してその隆盛に至りし所以のものは、有名の学士羅希に出て、之れが改良を謀るに由る。然るに吾邦の学者は夙に李園(原)を鄙み、措て顧みざるを以て、之を記するの書、未嘗多しとせず。即文化の一具を欠くものと謂可し。(中略)余茲に感ずる所あり。寸暇を得るの際、米仏等の書を繙き、その要領を纂訳したるもの、此冊子を成す。因て之を各国演劇史と名く」とある。羅希に出た有名の学士とは、希臘や羅馬の劇詩人だと思ふと、それだけでも微笑を禁じ得ない。本文にはさんだ、三葉の銅版画の中には、「英国俳優ヂオフライ空窖へ幽囚せられたる図」と云ふのがある。その画が又どう見ても、土の牢の景清と云ふ気がする。ヂオフライは勿論 Geoffrey であらう。英吉利の古代演劇史を知るものには、これも噴飯に堪へないかも知れない。次手に本文の一節を引けば、「然るに千五百七十六年女王エリサベスの時代に至り、始めて特別演劇興業の為め、ブラツク・フラヤス寺院の不用なる領地に於て劇場を建立したり。之を英国正統なる劇場の始祖とす。而て此はレスター伯に属し、ゼームス・ボルベージ之が主宰たり。俳優にはウイリヤム・セキスピヤと云へる人あり。当時は十二歳の児童なりしが、ストラタフオルドの学校にて、羅甸並に希臘の初学を卒業せしものなり」と云ふのがある。俳優にはウイリヤム・セキスピヤと云へる人あり! 三十何年か前の日本は、髣髴とこの一語に窺ふ事が出来る。この本は希覯書でも何でもあるまい。が、僕はかう云ふ所に、捨て難いなつかしみを感じてゐる。もう一つ次手に書き加へるが、僕は以前物好きに、明治十年代の小説を五十種ばかり集めて見た。小説そのものは仕方がない。しかしあの時代の活字本には、当世の本よりも誤植が少い。あれは一体世の中が、長閑だつたのにもよるだらうが、僕はやはりその中に、篤実な人心が見えるやうな気がする。誤植の次手に又思ひだしたが、何時か石印本の王建の宮詞を読んでゐたら、「御池水色春来好、処処分流白玉渠、密奏君王知入月、喚人相伴洗裙裾」と云ふ詩の、入月が入用と印刷してあつた。入月とは女の月経の事である。(詩中月経を用ひたのは、この宮詞に止まるかも知れない。)入用では勿論意味が分らない。僕はこの誤にぶつかつてから、どうも石印本なるものは、一体に信用出来なくなつた。何だか話が横道へそれたが、永井徹著の演劇史以前に、こんな著述があつたかどうか、それが未に疑問である。未にと云つても僕の事だから、別に探して見た訣ではない。唯誰かその道の識者が、教を垂れて呉れるかと思つて、やはり次手に書き加へたのである。
天路歴程
僕は又漢訳の Pilgrim's Progress を持つてゐる。これも希覯書とは称されない。しかし僕にはなつかしい本の一つである。ピルグリムス・プログレスは、日本でも訳して天路歴程と云ふが、これはこの本に学んだのであらう。本文の訳もまづ正しい。所々の詩も韻文訳である。「路旁生命水清流 天路行人喜暫留 百果奇花供悦楽 吾儕幸得此埔遊」――大体こんなものと思へば好い。面白いのは銅版画の挿画に、どれも支那人が描いてある事である。Beautiful の宮殿へ来た所なども、やはり支那風の宮殿の前に、支那人の Christian が歩いてゐる。この本は清朝の同治八年(千八百六十九年)蘇松上海華草書院の出版である。序に「至咸豊三年中国士子与耶蘇教師参訳始成」とあるから、この前にも訳本は出てゐたものらしい。訳者の名は全然不明である。この夏、北京の八大胡同へ行つた時、或清吟小班の妓の几に、漢訳のバイブルがあるのを見た。天路歴程の読者の中にも、あんな麗人があつたかも知れない。
Byron の詩
僕は John Murray が出した、千八百二十一年版のバイロンの詩集を持つてゐる。内容は Sardanapalus, The Two Foscari, Cain の三種だけである。ケエンには千八百二十一年の序があるから、或は他の二つの悲劇と共に、この詩集がその初版かも知れない。これも検べて見ようと思ひながら、未にその儘打遣つてある。バイロンはサアダナペエラスをゲエテに、ケエンをスコツトに献じてゐる。事によると彼等が読んだのも、僕の持つてゐる詩集のやうに、印刷の拙い本だつたかも知れない。僕はそんな事を考へながら、時々唯気まぐれに、黄ばんだペエヂを繰つて見る事がある。僕にこの本を贈つたのは、海軍教授豊島定氏である。僕は海軍の学校にゐた時、難解の英文を教へて貰つたり、時にはお金を借して貰つたり、いろいろ豊島氏の世話になつた。豊島氏は鮭が大好きである。この頃は毎日晩酌の膳に、生鮭、塩鮭、粕漬の鮭なぞが、代る代る載つてゐるかも知れない。僕はこの本をひろげる時には、そんな事も亦思ふ事がある。が、バイロンその人の事は、殆念頭に浮べた事がない。たまに思ひ出せば五六年以前に、マゼツパやドン・ジユアンを読みかけた儘、どちらも読まずにしまつた事だけである。どうも僕はバイロンには、縁なき衆生に過ぎないらしい。
かげ草
これは夢の話である。僕は夢に従姉の子供と、三越の二階を歩いてゐた。すると書籍部と札を出した台に、Quarto 版の本が一冊出てゐた。誰の本かと思つたら、それが森先生の「かげ草」だつた。台の前に立つた儘、好い加減に二三枚あけて見ると、希臘の話らしい小説が出て来た。文章は素直な和文だつた。「これは小金井きみ子女史の訳かも知れない。何時か古今奇観を読んでゐたら、村田春海の竺志船物語と、ちつとも違はない話が出て来た。この訳の原文は何かしら。」――夢の中の僕はそんな事を思つた。が、その小説のしまひを読んだら、「わか葉生訳」と書いてあつた。もう少し先をあけて見ると、今度は写真版が沢山出て来た。みんな森先生の書画だつた。何でも蓮の画と不二見西行の画とがあつた。写真版の次は書簡集だつた。「子供が死んだから、小説は書けない。御寛恕下さい」と云ふのがあつた。宛は畑耕一氏だつた。永井荷風氏宛のも沢山あつた。それは皆どう云ふ訣か、荷風堂先生と云ふ宛名だつた。「荷風堂は可笑しいな。森先生ともあらうものが。」――夢の中の僕はそんな事も思つた。それぎり夢はさめてしまつた。僕はその日五山館詩集に、森先生の署せられた字を見てゐた。それから畑耕一氏に、煙草を一箱貰つてゐた。さう云ふ事が夢の中に何時か織りこまれてゐたと見える。Max Beerbohm の書いた物に自分の一番集めたい本は、本の中の人物が書いたと云ふ、架空の本だと云ふのである。が、僕は「新聞国」の初版よりも、この Quarto 版の「かげ草」が欲しい。この本こそ手に入れば希覯書である。
(大正十年十二月)
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彼が数のしくみを理解します
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翼賛運動の発足と同時に文化新体制といふ声が起つてきました。この声に応じて、最も率直に、同時に最も欣然として立上つたものは、全国に於る知識層であつたと私は思ひます。その知識層の中で、特に情熱をもつてこの翼賛運動に参加しようとした人々は、文化運動の名の下に、新しい組織と活動とに着手したのであります。
私共はかね〴〵知識層に対する一部世間の批判に対し、その当否よりもむしろ、知識層に属する者の一員として、大きな憂ひを持つてゐました。果して我々知識層は、かういふ国家的な重大時局に当つて、その職域に於て、またその全人格をもつて、国家に御奉公することが出来ないのであらうかどうかといふことを、個人としてはもとより、お互ひ知識層の者としてその向ふべき道について深く思ひを致してゐたのであります。
然るにその後、全国各地に澎湃として起つてきました文化運動の姿を見てゐますと、今日までかれこれと批判されてゐた知識層は、恐らく表面的に面目を一新したと考へられるものもあるかも知れませんが、私自身としましては、これこそ知識層本来の姿であるといひたいやうな、底力のある、しかも、あくまでも理想を追求してやまない逞しい精神に立つた一つの運動の姿を展開し始めたのであります。翼賛会の一員として加はつてをります私自身にとり、まことに力強く、また頼もしく感じてゐる次第であります。
文化運動の意義と使命については、皆様方及び私達は既に共通の一つの理念を掴んでゐることを確信いたします。たゞ文化運動といふものが、それに拠つてゐるものの間には何等の疑がないのに、直接携つてゐない各方面の人々から、まだ一点疑義をさしはさまれてゐるといふ原因は何処にあるかと考へてみますと、やはり、文化運動がそれ〴〵の専門の領域に於ては新しい意義と使命をもつて進められてゐるにも拘らず、自己の立場でのみこの運動を進めようとする傾きが、非常に多いといふ点にあるやうであります。私の考へでは、本来文化運動文化部門のいろ〳〵の専門領域に於てそれ〴〵独自な進み方をして決して差支へないのだと思ひますけれども、現在の日本の実情に於てはまだ、これによつて外の領域と非常に離れてしまひ、つまり文化運動本来の姿であるところの綜合的な問題の採り上げ方をしないで、他の領域と無関係に事が進められてゐるやうな外貌を呈することがあると思ふのであります。
例を挙げてみますと、或る村では保健衛生の問題が採り上げられ、これが一つの文化運動として進められてゐるといふ場合に保健衛生といふ専門的な立場で、勿論この問題が解決出来る筈でありますけれども、専門的な立場からのみ進めてゆくと、他の領域、例へば教育であるとか、経済であるとか、さういふやうな方面と十分な調和が保てないのであります。従つて保健衛生の立場から農村に奨励すべきいろ〳〵な事項が、農村の経済状態とか教育事情と全く無関係に実行を要求されるといふことになりますと、折角の保健衛生の問題の解決が十分に得られないばかりでなく、運動そのものが一方に於ていろ〳〵な誤解を受け、又時には弊害をも生ずるといふことになります。
また生産拡充に邁進してゐる村があるとします。この問題は経済問題と考へて差支へないと思ふのでありますけれども、これが単に経済問題としてのみ進められますと、一方に於て、その村の人気が或る場合に於ては非常に悪くなり、その村の人達が非常に物質的な、功利的な傾向に陥るといふことも沢山あり得るのであります。また生産拡充の面にのみ熱心になつた結果、村民の体位が著しく低下したといふ例もあります。
また今日、模範村といはれてゐるやうな村について実情を調査しますと、成る程或る観点から見てその村は確に他村に勝つた成績を挙げてゐる、しかしそれは或る一点に於てであつて、その他の点に於ては、どうかすると、他の村に較べて最も悪い状態が現れてゐる、といふやうな事が統計の上にも現れてをります。これは私共が其処へ行き、たゞ観察して、直感的にその欠陥を発見することもあるのであります。かういふ風な状態になつてゐることが、今日文化運動の必要を痛感させる一番大きな点だと私は思ふのであります。
先日、私は或る画家と会つて次のやうな話を聞いたのであります。この画家は嘗て非常に貧乏をしまして、辺鄙な或る温泉宿に滞在し、そこの写生をしてゐたのであります。その画家の所へ毎晩のやうに遊びに来る村の駐在所の巡査がありました。この巡査は夕方になると駐在所を引上げて遊びに来る。毎日のやうに話をして行く。ところが或る晩、二人が話をしてゐると宿の女中さんがやつて来て、村の峠に行倒れがあるといふことを巡査に知らせた。彼は話を中途で切上げてアタフタと出て行きました。その時、その画家が巡査に、「君々、握り飯を作つて持つて行つてやり給へ」と言つたが、巡査は画家のその注意に対して、後を振り向き、その言葉が聞きとれたかとれぬか分らないやうな表情をして出て行つてしまつたのであります。
画家は、巡査が恐らく自分の注意を実行しないだらうといふことに気づいて、直ぐ宿のものに握り飯を作つて貰ひ、後を追ひかけた。そしてその時の行倒れの所へ行き、携へた握り飯を出してやりました。画家の直感の通り、その行路病者は空腹に堪へかねて倒れてゐたのであります。行路病者は握り飯を受取ると、喜んでガツ〳〵食べてしまつた。支度をして後から駈付けてきた巡査は、その様子を見て非常に吃驚しました。兎も角巡査は、漸く少し元気を取もどした行路病者を交番に連れて行つて保護をしたのであります。
翌日、彼は画家の所へやつて来、「昨日君が握り飯を持つて行けといつた時には、自分は何のことをいつてゐるのか、意味が分らなかつた。それでそのまゝ出かけて行つたが、あの時に自分は、行路病者が出た場合に警察官として如何なる規則で、如何に取扱つたら誤りがないかといふことばかりを考へながら出かけて行つた。ところが、君はどういふわけか知らんが、直ぐ握り飯だといふことに気がついた。果してその行路病者は空腹のために倒れてゐた。自分は巡査として、どうして君のやうに、行路病者といふ言葉をきいて、直ぐ頭が働かなかつたか。それを思ふと、つく〴〵自分が嫌になつた。」――つまり自分は適任者でないと、しみ〴〵告白したさうであります。
私はその話を聞き、その画家が別に特別な直感力を持つてゐたとは思はない、またその巡査が職務に対して忠実でなかつたとも思はないのであります。けれどもその巡査と画家の違ふところは、巡査が余りに巡査として専門家でありすぎ、画家はたゞ単なる常識のある人間であり社会人であつた点にあると思ふのであります。
文化運動も専門家の運動でありすぎると、この巡査のやうなことになる惧れが非常にあるのではないかと私は考へるのであります。
昨日も熊谷議長(熊谷岱蔵氏)と話をしてゐる間に、農山村のトラホームの話が出ました。トラホームが農山村に非常に多い原因は、一般に衛生知識の不足にあるやうに考へられてをります。それで、一つ手拭を家族同志で使つてはいけない、或は手を清潔にしなければいけないといふやうな知識が普及すれば、トラホームが減少する、乃至は無くなるといふ考へ方があります。従つて対策については、先づ衛生知識の普及といふ努力が今日最も行はれてゐると思ふのでありますが、決してそれだけで農村乃至一般国民の衛生状挙が向上するわけではないのであります。
トラホームの問題は昨日も結論が一致しました。清潔にすると気持がいゝ、清潔であるといふことに対して快感を感ずるといふ訓練が行はれなければ、決して清潔にしようといふ意欲も起らない。衛生を重んじ、体を丈夫にするために清潔にしようといふことは、人間としては殆ど実行出来ないことではないかと私は思ひます。
日常生活を振りかへつて考へて見て、自分の体のためだから、かうしようといふやうな頭の働かせ方をすることは、甚だ稀であります。たゞ、さうするのが自分の好みに叶ふ、その方が気持がいゝからやつてゐることが、たま〳〵衛生に叶ふといふことが多いのであります。むしろどうかすると、衛生には悪いけれどもこの方が気持がいゝといふことを往々にしてやつてゐるのであります。
かういふ点を考へますと、私は文化運動の最も重要なことは、文化的知識よりも、文化的感覚だと思ひます。かう申すと少し極論かも知れませんが、文化的知識と同時に、それと全く同じ重要さをもつて文化的感覚が考へられなければならない。これを留守にしておいては文化運動は殆ど掛声に終るのではないかと思ひます。
また文化運動を進める上に於て我々として注意しなければならぬ一つの点は、文化運動に対する無理解な人達に対して、彼等が一概に悪い、間違つてゐるといふ考へ方をすることであります。私共は文化運動乃至文化問題に対して無理解さを示される場合には、一応憤りを感ずるのでありますが、これは同時に自らにも向けらるべき憤りだと思ひます。これを一つの反省の緒口にしなければならないと思ひます。
我々日本人はどうかしますと、自分に反対するものは悪い人間だ、自分に反対するものは誤つてゐるといふ考へ方を非常にしがちであります。これは今日言はれてゐる所謂独善といふことになると思ひますが、文化運動の精神の中には、少くともこの考へ方を排し、広い判断力がなければ、運動そのものの本質に反し、同時にこれを健全に進め、国民全体の納得を得ることは困難ではないかと、私個人は考へてをります。
東洋には大義親を滅すといふ言葉さへあります。日本の発展のために我々国民が身命を捧げてそれ〴〵の職域に於て、またその全人格をもつて、それ〴〵の方向に邁進しなければならぬことは当然でありますが、徒らに、たゞ相手の悪口をいふことは文化運動のとる方法ではないと考へます。文化運動と政治運動との異るところは、そこにあるのではないかと思ひます。
今日文化運動を進めて行く上に於て、各団体に於ても亦、翼賛会文化部自体に於ても、非常に大きな困難を感じ、又それが或る場合には唯一の障害であるかの如く考へられるのは、やはり文化運動に対する一種の無理解であることは勿論であります。然し、文化運動が健全に進められて行く時にはこの無理解は漸次消滅するといふ確信を私共は持ちたいと考へます。従つて場合によつては、その無理解に対して勿論、敢然として戦はなければなりませんが、戦ひの方法はあくまでもたゞ相手を責めるといふだけの形でなく進みたいものと思ふ次第であります。
将来文化団体の活動の前に幾多の困難、幾多の障害があると思ひますが、正しいことであるのに障害があるとは不都合だとの考へでなく、むしろさういふ障害があることが今日文化運動を必要とする理由であるといふ風に考へたいと思ひます。私が申上げたいと思ふことは、実にこの一点だけであります。
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その気配がまったく無い
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私達は、この社会生活にまつわる不義な事実、不正な事柄、その他、人間相互の関係によって醸成されつゝある詐欺、利欲的闘争、殆んど枚挙にいとまない程の醜悪なる事実を見るにつけ、これに堪えない思いを抱くのであるが、それがために、果して人間そのものについて疑いを抱かないだろうか。
知らぬ人間を容易に信じてはならないということは、一般の人々の習わしの如くになっている。それは、人間を信ずるの余り、思わぬ災害に逢着する事実から、お互に、妄りに信ずべからずとさえ思うに至ったのである。
人間が、人間を信じてならないということは、正しいことだろうか。また、みだりに知らない人を信ずることができないという、それ等の事実は、この人生に於て、黙止してすむべきことだろうか。
いま、多くの人々は、自己の周囲についてのみ、あまりにこだわり過ぎていまいか。そして、あまねく人間に対する考察に於て、また、同じく愛し合わなければならぬ筈のものを、忘れてしまっているのではあるまいか。
自分達の生活――それは、実利的な、独善的な――たゞ、それが支障なく送られゝばそれでいいという考えから、広く人類について、また社会について、考える必要がないとでも思っているのではあるまいか。
そういう人達にとっては、人間に対する、真の慈愛ということも、信義ということも欠けているのだ。
しかし、若し、その人達が、人間についてほんとうに考えるなら、そして、人間を愛する心があるなら、現在、みんなが、人間に対して抱いているような、甚しく、人間それ自からの価値を侮蔑したような考えを有していることに堪えられなくなる筈だ。少くとも、深い疑いを有しなければならぬ筈だ。
かくの如き疑いは、子供の姿を見て、一層切実なるものがあることを感ずる。
子供は、どの子供も正直だ。そして、やさしみがあり、空想的であり、活々として、愉快であることに、少しも異りがない。
大抵の子供は、こうした状態で小学校へ入るまでは、真に楽しい日を送るのである。金持の子供であろうと、また、貧乏人の子供であろうと選ぶところがないのだ。
それが、学校へ入った時分から各の環境によって、異って来る。社会の造った生活というものを知るからだ。
なぜ、こんな正しい、善良な、無邪気な子供が、こうしたよくない人間に変ってしまうのだろう? こゝに、疑いを抱かないものがあろうか。
ほんとうに、みんなが、疑いをば、こゝに抱くべきなのだ。人間というものが、年を取ると、悪くなるとは、きまっているのでない。ます〳〵持っている、よいところを生長させることが当然として考えられなければならない筈なのだ。
子供の純真な姿を見た者は、決して、この人間に対して、絶望をしないであろう。もし人間が救われないものなれば、誰か、人間に対して、理想と信条を有し得よう。誰か、人間の生活について、希望を持ち得よう。
こゝに至って、私は、現在の社会について考え至らなければならない。その禍のよって来る原因を社会に探ねなければならない。そして、社会が、人間を悪くするのであったら、いかにしてそれを改めなければならぬかについて考えなければならない。
社会は、その禍の源を人間に在りとはしなかったか。そして、今、尚お、個人を責めるに苛酷なのではなかろうか。法律がそうであり、教育がそうであり、そして、文芸が、また、そうなのである。しかし、子供の姿を見た者は、疑わずにはいられない。人間から、この純真と無邪気さとを奪ったものは、いったい誰なのか?
顧みて、私達は、年少の時代から、今日に至るまで、どんな考えを抱いて道を歩いて来たか。そのいずれの時代にあっても、曾て希望をば捨てなかった。
『きっと、いまにいゝ世界が、自分達の眼前に開かれる。』
そう思って来たのだ。そして、いま、ようやく、その考を捨てなければならなくなった。虚偽と譎詐と不正に満ちた社会には、もう光明がない。希望を繋ぐことができない。そう考えんとするのだ。
この美しい自然も自由な大空も決して美しくもなければ、また、自由でもないと思うに至ったのである。
人生は、こんな醜悪なものだ、行っても、行っても灰色な道だ。美しいと思っていたのが誤りだったと、誰がそう信じて、満足するであろうか。
人間は、希望と光明を持てばこそ、はじめて、幾多の辛酸を凌いでも、前へ、前へと進んで来たのである。人間が、年若くして、人生を美しいと思った。その信念には、間違いがない筈であった。自然は美しく、大空はかくの如く自由であると考えた。思想は、やはり永久に、変るところがない、正しい思想でなければならないのだ。
人間を絶望せしめ、憂鬱ならしめ、人生に対し、社会に対して、疑いを抱かしめるに至ったのは、たしかに、その原因が、社会になければならない。人間は、自ら造った社会のために、いまや、不具者にされ、人間性を忘れんとさせられている。
そして、ある者は、後から来る無邪気な子供を見て、憐れむのである。その無邪気も、光明も希望も、快活も、やがて奪い去られてしまって、疲れた人として、街頭に突き出される日の、そう遠い未来でないことを感ずることから、涙ぐむのであった。
人間性を信じ、人間に対して絶望をしない私達もいかんともし難い桎梏の前に、これを不可抗の運命とさえ思わなければならなくなってしまった。
しかし、こういうことが、良心あり、一片反抗の意気ある者にとって堪えられようか。私は、これを、いま芸術家の場合についていおうとするのだ。
芸術は、現実の凝視から産れる。現実を忘れて、そこに、吾人に価値ある芸術は存在しない。
私達は、この現実に於て、暴力が憚からずに行われていることを知っている。強者は、徒らに弱者を虐げている事実を見あきる程見ている。人間が、人間を奴隷とし、自欲のためには、他の苦艱をも意としない、そのことが人道にもとるにもかゝわらず。不問にされることも知っている。そして、この社会は、民衆が喜んだり、楽しんだりすることよりは、一層、苦しんだり、悲しんだりしているところであることもよく感じている。
これが疑いなく現実である。それにもかゝわらず、多くの芸術家は、敢てこの現実に触れようともしない。
私のこゝにいう触れるということは、直ちに、その真相を究めようとする誠意のある輩が少いということである。
最も、正直で良心あるものが、芸術家でなければならぬ筈だ。人間に対する深い愛と同情と、正義に対する感激がなかったら、その人は、詩人でない。また、私達のいう芸術家でもない。
最も正直な人間は、誠実なる人間は、この現実を空しく目睹するに忍びなかろうと思う。そして、凝視して、飽迄もその真相を突きとめ、原因を究めようとするにちがいない。
この誠実と感激と良心とから、筆をとるでなければ、私達民衆の仲間でもなければ、また私達の芸術家でもない訳だ。
もし、芸術が、現実生活の描写であり、批評であるなら、何を好んで、彼等はこれを逃れて独善的享楽に行こうとするのか?
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○
「或る田舎に二人の農夫があった。両方共農作自慢の男であった。或る時、二人は自慢の鼻突き合せて喋べり争った末、それでは実際の成績の上で証拠を見せ合おうという事になった。それには互に甘蔗を栽培して、どっちが甘いのが出来るか、それによって勝負を決しようと約束した。
ところで一方の男が考えた。甘蔗は元来甘いものであるが、その甘いものへもって来て砂糖の汁を肥料としてかけたら一層甘い甘蔗が出来るに相違ない。これは名案々々! と、せっせと甘蔗の苗に砂糖汁をかけた。そしたら苗は腐ってしまった」
○
「或ところに愚な男があった。知人が家屋を新築したというので拝見に出かけた。普請は上出来で、何処も彼処も感心した中に特に壁の塗りの出来栄えが目に止まった。そこで男は知人に其の塗り方を訊いてみた。知人が言うには、此の壁は土に籾殻を混ぜて塗ったので斯う丈夫に出来たのであると答えた。
愚な男は考えた。土に籾殻を混ぜてさえああ美事に出来るのである。一層、実の入っている籾を混ぜて塗ったらどんなに立派な壁が出来るだろう。そして今度は自分の家を新築する際に、此のプランを実行してみた。そしたら壁は腐った」
以上二話とも、あまり意気込んで程度を越した考えは、却って不成績を招くという道理の譬え話になるようである。
○
「或るところに狡くて知慧の足りない男があった。一月ばかり先に客を招んで宴会をすることになった。ところで其の宴会に使う牛乳であるが、相当沢山の分量が要るのである。
それを其の時、方々から買い集めるのでは費用もかかり手数もかかると、男は考えたのである。そこで知人から乳の出る牝牛を一ヶ月の約束で賃借りして庭に繋いで飼って置いた。
牝牛の腹から出る牛乳を毎日搾らずに牝牛の腹に貯めて置いたなら、宴会までには三十日分のものが貯って充分入用の量にはなるだろうと思ったのである。
宴会の日が来た。男はしてやったりと許り牝牛の乳を搾った。そしたら牝牛の腹からはやっぱり一日分の分量しか牛乳は出なかった」
○
「何か勲功があったので褒美に王様から屠った駱駝を一匹貰った男があった。男は喜んで料理に取りかかった。なにしろ大きな駱駝一匹料理するのであるから手数がかかる。切り剖く庖丁はじき切れなくなって何遍も研ぎ直さねばならなかった。男は考えた。こう一々研ぎ直すのでは手数がかかってやり切れない。一遍に幾度分も研いどいてやろう。そこで男は二三日がかりで庖丁ばかり研ぎにかかった。
かくて、庖丁の刃金は研ぎ減り、駱駝は暑気に腐ってしまった」
○
「やはり愚な男があった。腹が減っていたので有り合せの煎餅をつまんでは食べた。一枚食べ、二枚食べして行って七枚目の煎餅を半分食べたとき、彼の腹はちょうど一ぱいになったのを感じた。男は考えた、腹をくちくしたのは此の七枚目の半分であるのだ。さすれば前に食べた六枚の煎餅は無駄というものである。それからというものは、この男は腹が減って煎餅を食べるときには、先ず煎餅を取って数えた。一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、そしてこれ等の六枚の煎餅は数えただけで食わないのである。彼は七枚目に当った煎餅を口へ持って行き半分だけ食った。そしてそれだけでは一向腹がくちくならないのを如何にも不思議そうに考え込んだ」(百喩経より)
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□今月は校正の出方が大変に後れました為めにおそくなりました。先月号は二ヶ月ばかり逓信局の納本がしてありませんでした為に郵便局に三四日留め置かれましたので地方へは大変に後れましたでせうと思ひます。何卒あしからず。
□欧洲戦争の為めに洋紙の価が非常に高くなりまして此の頃では以前の倍高くなりましたので情ない私の経済状態では思ふやうな紙も使ひきれなくなりましたので今月からはずつと質をおとしましたけれども、それでも価の点では以上のいゝ紙よりまだ高い位です。だんだんにまだ高くなりさうですがそれではとてもやりきれませんので今月から少し頁数を減じました。併し出来る丈けの頁数はとりたいとおもひます。
□雑誌をもつと小さくしろと云ふ忠告を度々受けますけれど私としては成べく現在のまゝに続けてゆきたいと思ひますので出来る丈け働いて、もう少し経済状態をよくしたいと思ひますが私自身がその日の生活に逐はれてゐる位で御座いますので、思ふばかりで手が届きませんのです。せめて少しづゝでも稿料をお払ひする位には売りたいのが私の望みなのですが、売ることゝ本当にいゝ雑誌をこしらへることゝは両立しませんので――もつとも今の処ではよくて売れないのではありませんが――まあ現在のまゝでとにかく毎月発行を続けて行く事が出来さへすればよいと思ひます。そんな状態ですから何卒直接購読者の方で前金切れの方はお払い込み下さいますやうにお願ひいたします。
□大阪毎日新聞へ「雑音」として今書いてゐますのは私としては非常に自分でもいやでたまらないものです。もつともつと書けるつもりで居りましたのですが十分の一もかけません。何れまとめて出します節にはもう少し自分で満足の出来るやうに書きたいと思ひます。今読んで頂いてゐる方にはどうか今書いてゐる方は黙つてゐて頂きたいのです。本当におはづかしいものですから。
□野上さんがこれから本号にお出し下すつた題で続けていろ〳〵なものを書いて下さるさうで御座います。来月号は哥津ちゃんも久しぶりで書いて下さることになつてゐます。
□二月中旬頃か三月にはいつてからか、皆様の御都合のよさうな時に在京の方々と一度集まつて見たいと思つてゐます。
□「清子」と仰云る方に申ます。何時ぞや下さいましたお手紙では、私にはまだはつきりとあなたの理解が出来ないと仰云つてお出になる点が分りません、お別れになつたのは御尤もな事に思へます。あなたとしてはそれより他に道は御座いませんでしたらうと思ひますがその後に何が残つてゐるのでせう、何卒もう少し委しくあなたの、お心持なり、其処までになつた経過を具体的にお知らせ下さいませんか。
□来月号からは、今月内には皆様のお手許に届く位に早く編輯いたしますつもりです。何卒、今月号の後れましたことをお許し下さいまし。
[『青鞜』第六巻第二号、一九一六年二月号]
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一 お宗さん
お宗さんは髪の毛の薄いためにどこへも縁づかない覚悟をしてゐた。が、髪の毛の薄いことはそれ自身お宗さんには愉快ではなかつた。お宗さんは地肌の透いた頭へいろいろの毛生え薬をなすつたりした。
「どれも広告ほどのことはないんですよ。」
かういふお宗さんも声だけは善かつた。そこで賃仕事の片手間に一中節の稽古をし、もし上達するものとすれば師匠になるのも善いと思ひ出した。しかし一中節はむづかしかつた。のみならず酒癖の悪い師匠は、時々お宗さんをつかまへては小言以上の小言を言つたりした。
「お前なんどは肥たご桶を叩いて甚句でもうたつてお出でなさりや善いのに。」
師匠は酒の醒めてゐる時には決してお宗さんにも粗略ではなかつた。しかし一度言はれた小言はお宗さんをひがませずには措かなかつた。「どうせあたしは檀那衆のやうによくする訣には行かないんだから。」――お宗さんは時々兄さんにもそんな愚痴などをこぼしてゐた。
「曾我の五郎と十郎とは一体どつちが兄さんです?」
四十を越したお宗さんは「形見おくり」を習つてゐるうちに真面目にかういふことを尋ねたりした。この返事には誰も当惑した。誰も? ――いや「誰も」ではない。やつと小学校へはひつた僕はすぐに「十郎が兄さんですよ」といひ、反つてみんなに笑はれたのを羞しがらずにはゐられなかつた。
「何しろああいふお師匠さんぢやね。」
一中節の師匠になることはとうとうお宗さんには出来なかつた。お宗さんはあの震災のために家も何も焼かれたとかいふことだつた。のみならず一時は頭の具合も妙になつたとかいふことだつた。僕はお宗さんの髪の毛も何か頭の病気のために薄いのではないかと思つてゐる。お宗さんの使つた毛生え薬は何も売薬ばかりではない。お宗さんはいつか蝙蝠の生き血を一面に頭に塗りつけてゐた。
「鼠の子の生き血も善いといふんですけれども。」
お宗さんは円い目をくるくるさせながら、きよとんとしてこんなことも言つたものだつた。
二 裏畠
それはKさんの家の後ろにある二百坪ばかりの畠だつた。Kさんはそこに野菜のほかにもポンポン・ダリアを作つてゐた。その畠を塞いでゐるのは一日に五、六度汽車の通る一間ばかりの堤だつた。
或夏も暮れかかつた午後、Kさんはこの畠へ出、もう花もまれになつたポンポン・ダリアに鋏を入れてゐた。すると汽車は堤の上をどつと一息に通りすぎながら、何度も鋭い非常警笛を鳴らした。同時に何か黒いものが一つ畠の隅へころげ落ちた。Kさんはそちらを見る拍子に「又庭鳥がやられたな」と思つた。それは実際黒い羽根に青い光沢を持つてゐるミノルカ種の庭鳥にそつくりだつた。のみならず何か雞冠らしいものもちらりと見えたのに違ひなかつた。
しかし庭鳥と思つたのはKさんにはほんの一瞬間だつた。Kさんはそこに佇んだまま、あつけにとられずにはゐられなかつた。その畠へころげこんだものは実は今汽車に轢かれた二十四五の男の頭だつた。
三 武さん
武さんは二十八歳の時に何かにすがりたい慾望を感じ、(この慾望を生じた原因は特にここに言はずともよい。)当時名高い小説家だつたK先生を尋ねることにした。が、K先生はどう思つたか、武さんを玄関の中へ入れずに格子戸越しにかう言ふのだつた。
「御用向きは何ですか?」
武さんはそこに佇んだまま、一部始終をK先生に話した。
「その問題を解決するのはわたしの任ではありません。Tさんのところへお出でなさい。」
T先生は基督教的色彩を帯びた、やはり名高い小説家だつた。武さんは早速その日のうちにT先生を訪問した。T先生は玄関へ顔を出すと、「わたしがTです。ではさやうなら」と言つたぎり、さつさと奥へ引きこまうとした。武さんは慌ててT先生を呼びとめ、もう一度あらゆる事情を話した。
「さあ、それはむづかしい。……どうです、Uさんのところへ行つて見ては?」
武さんはやつと三度目にU先生に辿り着いた。U先生は小説家ではない。名高い基督教的思想家だつた。武さんはこのU先生により、次第に信仰へはひつて行つた。同時に又次第に現世には珍らしい生活へはひつて行つた。
それは唯はた目には石鹸や歯磨きを売る行商だつた。しかし武さんは飯さへ食へれば、滅多に荷を背負つて出かけたことはなかつた。その代りにトルストイを読んだり、蕪村句集講義を読んだり、就中聖書を筆写したりした。武さんの筆写した新旧約聖書は何千枚かにのぼつてゐるであらう。兎に角武さんは昔の坊さんの法華経などを筆写したやうに勇猛に聖書を筆写したのである。
或夏の近づいた月夜、武さんは荷物を背負つたまま、ぶらぶら行商から帰つて来た。すると家の近くへ来た時、何か柔かいものを踏みつぶした。それは月の光に透かして見ると、一匹の蟇がへるに違ひなかつた。武さんは「俺は悪いことをした」と思つた。それから家へ帰つて来ると、寝床の前に跪き、「神様、どうかあの蟇がへるをお助け下さい」と十分ほど熱心に祈祷をした。(武さんは立ち小便をする時にも草木のない所にしたことはない。尤もその為に一本の若木の枯れてしまつたことは確かである。)
武さんを翌朝起したのはいつも早い牛乳配達だつた。牛乳配達は武さんの顔を見ると、紫がかつた壜をさし出しながら、晴れやかに武さんに話しかけた。
「今あすこを通つて来ると、踏みつぶされた蟇がへるが一匹向うの草の中へはひつて行きましたよ。蟇がへるなどといふやつは強いものですね。」
武さんは牛乳配達の帰つた後、早速感謝の祈祷をした。――これは武さんの直話である。僕は現世にもかういふ奇蹟の行はれるといふことを語りたいのではない。唯現世にもかういふ人のゐるといふことを語りたいのである。僕の考へは武さんの考へとは、――僕にこの話をした武さんの考へとは或は反対になるであらう。しかし僕は不幸にも武さんのやうに信仰にはひつてゐない。従つて考への喰ひ違ふのはやむを得ないことと思つてゐる。
(昭和二・五・六)
| 0.441
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Medium
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私の祖父は釣が所好でして、よく、王子の扇屋の主人や、千住の女郎屋の主人なぞと一緒に釣に行きました。
これもその女郎屋の主人と、夜釣に行った時の事で御座います。
川がありまして、土堤が二三ヶ所、処々崩れているんだそうで御座います。
其処へこう陣取りまして、五六間離れた処に、その女郎屋の主人が居る。矢張り同じように釣棹を沢山やって、角行燈をつけてたそうです。
祖父が釣をしていると、川の音がガバガバとしたんです。
それから、何だろうかと思っていると、旋てその女郎屋の主人が、釣棹を悉皆纏めて、祖父の背後へやって来たそうです。それで、「もう早く帰ろう。」というんだそうです。
「今漸く釣れて来たものを、これから? 帰るのは惜しいじゃないか。」と言ったが、何でも帰ろうというものですから、自分も一緒に帰って来たそうです。
途中で、「何うしたんだ。」と言ったが、何うしても話さなかったそうです。その内千住の通りへ出ました。千住の通りへ出て来てから、急に明るくなったものですから、始めてその主人が話したそうです。
つまり「釣をしていると、水底から、ずっと深く、朧ろに三尺ほどの大きさで、顔が見えて、馬のような顔でもあり、女のような顔でもあった。」と云うのです。
それから、気味が悪いなと思いながら、依然釣をしていると、それが、一度消えてなくなってしまって、今度は判然と水の上へ現われたそうです。
それが、その妙な口を開いて笑ったそうです。余程気味が悪かったそうです。
それから、この釣棹を寄せて、一緒にして、その水の中をガバガバと掻き廻したんだそうです。
その音がつまり、私の祖父の耳に聞えたんです。それから、その女郎屋の主人は、祖父の処へ迎いに来たんです。
楼へ帰ってからその主人は、三月ほど病いました。病ったなり死んでしまいました。
夜釣に行くくらいだからそう憶病者ではなかったのです。水の中も掻き廻わしたくらいなのですけれど、千住へ来るまでは怖くって口も利けなかったと言ってたそうです。
それから私の祖父も釣を止しました。大変好きだったのですが止してしまいました。
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Medium
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今度は読みごたへのある作品が多く、だいたい粒がそろつてゐて、たいへん張り合ひがあつた。それだけにまたそのうちに幾篇かは、優劣をきめにくい長所に支へられてゐて、一篇を選びだすのに困難を感じた。
いろいろな文学賞があつて、それぞれ特色のある立場で、ほゞ限られた傾向のもののうちから、一応出来栄えのいいものを推すといふことであれば、このうちのいくつかは、おそらく何々賞に値するであらうと思はれた。
文学賞などといふものをさう厳密に考へなくてもよささうであるが、私の望むところは、芥川賞の性格をもうすこしはつきりさせて、なるだけ無理のない結果が得られるやうにしたいものだと思ふ。この賞も創作としての戯曲を除外してあるわけではないのに、一度も選にはいらぬといふのも片手落の感があり、今度も、例へば福田恆存の「キティ颱風」のやうな秀作が予選の中にさへ数へられてゐないことを私は指摘したい。
私は、結論として、ともかくも「夏草」(前田純敬)を第一に推すことにした。
私流に考へて、芥川賞ならこの作品に、といふぐらゐな意味においてであつた。幼々しい感動があり、健康な意欲も目立ち、可なり確かな眼で現象も捉へられてゐる。主人公たる少年のうちに生きてゐる作者のすがたには、とくに、銘記すべき一つの時代を暗示するものとして、私は心をうたれた。多少冗漫な個所もなくはないし甘いといへば甘いところがあるにはある。しかし、それらをひつくるめて、やはり新鮮で美しい物語になつてゐる。
「闘牛」(井上靖)は、わが国では珍しい、既に成熟を感じさせる、一個の文学的才能の所産である。常識に富んだ、余情ある巧みな作品がどしどし書ける作家の手腕を示してゐる。現代小説の新しい一つの領域は、かういふ感覚によつて拓かれるともいへるであらう。衆目の見るところ、入賞作として、これも、当を得たものである。私も敢て反対する気持はない。
その他、「還らざる旅路」(那須国男)では徹底した超国境性に、「日本の牙」(池山広)では、苛烈な国籍不明の反日感情に、「天命」(真鍋呉夫)では多彩なロマンチシズムに、「ロッダム号の船長」(竹之内静雄)では粘り強い描写力にそれぞれ非常に興味をひかれた。
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越後が本家であると言はれるおけさ節の朝から晩まで聞ける相川は、毎年七月十三、十四、十五と三日續いての鑛山まつりに、全島のお祭好きを呼び集めます。此時には遙遙海を越えた新潟縣からも、或は祭見に、或は踊りに來る人があります。ほんとうの盆は舊暦ですからこれよりも後になりますが、これはほんのおしるしだけでして、相川の町ではこの鑛山祭を盆と呼んで居ります。
本來鑛山の祭は正月に寳莱祭と言ふのがあり、このときには式場で山で一番の聲の持主が「やはらぎ」、「金山節」、「金堀節」、或は「寳莱節」と言ふのを歌ふ例になつて居り、此外にほんとうの盆に、奉行所の前で、武家も町人も大人も子供も、それぞれ割合てられた時刻に、輪を作つて「御前踊」と言ふのを「相川音頭」或は「御前音頭」と言ふ節に合せて踊つたと言ふ、この二つだけだつたさうです。
奉行所が御料局になつてからは、盆の踊だけが町中を流して踊るものとなり、歌は前に出した五十位の女の覺えてゐたのを聞いたと書いたあの二種のやうな節のおけさで、踊は今日殘つてゐるものとも違ふ型のものだつたのださうです。
それが更に、御料局から三菱の手に鑛山を拂下げるやうになつてから、今日の鑛山祭と言ふものが出來、ほんとうの盆が段段と消滅したのださうです。
で、この七月十三日と言ふ日は、鑛山が三菱の手に移され、宮内省から町へ手切金を下賜された記念日なのです。
此日には町の小學校は休みになり、中學も半休みになり、鑛山には東京の藝人などが來て、その他色色の催物があります。町の家には各戸にお客樣が泊り込んで居り、臨時の飮食店も出來、佐渡全島の藝妓が集まりますので臨時のおき家も出來ます。勿論歌ふ歌はおけさ、それが全島からのですから色色の節くせを持ち込んで來るのです。來る方では相川のを覺えて持つて歸らうと思つて來るのでせうけれども、さう言ふ祭にはとても純粹のものは持つて歸れません。うろ覺えの儘藝者と素人とが銘銘の古巣へ持ち歸つた土産が、銘銘の土地に今迄何處にもなかつた新らしい節を造り出します。それが又來る年の祭までに圓熟して、更に輸入される。それが毎年毎年繰返されるために、相川の節は年年變化して行き、そして粹を拔いたものになるので、從つて相川のおけさは總べてのおけさの花となる譯なのです。
それに、相川のやうに、藝者にしても、町民にしても、おけさばかりを歌つてゐる處はありますまい。それが殊にほかの土地の人よりも多く歌ふ人達なのですから、おけさそのものに變化が無ければとても續かない譯です。相川のおけさを極く粗い譜に取つたのが、私の手に二百近くあります。これに個人のくせや何かを入れたら殆ど無限の節數になりませう。悲しければおけさ、嬉しければおけさ、何につけても人間の心持に共鳴してくれる節を供へてゐるのです。
しかし、私は丁度いい時に居たやうな氣がします。相川と言ふ、新潟から艀のやうな船で行つて、島を横切つて、更に峠を越え、トンネルをくぐらなければ行けない、日本海の眞ん中で西比利亞の方に向いてゐる町、まだ不自然な馬鹿げた自殺的な文明の毒のために人の生活が亡びてゐない町、まちがつた文明の方向に入り込んでゐないから、いきなり來るべき世界に飛び込める青年を澤山に用意してある町。斯う言ふ町にも、多くの他の田舍の小都會同樣、僅かの智識を鼻にかけて純朴な自然を破壞する人達がゐるのです。御當人は皆やはり愛すべき人達なのです。尊敬すべき人達なのです。けれどもさう言ふ人達が、丁度日本人でありながら、日本人の平等な心持を知つてゐる筈の愛すべき人達でありながら、西洋の本を讀んでいきなり、日本の實際も文學も歴史も忘れて、藝娼妓、紳士の戀の對稱となりうる、决して魂の腐つて居ない、决して奴隷でない、西洋人が實地に當つて驚くほど羞恥心も道徳心も立派に持つてゐる娘さんを、醜業婦と呼んだ人達のやうに、藝者の左褄を禁止して見たり、頭に帽子の代に手拭を載せるのを叱つて見たり、自然の發達した當字をよさすことに苦心して見たりするおかみの人達のやうに、色色な改良意見をおけさに對して持つて居りまして、或は「間」の自由を制限したり、節のくせ、言葉の訛などを正して見たりしてゐますから、そろそろ所謂正調なるものが出來て來るかも知れません。
今のところはまだ色色の節が歌はれて居ますので、その中から高い調子のと低い調子のと中位のものと三種だけの譜を左に書きました。高いのは鑛山の女の節だと言はれて居ります。中位のは藝者や町の多くの人に歌はれて居ます。低いのは鑛山の男の節です。
相川のおけさが、外の土地と異つた特色の大事な點は藝者の喉や三味線を離れて成長して來てゐる點です。その點は節ばかりで無く、聲そのものにあります。いかにも素朴なつくつた點の一つもない、初めから調子外れの大聲で無茶苦茶に歌つて出來た聲です。裏をつかつたり、盜んだり、鼻へかけたり、わざと喉をころがしたり、そんな意識的な點を一つも持たない聲です。
此三つの節の中で二上り調子の高いのが一番古く、中音のが私が島に行つた時分から來る頃まで行はれてゐた節です。いづれにしても♩は八十四位です。今ではまた此一下り調子の低い音ら引き上げたやうなのが流行りかけて居ます。それは
とか、
とか歌ふのです。
兩津の節には妙にくるくせがあります。
と、斯う言つた調子です。
村松の人から、村松おけさと言ふのを聞きましたが、まるで佐渡のものと感じが違つて居りました。譜で書きますと、
よく注意して見ると、鑛山の男ぶし、――相川の一番低い調子のおけさ――前に出した今年三十になる女の子供の折の節と出が似て居りますし、中及び下の部分は鑛山の女ぶし――一番高い調子の相川おけさ――ヤーレ、ヤーレマの這入る古いおけさに似てゐます。同じ相川でも遊廓では斯んな節もあります。
字の足りない歌のうたひ方です。
字足らずにはいい文句があります。
思ひ切りや切れるよかねの鎖も切りや切れる
など言ふ歌は字が足りてはならない歌だと思ひます。
其他の歌――
佐渡と越後は竿さしや届く橋をかけたや船橋を
勿論越後に向つた小木の方の歌です。「何故に届かぬわが思ひ」とも歌ひます。
佐渡で搗く餅越後でならす佐渡と越後はひとねばり
「飾つきや」とも、「越後でこねる」とも歌ひます。
金があるとて高慢ぶるな佐渡ぢやみみずがふんに出す
今でも相川の濱邊には瑪瑙や紫石英、赤玉、などと交つて、鑛石が落ちて居ります。三菱が山を引受けてから、慶長以來の捨て鑛を濱から拾ひ、家の屋根の上の板を押へるために載せてゐる石を買ひ取つて、精錬したさうです。
あひが吹かぬか荷が無うて來ぬか但しや新潟の川留か
あひの風は相川では東北北の風、小木邊では東南の風です。
空のよいときや新潟が見える殿はにがたの川裾に
澤根通れば團子が招く團子招くな錢はない
澤根が佐渡の西の船着場、兩津――昔の夷と湊――が東の、小木が南の船着場になつて居ります。小木は今では昔の女郎屋が料理屋に變つて來ました。兩津は今なほ遊廓町です。澤根は近くに二見と言ふ遊廓町を控へて居るので正式の遊女は居りません。此頃から今ではほんとうに胃の腑を滿たす澤根團子と言ふ名物が出來て居ります。
酒は酒屋に團子は茶屋に女郎は相川の市町に
と言ふ歌もあります。
來るか來るかと上沖見れば矢島經島影ばかり
面の憎いは澤崎鼻だ見たい帆影をはやう隱す
これらは小木全盛時代の遺物です。今でも小木の鎭守の社の前には道祖神とならんだ數個の陰陽石に捧げものが絶えません。毎年六月三十日にその社で輪くぐりと言ふものを町の男女にやらせます。男は神殿にある輪をくぐつたら右へまはつて歸る、女はその反對にまはると言ふので、全町の人が其れをやりに行きます。輪はわらで造つて杉の葉で飾つたものです。社は木崎神社と言つて、小木のそとのま、内のまの二つの港のまん中に突き出した半島にあつて、祭神は此花咲耶姫だと言ふ事です。此祭の晩に必ず買はなければならないものは「あやめ團子」と「あぶり餅」です。「あやめ團子」は小さな團子四つを串にさして葛でどろどろに溶いた醤油をつけたものです。「あぶり餅」は菱形の串にさした燒餅でして、これには醤油のほかに黒砂糖を加へてやはり葛で溶いた汁をつけます。
水は水だがうぶすなのそえかえびす女に戸地男(そえはせえの意)
この狄は北狄と言ふところでして、とぢと何れも佐渡の北側にあります。東側の夷とはちがひます。東側の夷は殆んど完全に日本化して居りますが、相川以北の所謂海府地方ではまだ全然人種の違つた、昔のえびすらしい人達が住んで居ます。えびす女にとぢ男、何れも此邊の人は、同じ島でも小木邊の人とは全然違つて、鼻筋が通つた、美しい筋骨を持つた、眼の引つ込んだ、眉毛の長い、脊の高い人達です。どんな肌のなめらかさも、髮の毛の美しさも、骨格と筋肉との持つてゐる力に比べると木つぱのやうなものだと言ふことを、私は佐渡へ行つてはじめて經驗しました。利口さやリフアインさでは無い、炎天の水、饑ゑたときの食物のやうな力で、反省の暇がない位力強く生命そのものを引きつけるのは生きた健康です。美では無い力です。筋肉です。骨格です。想像や夢の生んだ戀で無く戀することの出來る女、そして結婚して男を饑ゑさせない女、疑はずに男を愛しうる女。
いやきやさればおけ主のやうなかぼちや一つ種蒔きや千もなる
男に奴隷のやうにこびりついて上べだけの自由を欲して我儘を言ふ他國の文明人とはちがつた處があります。
可愛い男は百尋たつ沖で烏賊を取るやら眠るやら
烏賊釣りは潮時がありますので、星を時計の代りにして、釣れる時釣れる時のあひまに小舟の上で眠るのです。
可愛い男はみな下通ひに下に松前なきやよかろ
下は北海道方面です。
殿がかあいけりや乘るかごまでも濱に据ゑおく船までも
これは小木の歌でせう。
見送りましよとて濱まで出たが泣けてさらばが言へなんだ
泣いてくれるな出船の時にや綱も碇も手につかぬ
これも港の歌です。
殿が炭たきやわしや幌かけに殿がばいた切りや枝そぎに(ばいたは薪です。)
山で木を切る音なつかしや殿が炭たく山ぢやもの
北は大佐渡南は小佐渡中は國なか米どころ
海産物のほかには炭と米と竹と牛肉などを輸出します。牛飼ひはおけさには出て來ませんが、全島の山に放牧してあります。時時牛が山犬に食はれた噂をききます。犬が牛を食はうとするときには、牛の脊にまづ飛び上がります、そして尻尾に近いところに食ひつくのです。さうすると牛はこれを逐はうとしてぐるぐる回り出します。牛と言ふやつは妙な動物でして、一旦何か爲事を始めると途中で中止してほかの事をすることが出來ないで、だらしなく同じ事を爲續ける動物です。五六回ぐるぐるまはりをやるとあとは何十分でもぐるぐる囘り續けるのです。段段加速度になつて來る、それでも止めない。仕舞には眼が眩んで倒れる。それまで犬は背中で待つて居て、周圍で舌を出し腰を下ろして勇者の放れ業を見物してゐた友人達と一しよに盛宴を張るのです。
斯う言ふ野犬を驅り立てる段になると流石に人間の方が偉いやうです。大勢の村民が得物を持つて澤山の野犬を岩のごつごつした谿間に追ひ込む。犬は必死になつて人間に飛びかかる。けれども人間の手には得物がありますのでぢかに飛び付けない。頭の上を飛び越すのです。人間は低いところに居て犬の飛ぶに連れて犬に背を向けないやうにくるくる方向を轉換して居れば可いのですが、流石に人間は目をまはすやうな回り方をしませんので、卻つてしまひには犬の方が疲れて目が眩んで來るのです。勿論人間は一人も喰ひ付かれたものは無く、岩角で擦剥いたり茨で裂かれたりした傷位をお土産にして歸つて盛宴を張るわけです。
佐渡の牛は本來のものは黒牛ださうです。雜種はすべて南部牛と言つて居りますが、繁殖の方法も放牧中の自由に任して人工的方法を用ひないのですから、全島を通じて同じ樣な體格になつて居ります。第一に眼につくのは全體の小柄なこと、胸に垂れ下つた皮の無いこと、腹から腰へかけてことに引きしまつてゐること、足の早いこと。よほどの急な勾配を平氣で上下して居ります。
時には潮の引いた淺い海を渡つて岸近くの島に渡つて夕方になつて歸れなくなつて陸の方を眺めて鳴いてゐるのもあります。時には突き出した崖から谷底に滑り落ちて死ぬのもあります。持ち主に知らせるにしても斷崖は上れません、茨は着物を裂いてしまひますから、さう言ふ牛は落ちた谷の附近の住民の臨時の御馳走になるのです。
斯う言ふ、牛が何里先まで行つて草木を喰べようと、人が何處へ行つて焚木を拾はうと、誰にも文句を言はれない、周圍五十三里の自然も、全島を占めてゐた御料林を昨年縣に拂下げた時から、せせこましい日本の土地になつて來るやうになつて來て居ります。山の樹を荒らすと言ふので、一九二七年からは六月一日からでないと放牧してはならぬ、五年後には放牧一切罷りならぬと言ふことになつて來て居ります。
齒磨を使はないで、背中を爪でかいて、月拾何圓の生活費で、色の褪めた着物を着て、それで健康と安心とに生きてゐる佐渡人を、抽象的な虚榮、贅澤を以つて都會人の域まで退化さすことが、いくら日本が貧乏でも小さなたつた一つの此島にまで、必要でせうか。尠くなくとも魂の公園としてこの位のものは一箇處保存して置きたいと思ふ。佐渡生まれのおめでたい識者が、縣廳などの單に形式的の物質的の表面的の功利を以つて上役に引立てて貰ふための有毒な宣傳に載せられて、又自分達の虚榮から、島民が苦しんで體裁を作り、更に進んでは都會育ちの化物のやうに寒さにも暑さにも堪へる力を失ひ、少し暗いと眼が利かなくなり、跣足では一歩も歩けないまで退化して、一生を不愉快に過ごすやうにさせて行くことを、單に収入と支出とが増加することを、そして魂が落着を失ふことを、生活が不安定になることを、富を増進さすことを信じてゐる、小利口さ、馬鹿さで、憎むべき罪惡を島民に對して犯してゐるのが、やうやく魂の故郷を見付けた氣持でゐる私に取つては、堪らなく癪でもあり苦痛でもあります。私は佐渡のほんとうの識者、學問があるとか金があるとか利口だとか言ふので無くほんとうに生きてゐる人達――さう言ふ人達はことに佐渡に澤山殘つてゐるのだから――さう言ふ人達が、すべての文化的惡宣傳に載せられず、頑固に野蠻未開を守護して文三の歸るまでやはり同じ大きな聲でおけさをうたつてゐて貰ひたいと思つて居ます。
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老境にはいると、若い時分のような楽みが、だんだんと無くなって来る。殊に近頃の御時勢では、喰べ物も大分まずくなったように思われるし、白米にも御別れを告げたし、いまにお酒もろくに飲めない時が来るかも知れない。只今では、私の楽みといえば、古本いじりときまってしまった。
この頃の寒さでも、天気のいい日に、日当りのよい廊下で、三百年も以前の和本や唐本や洋書などを、手当り次第に取上げて、いい加減のところから読みはじめる楽みは、およそ何物にも代え難いものがある。
妙なもので、書物も三百年位の歳を取ると、私にはただ懐かしいのだ。よくも今まで生きていて、そしてよくも貧しい私の懐に飛込んで来て呉れたものだ。そう云う感謝の気分にもなるし、時にはまた、ほんとうに此世でお目にかかれてよかった、と云う様な、三百年前の恋人とのめぐり逢い。――どうかすると、そんな気分にもなることがあるのである。
しかし、何か仕事をしなければ、書物も買えないような身分の私は、何時までも、そんな陶酔気分に浸っている訳には行かない。やがて其の気分から醒めると、今度は急に、内容の検討、価値批判の精神で、頭が一杯になって来る。三百年前の書物というのも、私に取っては、娯みに読むのではなく、実は仕事のための資料なのだった。
批判することは、批判されるよりも苦しいのだが、しかし、その苦しい批判を外にして、どこに学問の歴史があり得るだろう。
ところが世の中には、批判されるのを、ひどく厭がる学者があるらしいが、私からいわせると、そんな先生は、一日も早く廃業するに限ると思う。
こう云うと、いや真面目な立派な仕事をするからこそ、批判の的になるのである。だから、批判を免れるつもりなら、箸にも棒にもかからぬような、誰も相手にしないような、つまらぬ仕事(?)ばかりやればよいではないかと、皮肉な連中が、にやにや答えるかも知れない。
なるほど、それは一理がある。けれども私にかかっては、それでも駄目なのだ。私は立派なものを批判すると同時に、つまらないものをも批判するつもりなのだ。立派な作品がその時代を代表するなら、愚作もまたその時代を代表する権利を持っている。愚作の意味を認め得ないような歴史家は、片眼しか持たないのだと思う。
ところで私は、遺憾なことに予言者ではないのだから、三百年後のことは見当も付き兼ねるが、しかし三百年後のわが日本は、文運も層一層隆々として栄えることと想像される。
そうすると、其の頃になっても、私と同じような根性の人間が、また生れないとは限らないのである。
そこで今の内に、出版屋さんに告げておきたい。――
もし皆さんが、三百年の後に、昭和時代の学問は皆実に立派なもの許りであったと、云われたいなら、今日以後、つまらない本をば高価にして、保存の出来ない質の紙に印刷するがよい。これに反して、立派な本をば廉価にして、永久性ある紙質を用うべきである。
これが、この歳になって、やっと悟り得た一つの教訓である。(昭和一四・一二・一一)
〔一九四〇年一月〕
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刑鞭を揮ふ獄吏として、自著自評の抗難者として、義捐小説の冷罵者として、正直正太夫の名を聞くこと久し。是等の冷罵抗難は正太夫を重からしめしや、将た軽からしめしや、そは茲に言ふ可きところならず、余は「油地獄」と題する一種奇様の小説を得たるを喜び、世評既に定まれりと告ぐる者あるにも拘らず、敢て一言を揷まんとす。
「油地獄」は「小説評註」と、「犬蓼」とを合はせ綴ぢて附録の如くす。「小説評註」は純然たる諷刺にして、当時の文豪を罵殺せんとする毒舌紙上に躍如たり。然れども其諷刺の原料として取る所の、重に文躰にありしを以て見れば、善く罵りしのみにして、未だ敵を塵滅するの力あらざりしを知るに足らむ。
「油地獄」と「犬蓼」とは結構を異にして想膸一なり。駒之助と貞之進其地位を代へ、其境遇を代ふれば貞之進は駒之助たるを得可く、駒之助は貞之進たるを得べし。然り、駒、貞、両主人公は微かに相異なるを認るのみ、然れども此暗合を以て著者の想像を狭しと難ずるは大早計なり、何となれば著者の全心は、広く想像を構へ、複雑なる社界の諸現象を映写し出でんとにはあらで、或一種の不調子、或一種の弱性を目懸けて一散に疾駆したるなればなり。一種の不調子とは何ぞ。曰く、現社界が抱有する魔毒、是なり。一種の弱性とは何ぞ。過去現在未来を通ずる人間の恋愛に対する弱点なり。
緑雨は巧に現社界の魔毒を写出せり。世々良伯は少しく不自然の傾きを示すと雖、今日の社界を距る事甚だ遠しとは言ふ可らず。栗原健介は極めて的実なり、市兵衛の如き、阿貞の如き、個々皆な生動す。而して美禰子と駒之助に至れば照応甚だ極好。深く今日の社界を学び、其奥底に潜める毒竜を捉らへ来つて、之を公衆の眼前に斬伐せんとの志か、正太夫。
何れの社界にも魔毒あり。流星怪しく西に飛ばぬ世の来らば、浅間の岳の火烟全く絶ゆる世ともならば、社界の魔毒全く其帶を絶つ事もあるべしや。雲黒く気重く、身蒸され心塞がれ、迷想頻に蝟集し来る、これ奇なり、怪なり、然れども人間遂にこれを免かること難し。黒雲果して魔か、大気果して毒か、肉眼の明を以て之を争ふは詩人にあらざるなり。黒雲悉く魔なるに非ず、大気悉く毒なるにあらず、啻黒雲に魔あり、大気に毒ある事を難ぜんとするは、実際世界を見るも実世界以外を見ること能はざる非詩性論者の業として、放任して可なり。
吾人は非精無心の草木と共に生活する者にあらず。慾に荒さび、情に溺れ、癡に狂する人類の中に棲息する者なり、己れの身辺に春水の優々たるを以て楽天の本義を得たりとする詩人は知らず、斉しく情を解し同じく癡に駆られ、而して己れのみは身を挺して免れたる者の、他に対する憐憫と同情は遂に彼をして世を厭ひ、もしくは世を罵るに至らしめざるを得んや。世を厭ふものを以て世を厭ふとするは非なり。世を罵る者を以て世を罵るとするは非なり。世を厭ふ者は世を厭ふに先ちて、己れを厭ふなり。世を罵る者は世を罵るに先だちて、己れを罵るなり。己れを遺れて世を遺るゝを知る。己を空うして世を空うするを知る、誰れか己れを厭ふ事を知らずして真の厭世家となり、己れを罵ることを知らずして真の罵世家となるを得んや。
われは非凡なる緑雨の筆勢を察して、彼が人類の心宮を観ずるの法は、先づ其魔毒よりするを認めたり。彼は人類を軟骨動物と思做し、全く誠信なく、全く忠誠なく、心宮中に横威を奮ふ一種の怪魔が自由に人類を支配しつゝありて、咄々、奇怪至極の此社界かなと観念し来りて、之を奸猾なる健介に寓し、之を窈窕たる美形美禰子に箝め、之を権勢者なる世々良伯に寄す。之を小歌に擬し、下宿屋の女主に份す。著者の眼中、社界の腐濁を透視し、人類の運命が是等の魔毒に接触する時に如何になる可きや迄、甚深に透徹す。是点より観察すれば著者は一個の諷刺家なり。然れども著者の諷刺は諷刺家としての諷刺なる事を記憶せざる可からず。自然詩人の諷刺は、諷刺するの止むを得ざるに至りて始めて諷刺す。始めより諷刺の念ありて諷刺するにあらざるなり。始めより諷刺せんとの念を以て諷刺する者は、自ら卑野の形あり、宜なるかな、諷刺大王(スウィフト)を除くの外に、絶大の諷刺を出す者なきや。
スウィフトの諷刺せし如く、スウィフトの嘲罵したる如くに、沙翁も亦諷刺の舌を有し、嘲罵の喉を持しなり。然れども沙翁の諷刺嘲罵は平々坦々たる冷語の中に存し、スウィフトのは熾熱せる痛語の中にあり。「ハムレット」に吐露せし沙翁が満腔の大嘲罵は、自ら粛厳犯す可からざる威容を備ふるを見れど、スウィフトの痛烈なる嘲罵は炎々たる火焔には似れど、未だ陽日の赫燿たるには及ばず。
諷刺にも二種ありと見るは非か。一は仮時的なり、他は永遠にして三世に亘るなり。仮時的なる者は一時の現象を対手とし、永遠なる者は人世の秘奥を以て対手とす。政治を刺し、社界を諷する者等は第一種にして、人生の不可避なる傷痍を痛刺して、自らも涙底に倒れんとするが如き者は第二種なり。第一種は第二種よりも多く直接の視察より暴発し、第二種は第一種よりも多く哲学的観察によりて湧生す。
第二種のものは戯曲其他の部門に隠て、第一種の者のみ諷刺の名を縦にする者の如し。一時の現象を罵り、政治若くは社界の汚濁を痛罵するを以て諷刺家の業は卒れる者と思は非にして、一時の現象を透観するの眼光は、万古の現象にも透観すべき筈なり。一現象は他の現象と脈絡相通ずるをも徹視すべき筈なり。故に諷刺家は仮時的なりとして賤しむ可きにあらず、一現象の中に他の永遠の現象を映影せしむるを得べければなり。ヱゴイズムを外にし、狂熱を冷散するとも別に諷刺の元質、世に充盈せりと見るは非か。
緑雨は果して渾身是諷刺なるや否やを知らず。譬喩に乏しく、構想のゆかしからぬ所より言へば、未だ以て諷刺家と称するには勝へざるべし。然れども、油、犬、両篇を取って精読すれば、溢るゝばかりに冷罵の口調あるを見ざらんと欲するも得べからず。而して疑ふ、彼の冷罵は如何なる対手に向ふて投ぐる礫なるや。対手なくして冷罵すと言はゞ、彼は冷罵せんが為に冷罵し、諷刺せんが為に諷刺する者にして、世は彼を重んずること能はざるべし。対手ありて冷罵すとせば、如何なる対手にてやあらむ。対手は能く冷罵者を軽重す可ければ、この吟味も亦た苟且にす可からず。
曰く、社界なり。彼は能く現社界を洞察す。特に或る一部分の妖魔を捕捉するの怪力を有す。此点より見れば彼は一個の写実家なり。「油地獄」に書生の堕落を描くところなどは、宛然たる写実家なり。然れども彼に写実家の称を与ふるは非なり、彼は写実の点より筆を着せず、諷刺の点より筆を着したればなり、唯だ譬喩なきが故に、諷刺よりも写実に近からんとしたるなり。彼は写実家が社界の実相を描出せんとするが如くならで、諷刺家が世を罵倒せんとて筆を染むるが如くす。彼が胸中を往来する者は、人間界の魔窟なり、人間界の怪魅なり、心宮内の妖婆なり。彼れ能く是等の者を実存界に活け来つて冷罵軽妙の筆を揮ひ、能く人生の実態を描ける者、豈凡筆ならんや。彼は諷刺家と言はるゝこと能はず、写実家と称へらるゝこと能はず、諷刺家と写実家を兼有せる小説家と名けなば、いかに。
抱一庵の「曇天」想高く気秀いで、一世を驚かすに足るべき小説なりしも、世は遂に左程に歓迎する事なかりし。其故如何となれば、彼は暗々裡に仏国想を担ひ入れて、奇抜は以て人を驚かすに足りしかども、遂に純然たる日本想の「一口剣」に及ばざるを奈何せむ。「辻浄瑠璃」巧緻を極めたりしも遂に「風流仏」に較す可き様もなし。外国想が日本想の純全なるに如かず、一片相が少くとも円満相に如かざることを是なりと認め得ば、余は緑雨が社界の諸共に認めて妖魔とし魅窟とする処の一片相を取り来つて、以て社界全躰を刺すの材料とせるを惜まずんばある可からず。奇想却つて平凡の如くに見え、妙刺却つて痴言の如くに聞え、快罵却つて不平の如くに感ぜらる、斯の如きもの、緑雨が撰みたる材料の不自然にして顕著に過ぎたるものなりしことより起るなり。何が故に不自然なりと云ふ、曰く、社界の魔毒は、緑雨が撰みたる材料の上には商標の如くに見はるれば、之を罵倒するは鴉の黒きを笑ひ、鷺の白きを罵るが如く感ぜらるればなり、罵倒する材料すでに如此なれば、其痛罵も的を外れ、諷刺も神に入らざるこそ道理なれ、又た惜しむべし。
惜む、惜む、この諷刺の盈々たる気を以て、譬喩の面を被らず素面にして出たることを。惜しむ、惜しむ、この写実の妙腕を以て、徒らに書生の堕落といへる狭まき観察に偏したることを。君に写実の能なしとは言はず。天下、君を指目するに皮肉家を以てす、君何んすれぞ一蹶して、一世を罵倒するの大譬喩を構へざる。「小説評註」は些技なり、小説家幾人ありとも未だ罵倒すべき巨幹とはならざるを知らずや。罵倒すべき者あり、爆発弾を行る虚無党が敵を倒す時に自らも共に倒れて、同じく硝煙の中に露と消ゆるの趣味を能く解せば、いざ語らむ、現社界とは言はず、幾千年の過去より幾千年の未来に亘る可き人間の大不調子、是なり。
この評を草する時、傍らに人あり、余に告げて曰く、駒之助と云ひ、貞之進と云ひ、余りに輭弱なる人物を主人公に取りしにはあらずやと。余笑つて曰く、是れ即ち緑雨が冷罵に長ずる所以なり、緑雨は写実家の如くに細心なれども、写実家の如くに自然を猟ること能はず、彼は貞之進を鋳る時、既に八万の書生を罵らんことを思ひ、駒之助を作る時に、既に唐様を学得せる若旦那を痛罵せんとするのみにて、自然不自然は彼に取りて第二の問題なればなりと。
不自然は即ち不自然ながら、緑雨も亦た全く不哲学的なるにはあらず。駒之助の愛情とその物狂ひを写せるところ真に迫りて、露伴が悟り過たる恋愛よりも面白し。諷刺を離れ、冷罵を離れたるところ、斯般の妙趣あり。戯曲的なる「犬蓼」、写実的なる「油地獄」、われはあつぱれ明治二十四年の出色文字と信ず。われは此書を評すとは言はず、只だ奥州より帰りて二日、机上の一冊子を取つて読みしもの、即ち此書にてありければ、読過する数時間に余が脳中に浮び出たる感念を其儘筆に任せて書き了り、思量する暇もあらず、冷罵の事、諷刺の事、当らざるの説多からむ。識者の是正を待つ。
(明治二十五年四月)
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欲しいところに必ずボールが来る
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筍の缶詰ものは、一流日本料理の料理になる資格はないが、二流以下の料理用としては、年中、日本料理にも中国料理にも重宝されているくらいだから、美食原品として一等席へ坐してもよいものであろう。
彼の廿四孝の孟宗は、母のために雪の地下深く竹の芽、すなわち筍を掘って有名であるが、筍は降雪期の前、すでに地下深く萌芽しているから、別にふしぎなことではない。
京阪の一流料理屋が暮の中から、初春から、はしりものとして客の膳に出しているのが、すなわち、それである。その味は出盛り季節の美味ではないが、これはこれで一種捨てがたい風味があって、充分珍重に価する。
しかし、筍も産地による持ち味の等差というものの甚だしいのに驚く。もとより京阪は本場である。関東のそれは場違いとしたい。目黒の筍など名ばかりで、なんの旨味もない。京都では、洛西の樫原が古来第一となっている。その付近に今ひとつ、向日町という上産地がある。洛東の南、伏見稲荷の孟宗藪も近来とみに上物ができて、樫原に劣らぬと自慢している。
しかし、私の経験ではなんと言っても樫原の優良種がよい。噛みしめて著しい甘味があり、香気がすこぶる高い。繊維がなくて口の中で溶けてしまう。
これを季節の味で食えば本来たまらなく美味いが、近来は到るところ料理屋の激増によって料理屋向きを目当てに、廿四孝が掘り出したであろうところの稚筍、すなわち若芽(百匁四、五本のもの)を掘り尽してしまい、いよいよという季節の来た時分は、藪に一本もない始末。従って本場の季節ものは、台所などへは顔を見せてくれない。
ゆがいた筍を永く水に浸しておくのは、味を知らない人のすること、掘って間のない本場ものなら、京都人は、ゆでないでそのまま直ぐに煮て、少しも逃げない味を賞味している。煮冷えすると白い粉が吹いているが、平気で美味さをよろこぶ風がある。
新しい筍を煮るのに、醤油、砂糖でできた汁を筍の肉深く滲み込ませるのは考えものである。日の経った筍や缶詰ものならばそれもよいが、掘りたてのものであってみれば、煮汁を滲みこませないよう中身は白く煮上げるのが秘訣である。
こうしてこそ筍のもつ本来の甘味と香気が生き生きと動いて、春の美菜のよろこびがあると言うもの。しかし、関東ものは本場並みにはいきかねる点もあるから、そこは筍次第で、人おのおのの工夫を要するものとしたい。孟宗の終るころ、はちく・やだけ・まだけが出て、孟宗の大味にひきかえ、乙な小味を楽しませてくれる。
(昭和十三年)
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ある町にたいそう上手な医者が住んでいました。けれど、この人はけちんぼうで、金持ちでなければ、機嫌よく見てくれぬというふうでありましたから、貧乏人は、めったにかかることができませんでした。
それは、雪まじりの風の吹く、寒い寒い晩のことです。
「こんな晩は、早く戸を閉めたがいい。たとえ呼びにきても、金持ちの家からでなければ、留守だといって、断ってしまえ。」といいつけて、医者は、早くから暖かな床の中へ入ってしまいました。
ちょうど、その夜のことでした。この町から二里ばかり離れた、さびしい村に、貧しい暮らしをしている勇吉の家では、母親の病気が募るばかりなので、孝行の少年、勇吉は、どうしていいかわからず、おどおどとしていました。父は、彼が三つばかりのとき、戦争に出て死んでしまったのです。その後は、母と二人で、さびしく暮らしていました。母が、野菜を町へ売りにいく手助けをしたり、鶏の世話をしたりして、母の力となっていました。
二人が、達者のうちは、まだどうにかして、その日を送ることもできたが、母親が病気になると、もうどうすることもできなかったのでした。さいわい、近所の人たちが、しんせつでありましたから、朝、晩、きては、よくみまってくれました。
「勇坊、きょうは、お母さんはどんなあんばいだな?」と、いってくれるものもあれば、
「お米でも、塩でも、私たちの家にあるものなら、なんでもいっておくれ。」と、いってくれるおかみさんたちもありました。
しかし、母親の病気だけは、いまは売薬ぐらいではなおりそうでなかったのです。
「これは、お医者にかけなければなるまい。」と、近所の人々も口には出さぬが、頭をかしげていました。
「お母さん、苦しい?」と、勇吉は、母親のまくらもとにつききりで、気をもんでいましたが、なんと思ったか、急に立ち上がって、
「僕、お医者さまを迎えにいってくる!」といいました。
「勇坊、町からきてもらうには、すぐにお金がいるのだ。それも、すこしの金でないので、私たちも、こうして思案しているのだ。」と、一人の老人がいいますと、
「それに、あの町の医者ときたら、評判のけちんぼうということだからな。」と、いうものもありました。
「僕、なんといっても、お母さんを助けなければならん。無理にも迎えにいって、つれてくるよ。」と、勇吉は、はや提燈に火をつけて、家を飛び出しました。外は真っ暗で、ただ、ヒュウヒュウという、吹雪のすさぶ音がするばかりでした。
勇吉は、暗い野道を提燈の火を頼りに、町へ向かって、小さな足で、急ぎますと、冷たい雪が顔にかかり、またえりもとへ入り込みました。けれど、彼は、ただ母親の身を案ずるので心がいっぱいであって、他のことはなにも感じなかったのであります。
ふと、ピチャピチャという、ぬかるみを歩いてくるわらじの音が耳に入ったので、彼はびっくりして顔を上げますと、目の前へ、白い着物を着て、つえをついた一人の男が立っていました。勇吉は、怖ろしいということも忘れて、じっとかさの下の顔を見ますと、黒いひげが生えていて、目が光っていました。
「おお子供、この夜中に、ひとりでどこへいく?」と、男は、姿に似ず、やさしくたずねたのでした。
勇吉は、そのようすつきで、旅をするお坊さんか、行者であろうと思いましたから、自分は母親が病気なので、これから町へお医者さまを迎えにいくのだということを話しました。
すると、だまって話をきいていた男は、
「おまえが、これから迎えにいく医者は、ただいったのでは、とてもきてはくれまい。この珠をやるからと頼んでみるがいい。」といって、頸にかけていた数珠をはずして、その中から一粒の珠を抜いて、少年の手に渡したのであります。
勇吉は、この思いがけない恵みに、どんなに勇気づいたでありましょう。頭を下げてお礼をいうとすぐさま駈け出したのでありました。
トン、トンと、彼は閉まっている医者の家の戸をたたきました。
「いま時分、どこからか?」といって、取り次ぎは、眠そうな目をこすりながら、戸を開けて、のぞきました。
「もう先生は、お休みになったからだめだ。」と、勇吉を見て、情けなく断りました。
このとき、勇吉は、一粒のぴかぴか光る、小さな珠を出して、これをどうか先生に見せてお願いもうしてくれと頼みました。取り次ぎは、ぶつぶついいながら奥へ入ると、まもなく医者が、玄関へ飛び出してきて、
「この真珠の珠には見覚えがあるが、だれからもらった?」と、ききました。
勇吉は、ここへくるまでの、あったこと、見たことを、すべて物語りました。
「それは、たしかに私の兄だ! 私が悪かったばかりに、十年も前にこの町から、いなくなってしまったのだ。」といって、医者ははじめて目がさめたように、これまでの自分の行いを後悔しました。
「私は、これから、貧しい人たちのためにつくそう……。」
こういって、医者は、さっそく車を呼んで、その車に勇吉もともに乗せて、さびしい村へと走らせたのです。そのとき、勇吉は、心の中で、
「ああ、お母さんは助かった。」と、深く、深く神さまに感謝していました。
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ブロック塀の高さが2mを超える
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子供がじっとわたしの顔を見ました
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「まずいものを、なんとかしてうまく食う方法を教えてくれ」という注文がときどぎ来るが、まずいものをうまくする……そんな秘法は絶対にない。魔術もなかろう。まずい米は所詮まずい。肉も魚類も菜もみな同様であって、一歩も動くものではない。しかし、うまそうにゴマ化す手はある。それは偽りの美味であって、本来の美味ではない。インチキで小児を騙す手はある。こう答えるよりほかはない。
料理する者なら工夫がありそうにも考えられるのであるが、実はまったく不可能という他ないであろう。「まずいものをうまくする」ことは、どんな料理の名人といえども、なし得るものではない。
無理に工夫すれば、冗費と無駄手間をついやし、労多くして功少なしに終わるまでである。
元来料理というものの効果は、大部分が食品材料の質の価値であって、料理人の功績によるものは、一か、二か、三くらいのものである。本質の持ち味、これは善かれ悪しかれ人間力ではできるものではない。例えば、まずい牛肉でうまい洋食を作らんとしてもでき得ないのと同様に、まずいだいこんをうまいだいこんにしてみようといっても、それはできない。しかし、この簡単な事実が、存外世間では知られていない。怪しい世間もあるからである。これは料理人の根本心得として、知るべきだから、ぜひとも聞いて貰いたい。
固い牛肉をやわらかくすることや、固いたいをやわらかくすることはできる。だがそうすることによって、味がうまくなるとはかぎらない。うまいものは本質的にうまく、まずいものはどこまでもまずい。料理人は商売上、幼稚なひとをゴマ化すだけであって、まずいものをうまそうに見せかけたり、悪質のものを良質に見せかけたりする悪知恵はあるが、本質を変えることはできない相談なのである。
何事においても、このようなことはあるものだが、根本的な問題はなんとしても知っておく必要がある。同じだいこんでも「あの料理人が煮るとうまい」という話を聞くが、その場合は、もともとうまいだいこんなのであって、そのうまさは料理人が作ったのでは決してない。良質であって、どうもしなくてもうまいものを、料理人の無法によって、まずくすることはいくらもある。しかし、まずいものをうまい本質に変えてしまうことは神様だってできないだろう。故にどうしても、これだけのことは心得ていてほしいものである。でないと良質材料の選択に一生不自由を重ねなければならんからである。否、良質、悪質に頓着しなくなるおそれがあるからでもある。(昭和二十七年)
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ネット上の不確かな情報を鵜呑みにしてはいけない。
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古来世間でいう「うまい書」というものには、例えば夏の夕、裸であぐらをかいて、夕顔棚の下で涼しい顔をしているようなのがある。
それではまた、先輩諸君を前にして失礼でございますが、また実学上のことを話さしていただきます。
今日、字のことは、相変らずうまいとか、まずいとかいうことで済んでしまっておるようでありますが、前に申し上げましたように、うまいとか、まずいとかいう事はなかなか簡単に片付けられるようなものではありません。ただ、うまいといった所で、うまいのはどうだとか、まずいのはどうだとかいう意義が詳しく得心の行くように分って来なければならないと思うのであります。うまい書は夕顔棚の下で涼しい顔をしておるような、呑気に、洒々として書いておるようなのがございます。例えば、江月和尚のごとき、原伯茶宗のごとき、あるいは、一茶の書なんぞは、そんなことをいって宜しいと思います。
かと思うと、同じ能書でありながら、容姿端麗そのもののようなものもある。
また堂々と三軍を叱咤するような勢いあるものもある。
それからまた非常に厳然とした形の上に正しい謹厳な書もあります。それも能書の中に這入っている。それからまた堂々三軍を叱咤するような勢いのよい字もある。みなさんも、そういう書のある事をご承知であろうと思いますが……。
その他、痩躯鶴のごとき、あるいは鈍愚驢馬のごとき、さては富有牡丹のごとき、なよなよと可憐な野に咲く撫子のごとき、細雨のごとき、あわただしい夕立のごとき等々、形容すれば際限のないほど、いわゆる能書なるものに様々な「柄」がある。
また、非常にひょろひょろとした骨と皮のような字もあります。例えば、竹田のような書はそうだろうと思います。それから非常に鈍感な驢馬のような感じの字もあるのであります。また牡丹のように華やかなものとか、様々な感じのする書がありますが、今日まで著名なものとして残っておりますものは、体裁がどの形体でありましても、やはり、能書として残っております。そうすると、論より証拠、字は必ずしも、こうでなくちゃならぬ、というような体裁書体を持っておるものではない。体裁だけで、もし能書だとか能書でないというような区別が簡単に付けられるものであったならば、規矩整然とした形のものが能書であると決められるのですが、きちんとうまそうに書いてあっても、必ずしもそれを能書といわないのが沢山あります。
これに依ってみても、能書は書体書風の柄で決するものではない。
まあ近い例を挙げますと、申し上げて甚だ悪いようですが、上野あたりに催されます書道展覧会などを見ますと、若い人でも、名のない人でも、きちんとした俗にいう正しい書き方で書いておる字が沢山あります。一見見事に書けておるのが沢山あります。また、上代仮名でも、いかにも体裁が行成や貫之のように書けておるのがあります。これを書いたご当人は非常に得意なことだろうと思いますが、それでも私達から見ますと、能書にもなっていない。それは体裁だけを模倣したものだからであります。現に近頃、貫之風の書が流行している。いかに貫之風に書いてあってもなんにもならぬのです。要は無精神のものですから……。つまり、貫之を皮相的に見ている。非常な皮相の見をなし、貫之の見方を誤っているというように、私どもは思うのであります。そこで貫之の仮名というのは、あの細い線で、巧みに筆が伸びて行って、鮮やかな技巧でありますが、しかし、それだけが貫之の能書の全部ではない。それは貫之の能書の中の技術に属するある一部の柄なんです。模様なんです。図案だといっても宜い。デザインであります。
貫之の生命というものは、その能書の中に無形の姿を以て這入っている、それが貫之の生命でありまして、書体の特色、あれは着物なんです。あるいは住まっている所の家だといって宜いかも知れません。もし、ああいう柄が一番よいとしますと、今後太い型が出て来た場合に、それは三文の価値もないということになりますが、事実、太い線で書けておっても能書だといわれておるのが、ご承知のごとく沢山あります。現に弘法大師の「いろは」のごときも非常に太い線でありましょう。貫之の仮名が細いから良いと限るのではない。また、弘法大師の書が太いから良いというのではない。そう致しますと、能書というも、その字は太いから良いという訳でもなし、悪いという訳でもない。また、貫之、行成のごとくに細い線で書かれた書が良いと限る訳でもなければ、悪いという訳でもない。そうなると太い線で書いても宜いし、細い線で書いても宜いし、それはその人の持って生まれた性分に随い、またその人の好む所に随ってよろしい。また筆などが太い筆であれば、否応なしに太くなるが、それでも構わない。そこで太いとか、細いとか条件を決めてしまおうということが元来、間違っておるのじゃないかと思うのです。今の人の仮名に、見事貫之と同じように細く書いてよく似ているのもありますが、貫之のよいというのは、細い線ではなくして、その線の動きの中に、貫之という人間価値の中味が這入っておりまして、その中味が一番尊いので、その尊い中味があの細い線を自然に動かして行く、非常にデリケートな、微妙な、なんともいえないようなよい線の実を結んでいるのであります。そのよい線というものが未熟の眼に手先で拵えたもののように見えるのです。それを後からの人は、手先で真似する。そうして寸毫も違わぬように形造る。だが、それだけではよい物は出来ない。そこで貫之を学ぶ人に悪口いいますれば、ご苦労さんにも能く真似られたというよりほかに、自慢になることはないだろうと思います。また、器用以上人から尊敬されることはなかろうと思うのであります。
貫之を見んとする時には、貫之の中味を見なくちゃならぬ。しかるを皮相的に、輪郭的に、表面だけ見て、得たりとすることがありましたならば、それは習字する者の考えが間違っているか、あるいはその人の程度が低いとかいうようなことがいえると思うのであります。それで書は結局、形整ではない。線の太い細いではない。勢いが宜いとか筆の運びが速いとか、遅いとか、そういうようなことでもない。結局、自然に近いよい線が引けねばどうあっても悪いのであります。太くても、細くても、それはどちらでも宜い。例えば樹でも細いひょろひょろとした樹もありますが、そうかと思いますと、この庭にあります椎の木のように太い樹もあります。しかしながら、どちらも自然の線を引いております。細い樹は、その枝が矢張り自然の細い線を引いております。椎の木の根幹は、堂々と太い線を引いておる。それで結局細い線も、太い線も同じ線を引張っております。ちょっとも違わない。そこで大師の筆になる太い「いろは」を見ましても、貫之の細い仮名を見ましても、結局は樹木の太い、細いの如くに根本価値は同じことなんです。従って、それが両者ともに後世までどちらも宜いとされておる。ものの程度は、その人によっていろいろと論じられることもありますが、また好みによって分けられることもありますが、根本の是非だけは、ちゃんと決っている。
分り切ったような話でありますが、それが近頃一部の見方で行きますと、そう行かなくなってこうでなくちゃならぬということをいう者もあります。ここの床の間に今日掛かっておりますのは、細野燕台氏が持って来られた楊守敬でありますが、片一方は北方心泉という加州金沢の坊さんであります。楊守敬は、明治年代に日本に来て六朝時代の書、あるいは、その他著名な書道についてショックを与えて、当時の書家を刺激した人であります。鳴鶴とか、巌谷とかいう人が最も刺激を受けまして、筆を使うにしても懸腕直筆というようなものが流行りまして、一種の型を作ったのでありましたが、その新知識を与えたのがこの楊守敬であります。書論なども盛んにやった人であります。それと一方は、やはりそれらの影響を受けた一人の北方心泉であります。今ここに掲げて、芸術的の見方を以て私が批判しますと、まあ、守敬と兄たり難し、弟たり難しというようなものに見えます。しかし、筆の運び方から行きますと、北方心泉の方が囚われた所が少ない。楊守敬の方がむしろ書法に囚われて、悪芝居しておる所があるのであります。北方心泉はかなり古い所を見ましてそれに習っている。筆の運びが素直で、楽々しています。楊守敬の方はなかなか書法などを喧しくいう人だけにそれに引っ掛かっておる所がある。それから古い書の見方が足らない。中国人で当時一流の人でもありますし、中国人としては存外楽に書いてありますが、それでも悠長には行っておらない。北方心泉の方は、全幅が恰も一字の如くぴたっと行っておりますが、こちら守敬は非常にがたがたとして纏まっていません。これは一字一字になんか目的がありますために、一字ずつの面白さを表現する苦心のために、全幅の調子を取り兼ねておるという短がある。その点に於て論じて行きますと、楊守敬の方が北方心泉よりも非芸術的であるということがいえると思います。その未熟という意味が、これだけ筆達者な者に未熟という事はなかろうといわれますが、それをもう一歩進んで見ますと、北方心泉によい字を書くよい天分があって、楊守敬の方にそれが少ない。学ぶのは学んだに違いはないが、書法に現われた根本の美術精神が少し足らない。もし心泉をああいう立場に置いて学問を与えたならば、これが反対のすばらしい書が出来ていたろうと思います。
北方心泉は金沢であったため、東京では余り知られておりませんが、ある時、「実業之日本」の社員で、北方心泉の親類に当る人が私の所へ参りまして、図らずも心泉の話が出ました。その時に率直に申しますと、北方心泉は、非常に珍しい書家だと私がいいました。鳴鶴という書家が東京におって、非常に有名であったけれども、較べると問題にならない。心泉の方が立派である。鳴鶴の方は天分のある人でもなし、こつこつと一種の字を書いたが、鳴鶴は俗調だし、心泉は欲のない点、人格的の違いもあるようだし、というと、そうかといって、親戚でありながら知らない。「鳴鶴くらい書けるのですか」というから「鳴鶴くらいじゃない。鳴鶴が足許にも追っつかないのだ」と私は色をなしていったことがありますが、それくらい北方心泉という人は天分を持って、ご覧の通りよく出来た人であります。
心泉がえらいからといって、どれくらいえらいかということは分りませぬ。大してえらくないかも知れない。仮りに副島種臣伯に較べますと、北方心泉が副島さんの足許にも寄らないのであります。副島さんの書はえらいものでありまして、いわば人為的な書でありながら、非常に自然に近い。それから内容がしっかりしている。それから前にも度々申しましたが――
書には必ず「美」が無ければならぬ。
達者とか立派だといっても、人品賤しきものには「自然美」という「美」は具わらぬ。
書にはどんな書でも美がなくてはいけない。美がなくては能書とはいわれない。いかに立派に書いても、いかに達筆に書いても、その人工的技術の外に自然美というような美がなくちゃいかぬ。雅というものがなくちゃいかぬ。風流とか、雅とかいうものについては、先に行って解剖したいと思いますが、今のところ、簡単に申しまして、風流とか、雅とかいうようなものがなくちゃならぬ。そういうものは、どこから生まれて来るかといいますと、やはり、俗欲のない所から生まれて来るようであります。俗欲の旺盛なものは、いわゆる俗人であります。簡単にあれは俗物だからといいますが、そういうものから雅とか、美とかいうようなものは生まれて来ない。俗人というものは、自然美なんかに刺激される所は少ないようであります。自然の美に見とれて、物質的我欲を忘れてしまうというようなことは、まあ俗人には出来ない。出来ても程度問題であります。ところが常始終俗的なことに余り感興を持たないで、とかく、自然美の世界を見つめている、自然に親しむ機会を望んでいる人が、本当の風流人であり、また、雅人であるように思われます。
至った人というのは「自然美」に対して注意深い人である。
兼行法師なんか『徒然草』にいっておりますが、よき人の住まった家は後から見て非常によいとか、あるいはそのほか、人の家の庭に、石の沢山あるのは見にくいとか、仏間の中に仏様の数の多いのは面白くないとか、家の中に道具の非常に沢山並んでいるのは見にくいとか、立派な事が書いてあります。通人というのはどうかと思いますが、余程至った人であればこそいえるように思います。やはり、結局「自然美」に対して注意深い人であるがために、そんなことがはっきりいえると思うのであります。それでよき人の住まった家は、後から見ても奥床しいように見える。書なんかでもよき人の書いた字はよく、後から見てもその書に美が多いのであります。そこで字を書くのは手でなくて、人だということになると思います。これは字ばかりでなく、絵を描いてもそうであります。つまり、よき人でなくてはよき字は書けない。
習字する場合、筆硯紙墨にいかに心を用うべきか。
今度は手本を選ぶ場合に、よき人の手本で字を習い、よき人の書いた書に始終接しておること。そうすると、それから受ける感化で、自然と自分という人間がよくなって来る。自分という人間がよくなって来るから、よい字が書けるという順序になる。そういうことを、みなほったらかして置いて、いきなり手先器用でうまい字を書いて鼻高々と蠢かそうというのは無理なことでありまして、それは結局、うまい字を書こうということを簡単に考えたからだろうと思うのであります。うまい字を書こうということをもう少し別にしまして、うまい字を自分は書けるか書けないか分らぬが、どうせ字を書くのだから、よい字を書くのだということになったならば、都合が好いと思います。うまい字を書こうと思いますと、普通の三角とか四角とか、正確な四角さなり、正確な三角さなり、正確なまるさにしなくちゃならぬということになります。よい字は字が曲っておっても、よい字である。真直ぐに書けなくても構わない。つまり、よい字ということは規矩的な柄ではない、中味だ。そういうことになるから、この中味のことに注意さえすれば、自然よい字が書ける。そうして、よい字の形の手本で手習をして来れば、自然うまい字が書けるようになって来ると思います。
さて、ご承知の通り「筆硯精良人生一楽」という言葉がありますが、筆とか紙とかいうもので、字はうまく書けるものではないと思います。それはやはり「筆硯精良人生一楽」で、楽しめば宜いと思う。自分の好きな筆を持つ、自分の好きな紙を持つ、自分の好きな墨を磨って楽しむ。紙を見て楽しみ、硯の感覚を味わい楽しみ、筆の柔らかさを楽しみ、硬さに興味を持つ。筆の軸の材料が良い竹だとか、悪い竹だとか、良い毛で筆が出来ておるとか。とにかく読んで字の如く「筆硯精良人生一楽」だと思うのであります。そこでこれは何々という筆をもって字を書けばうまい字が書けるだろうとか、こういう紙に書かせばうまい字が書けるのだがなというようなことは俗だと思います。そういうようなことは、あるにはありますけれども、それに重きを置くことは俗だと思います。筆なんかどんな筆だって、私ども経験によりますと、同じことであります。筆によってうまい字が書けるというようなことは断じてありませぬ。昔から能書筆を選ばずといわれておりますが、全く私もそう思うのであります。筆と紙とでうまい字が書けるならば、自分の好き気儘に求めれば宜いのでありますが、自分の好きな筆を選んだから、紙を得たからといって、決して字がうまくならない。紙も書きよい紙に書けば気持の好いことはありますけれども、それによって直ちにうまい字が生ずることはありませぬ。墨も悪い墨であると粘りっこいので、膠が多いから書きにくいというようなことはありますが、これまで程君墨というような良墨もありますが、そういうものを持ったからといって、別段によい字が書けるということはありませぬ。絵もその通りであります。大雅などの描いている墨色は頗るよい墨色でありますが、あれはやはり大雅の人の色でありまして、墨がよいというのではない。墨でよい絵が出来ますならば、絵描きなどは高い墨さえ使えば宜いのでありますが、そんな墨をなんぼ持った所がよい色が出るものではない。もしこれを化学的に分析しましたならば、大雅の墨色も松花堂の墨色も同じ色に違いない。同じ墨で書いたのだから……、けれどもこれがちょっとした濃淡とか、ちょっとした筆の遅速だとか、その人の品格だとかいうような関係で墨色の感じが紙上に変わる。そこで十人寄れば十人の墨色が出るのであります。しかし、それは墨色が変化したのではない。その人が墨色に化学的変化を及ぼしたのでもない。墨色が変化したのではなく、その人の色が墨とは別の関係で出たということであります。例えば、例がまるで違いますが、人の足音なんかでも知っておれば人が分ります。同じ下駄を履いて同じように歩いても、その人の区別がはっきりと足音を別にします。非常に不思議なものであります。十人寄れば十人とも足音が違うのであります。いかに力を入れて来ても、なよなよと歩いて来ても、その人の足音はその人の足音で、下駄の桐であるとか、地面が柔らかいとか、固いとかによって出るのではなく、その人の個性からの音が出ておる。そういう訳で、その墨色ということも、その人の持って生まれた色が出ておるのです。ちょっとした相違から感じが大変に変わるのです。従ってこれも墨ばかりではありませぬ。これは絵具でもその通り、同じ赤い絵具、青い絵具でも人次第で皆感じが違うのです。その人によってです。墨色ばかりではありませぬ。なんだって同じことであります。それで、結局は筆は見て用いて楽しむべきものである。「筆硯精良人生一楽」で楽しめば宜いという私の考えであります。日用的に今度良い硯を買って来ようとか、良い紙を買って来ようとか、なんぼ高い硯を買って来ても、それによってうまい字が書けるものではない。そういう点がはっきりしておる人、お分りになっておった人もありましょうが、はっきりしておらなかった人もありましょうと思いまして、失礼を顧みずこんな事をいったのでありますが、まあ筆を全部おろして書いても、ほんの先だけで書いても、全部自分の好みで宜いと思いますが、ただ実用の場合に、つるつるした硯であれば、一時間で墨の磨れる所が三時間も四時間もかかる。十分で磨れるものが一時間も二時間もかかります。殊に絵と違いまして、また細かい字を書いたりする場合は別ですけれども、普通の場合には硯が粗くても細かくても、字のうまい、まずいに影響するものではないと思います。誠によい書を見ます場合、筆が悪かったり、硯が非常に悪かったりしている場合もありますが、逆にそれがためにかえって宜い結果の例も沢山あります。それで今はよい筆がないとか、昔はこういう筆があったがということは、それは趣味上楽しむ上から、今を不足だというのならば分っておりますが、それがために、どうもうまく書けないというようなことは断じてないと思うのであります。
(昭和九年)
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自分は、大川端に近い町に生まれた。家を出て椎の若葉におおわれた、黒塀の多い横網の小路をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。幼い時から、中学を卒業するまで、自分はほとんど毎日のように、あの川を見た。水と船と橋と砂洲と、水の上に生まれて水の上に暮しているあわただしい人々の生活とを見た。真夏の日の午すぎ、やけた砂を踏みながら、水泳を習いに行く通りすがりに、嗅ぐともなく嗅いだ河の水のにおいも、今では年とともに、親しく思い出されるような気がする。
自分はどうして、こうもあの川を愛するのか。あのどちらかと言えば、泥濁りのした大川のなま暖かい水に、限りないゆかしさを感じるのか。自分ながらも、少しく、その説明に苦しまずにはいられない。ただ、自分は、昔からあの水を見るごとに、なんとなく、涙を落したいような、言いがたい慰安と寂寥とを感じた。まったく、自分の住んでいる世界から遠ざかって、なつかしい思慕と追憶との国にはいるような心もちがした。この心もちのために、この慰安と寂寥とを味わいうるがために、自分は何よりも大川の水を愛するのである。
銀灰色の靄と青い油のような川の水と、吐息のような、おぼつかない汽笛の音と、石炭船の鳶色の三角帆と、――すべてやみがたい哀愁をよび起すこれらの川のながめは、いかに自分の幼い心を、その岸に立つ楊柳の葉のごとく、おののかせたことであろう。
この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木林のかげになっている書斎で、平静な読書三昧にふけっていたが、それでもなお、月に二、三度は、あの大川の水をながめにゆくことを忘れなかった。動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、静寂な書斎の空気が休みなく与える刺戟と緊張とに、せつないほどあわただしく、動いている自分の心をも、ちょうど、長旅に出た巡礼が、ようやくまた故郷の土を踏んだ時のような、さびしい、自由な、なつかしさに、とかしてくれる。大川の水があって、はじめて自分はふたたび、純なる本来の感情に生きることができるのである。
自分は幾度となく、青い水に臨んだアカシアが、初夏のやわらかな風にふかれて、ほろほろと白い花を落すのを見た。自分は幾度となく、霧の多い十一月の夜に、暗い水の空を寒むそうに鳴く、千鳥の声を聞いた。自分の見、自分の聞くすべてのものは、ことごとく、大川に対する自分の愛を新たにする。ちょうど、夏川の水から生まれる黒蜻蛉の羽のような、おののきやすい少年の心は、そのたびに新たな驚異の眸を見はらずにはいられないのである。ことに夜網の船の舷に倚って、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、たよりのないさびしさに迫られたことであろう。
大川の流れを見るごとに、自分は、あの僧院の鐘の音と、鵠の声とに暮れて行くイタリアの水の都――バルコンにさく薔薇も百合も、水底に沈んだような月の光に青ざめて、黒い柩に似たゴンドラが、その中を橋から橋へ、夢のように漕いでゆく、ヴェネチアの風物に、あふるるばかりの熱情を注いだダンヌンチョの心もちを、いまさらのように慕わしく、思い出さずにはいられないのである。
この大川の水に撫愛される沿岸の町々は、皆自分にとって、忘れがたい、なつかしい町である。吾妻橋から川下ならば、駒形、並木、蔵前、代地、柳橋、あるいは多田の薬師前、うめ堀、横網の川岸――どこでもよい。これらの町々を通る人の耳には、日をうけた土蔵の白壁と白壁との間から、格子戸づくりの薄暗い家と家との間から、あるいは銀茶色の芽をふいた、柳とアカシアとの並樹の間から、磨いたガラス板のように、青く光る大川の水は、その、冷やかな潮のにおいとともに、昔ながら南へ流れる、なつかしいひびきをつたえてくれるだろう。ああ、その水の声のなつかしさ、つぶやくように、すねるように、舌うつように、草の汁をしぼった青い水は、日も夜も同じように、両岸の石崖を洗ってゆく。班女といい、業平という、武蔵野の昔は知らず、遠くは多くの江戸浄瑠璃作者、近くは河竹黙阿弥翁が、浅草寺の鐘の音とともに、その殺し場のシュチンムングを、最も力強く表わすために、しばしば、その世話物の中に用いたものは、実にこの大川のさびしい水の響きであった。十六夜清心が身をなげた時にも、源之丞が鳥追姿のおこよを見そめた時にも、あるいはまた、鋳掛屋松五郎が蝙蝠の飛びかう夏の夕ぐれに、天秤をにないながら両国の橋を通った時にも、大川は今のごとく、船宿の桟橋に、岸の青蘆に、猪牙船の船腹にものういささやきをくり返していたのである。
ことにこの水の音をなつかしく聞くことのできるのは、渡し船の中であろう。自分の記憶に誤りがないならば、吾妻橋から新大橋までの間に、もとは五つの渡しがあった。その中で、駒形の渡し、富士見の渡し、安宅の渡しの三つは、しだいに一つずつ、いつとなくすたれて、今ではただ一の橋から浜町へ渡る渡しと、御蔵橋から須賀町へ渡る渡しとの二つが、昔のままに残っている。自分が子供の時に比べれば、河の流れも変わり、芦荻の茂った所々の砂洲も、跡かたなく埋められてしまったが、この二つの渡しだけは、同じような底の浅い舟に、同じような老人の船頭をのせて、岸の柳の葉のように青い河の水を、今も変わりなく日に幾度か横ぎっているのである。自分はよく、なんの用もないのに、この渡し船に乗った。水の動くのにつれて、揺籃のように軽く体をゆすられるここちよさ。ことに時刻がおそければおそいほど、渡し船のさびしさとうれしさとがしみじみと身にしみる。――低い舷の外はすぐに緑色のなめらかな水で、青銅のような鈍い光のある、幅の広い川面は、遠い新大橋にさえぎられるまで、ただ一目に見渡される。両岸の家々はもう、たそがれの鼠色に統一されて、その所々には障子にうつるともしびの光さえ黄色く靄の中に浮んでいる。上げ潮につれて灰色の帆を半ば張った伝馬船が一艘、二艘とまれに川を上って来るが、どの船もひっそりと静まって、舵を執る人の有無さえもわからない。自分はいつもこの静かな船の帆と、青く平らに流れる潮のにおいとに対して、なんということもなく、ホフマンスタアルのエアレエプニスという詩をよんだ時のような、言いようのないさびしさを感ずるとともに、自分の心の中にもまた、情緒の水のささやきが、靄の底を流れる大川の水と同じ旋律をうたっているような気がせずにはいられないのである。
けれども、自分を魅するものはひとり大川の水の響きばかりではない。自分にとっては、この川の水の光がほとんど、どこにも見いだしがたい、なめらかさと暖かさとを持っているように思われるのである。
海の水は、たとえば碧玉の色のようにあまりに重く緑を凝らしている。といって潮の満干を全く感じない上流の川の水は、言わばエメラルドの色のように、あまりに軽く、余りに薄っぺらに光りすぎる。ただ淡水と潮水とが交錯する平原の大河の水は、冷やかな青に、濁った黄の暖かみを交えて、どことなく人間化された親しさと、人間らしい意味において、ライフライクな、なつかしさがあるように思われる。ことに大川は、赭ちゃけた粘土の多い関東平野を行きつくして、「東京」という大都会を静かに流れているだけに、その濁って、皺をよせて、気むずかしいユダヤの老爺のように、ぶつぶつ口小言を言う水の色が、いかにも落ついた、人なつかしい、手ざわりのいい感じを持っている。そうして、同じく市の中を流れるにしても、なお「海」という大きな神秘と、絶えず直接の交通を続けているためか、川と川とをつなぐ掘割の水のように暗くない。眠っていない。どことなく、生きて動いているという気がする。しかもその動いてゆく先は、無始無終にわたる「永遠」の不可思議だという気がする。吾妻橋、厩橋、両国橋の間、香油のような青い水が、大きな橋台の花崗石とれんがとをひたしてゆくうれしさは言うまでもない。岸に近く、船宿の白い行灯をうつし、銀の葉うらを翻す柳をうつし、また水門にせかれては三味線の音のぬるむ昼すぎを、紅芙蓉の花になげきながら、気のよわい家鴨の羽にみだされて、人けのない廚の下を静かに光りながら流れるのも、その重々しい水の色に言うべからざる温情を蔵していた。たとえ、両国橋、新大橋、永代橋と、河口に近づくに従って、川の水は、著しく暖潮の深藍色を交えながら、騒音と煙塵とにみちた空気の下に、白くただれた目をぎらぎらとブリキのように反射して、石炭を積んだ達磨船や白ペンキのはげた古風な汽船をものうげにゆすぶっているにしても、自然の呼吸と人間の呼吸とが落ち合って、いつの間にか融合した都会の水の色の暖かさは、容易に消えてしまうものではない。
ことに日暮れ、川の上に立ちこめる水蒸気と、しだいに暗くなる夕空の薄明りとは、この大川の水をして、ほとんど、比喩を絶した、微妙な色調を帯ばしめる。自分はひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄のおりかけた、薄暮の川の水面を、なんということもなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流したのを、おそらく終世忘れることはできないであろう。
「すべての市は、その市に固有なにおいを持っている。フロレンスのにおいは、イリスの白い花とほこりと靄と古の絵画のニスとのにおいである」(メレジュコウフスキイ)もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。
(一九一二・一)
その後「一の橋の渡し」の絶えたことをきいた。「御蔵橋の渡し」の廃れるのも間があるまい。
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私のつけ句
連作とは連歌俳諧の如きものであろう。第一の発句は余り限定的でない方がよろしい。脇はこれをいかようにも受けとるであろう。第三はまたそれを別の方向に転化するであろう。そして、最後の揚句と最初の発句とは似もつかぬ姿となることもあり得る。
私はこの連作の第一回を、ホフマンの「砂男」や、ワイルドの「ドリアン・グレイ」を連想しながら書いた。これをすなおに引きのばせば、幻想怪奇の物語となる。老人形師は人形に生命を吹きこむ錬金術師であろう。また、モデル女を誘拐し、監禁する色魔であろう。小説家はこの老魔術師の心を知る人である。知りながら、その妖術のとりことなるのである。
彼はその女の、人間とも人形ともつかぬ妖美にうたれ、これを恋するであろう。この女は人間か、それとも老魔術師が造り出した人形か、この疑惑は物語の終りまで解けないであろう。
冷たい滑かな蝋人の肌に惹かれて、小説家は狂気する。老人形師は彼の恋がたきである。その狡猾な術策と戦わねばならぬ。美女は彼を魅惑し、翻弄し、あらゆる痴態をつくすであろう。その幾場面が語られる。
或る時は、むせ返る酒場の喧噪の中に、妖女は透き通るからだを酔いの桃色に染めて嬌笑するであろう。或る時は、廃園の森の奥深く、泉の水中に長いかみの毛を藻となびかせて、もがきたわむれるであろう。真紅のビロウドのベッドを背景としてもよろしい。青空の風船の吊籠の別世界に、詩人と妖女と相抱きながら、下界を嘲笑してもよろしい。しかし、二人のうしろには、たえまなく、老魔術師の黒い影と、狡猾な悪念がつきまとっている。
さて、その『揚句』は美しき死であろうか。小説家はこの世のほかの妖美に酔いしれて、女と折り重なって息絶えるであろう。そして、美女の死体は、人肉ではなくて、永遠に変ることなき、透き通る蝋の肌なのである。
(「講談倶楽部」昭和二十九年九月増刊)
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一
「諸君! 我輩は……」
突然、悲憤の叫びを上げたのである。
ちょうど甥が出征するという日で、朝から近所の人達が集まり、私もそのささやかな酒宴の席に連っていた。
障子の隙間から覗いた一人が「四郎右衛門の爺様」だと言った。
怒鳴った爺様は、さめざめと泣き出したのである。着物の袖と袖の間に顔を突っ込み、がっくりとして声を発していたが、やがて踵をかえし、すたすたと門口へ消えて行く。
「気でも違ったんじゃあるめえ」と一人が言い出した。
「酔っ払っていたんだねえか。」
「いや、この二三日酒はやらねえ様子だっけな。昨日もなんだか訳の分らねえことしゃべくりながら人に行き逢っても挨拶もしねえで、そこら歩いていたっけから。」
「どうもおかしい。」「普通じゃねえな。」
私はまだこの老爺に直接顔をつき合せたことがなかった。家内はしばしば道で逢って話したり、村の居酒屋で老爺がコップ酒を楽しんでいるところへ行き合せ、限りもない追憶談の中へ引き込まれたりしたらしく、時々、老人のことを噂するのであった。
「ひとりぽっちで淋しいんでしょう、うちへ遊びに来るなんて言ってたわ。」
東京生活をした者は、やはり東京生活をしたことのある者でないと話が合わない、と口癖のように、話し合った最後には付加えたという。
四郎右衛門という家は、同じ部落内のことで、私は幼いときから知っていた。しかしこの老人の存在は、私の知識の範囲外にあったのである。まる二十ヵ年の私の不在の間に、ここの家は空家になってしまっていた。私の記憶にあるのは、陽だまりに草履や笠を手づくりしている一人の老婆と、ささやかな呉服太物の包みを背負って近村を行商して歩いていた四十先きの女房の姿である。この二人のほか、誰もこの家にはいなかった。亭主に死に別れたこの女房には一人の子供があって、それはどこか他県の町に大工を渡世としているとかいったが、たえて故郷へかえるような様子は見えなかったのだ。
いま聞くところによると、無人のこの家に起居している老爺は、舎弟で、つまりあの呉服ものを行商して歩いていた女房の亭主の弟で、少年時東京に出され、徒弟から職工と、いろいろの境遇を経てついに老朽し、職業から閉め出しを喰った人であったのだ。
彼には一人の娘がある。それが浅草辺で芸者をしていて、月々老爺の生活費として十五円ずつ送ってよこす。
「結構な身分さ、たとい芸者だろうと淫売だろうと。……こちとらの阿女らみてえにへっちゃぶれた顔していたんじゃ、乞食の嬶にも貰え手ねえや」と村人は唇辺を引き歪めて噂した。
おそらく娘の手になったものであろう、小ざっぱりした着物をひっかけて、老爺が沼へ釣りに行くところなどを、時々私も望見した。
二
村に百姓をして一生を過ごすものの夢想することも出来ないような安楽な老後を送っている爺様がどうして発狂したのだろうか、ということについて、やがて一座のものは、あれこれと探究し合った。「半五郎に屋敷の木を伐られてからおかしくなったらしいな」とあるものがいった。
「うむ、酔っ払ってそんなこと言っていたことがあったっけな、どこの牛の骨だか分らねえような他人に、この屋敷手つけられるなんて、自分の手足伐られるようだとか何とか、大変な見幕でいきまいていたっけで。」
「でも、権利あるめえから、伐られたって文句の持って行きどころがあんめえ。」
「それはそうだけんど、これで自分の生れた家となれば、たとい権利はなくても、眼の前で大きな木を伐っとばされれば、誰だっていい気持はしめえで。」
「半五郎も困ってやっだんだっぺけんど、少しひでえやな。」
半五郎というのは、同じ村の人で、他村から婿に来たものではあるが、娘を、この四郎左衛門の養女にやった――つまり他県へ出て大工をしている嗣子に子供がなくて、その人へ娘をやり、現在は大工なる人も死に、その娘の代になっている。そして遠方に身代を持っている関係上、親である当の半五郎が後見人として、こちらの家屋敷を管理している、という事情になっているのである。
「そこは人情でな、たとい厄介な奴がころげ込んで来ているとは思っても、爺様と相談づくでやるとか、いくらかの金を分けてやるとかすれば、あんなことにもならずに済んだんだっぺがな。」
「どうしてどうして、そんなことする半五郎なもんか、家の前の柿だってもぎらせまいと、始終見張っていたんだそうだから。」
「それに、芸者をしている娘っちのも、最近、旦那が出来て、どこか、浅草とかに囲われているんだちけど。」
「それじゃ、月々の十五円も問題だってわけかな、これからは。」
「まア、自然そうなっぺな。いくら旦那だって、これで毎月十五円ずつ、妾が送るのをいい顔して見てもいめえしな。」
「結局、金だな。金せえあれば、人間これ発狂もくそもあるもんか。金がねえから気がちがったり、自殺したりするんだよ。」
「ははははア……」と大笑いして、一座は、それから他の話題に移ってしまった。
三
村人殆んど総出で出征兵を送ったあと、また、親戚や近所の人達が集まって、「一杯」やっていた。
するとそこへ四郎右衛門の老爺が再びのこのことやって来るのであった。庭先に立てられた「祝出征……」の旒を、彼はつくづくと見上げていたが、やがてまた、袖と袖の間に顔を埋めてさめざめと泣きはじめた。
泣いては顔を上げて、風に揺れる旒をしみじみと眺め、そしてまたしくしくとすすり上げるのである。
とうとう老爺は、みんなの集まっている縁先近くへやって来た。「諸君……」悲痛な叫びをまたしても上げたのである。それからあとは、地面をみつめ、声をあげて泣き、ややあって、
「わしは、農村の穀つぶしです。自殺しようかと思って考えているんです。」
そして右手を上げて、いきなり涙を打ち払い、すたすたと庭先から往来へ飛び出して行った。
「いよいよ怪しいな」と人々は顔を見合せた。
「飲んだんだあるめえか。さっき郵便屋が書留だなんて爺さまへ渡していたっけから。」
「久しぶりで娘から金が来たか。」
「そうらしかったな。」
「でも、あの顔は飲んだ顔じゃなかったぞ。」
「本当にキの字だとすると、これ近所のものが大変だな。」
心配し出したものもあった。しかしながらその翌日のこと、老爺は付近の家々を一軒一軒廻って歩いて、「俺は決して気なんか違っていない。若いものはみんなああして次ぎつぎに戦地へ出て行く。戦地へ行けない男女老若といえども、それぞれ自分の職に励んで、幾分たりとも国のために尽している。しかるに自分は……」
そう言ってやはり泣き出したという。ある家へ行っては、「自分は失職しない前、砲兵工廠につとめて、何とかいう大佐から感状をいただいたこともある。しかるに現在は、安心しておれる家とてもなく、娘などから金をもらって辛うじて生きている。こんな不本意なことはない」といって、またしても泣き出してしまったという。
ある家では、親切のつもりで、酒なんかあまりやらぬがいい、酒を過ごすと頭も変になる……と忠告すると、ぷりぷり怒って、「第一、酒なんかやる気になれるか、現在を何と思う。俺は昨日娘からまた金をもらったが、これ、この通り一文も手をつけねえで持っている。俺のことを金がなくて気狂いになったなんていう奴もあるというが、俺は、そんな男じゃねえ、見損ってもらうめえ……」
そして蹴とばすように出て行ったとか。
「ますます変だ」と村人は噂し出した。
近所を歩いたという日、老爺は私の家へも立ち寄った。訪う声がするので起ち上りかけると、「奥さんはお留守ですか」と家の中を覗き込んだが、そのまま立ち去ってしまった。
老人が死んでいると聞いたのはそれから三日とは経たなかった。夜半まで、近所の人々は、老人の軍歌を歌っている声、行進するように踊っている足拍子を聞いたという。四郎右衛門とは昔から縁つづきの四郎兵衛という家の若者が、朝十時頃になっても老人の起き出す気配がないので行って見ると、寝床の中から裸の半身を乗り出して、まだ歌い踊っているような恰好の老人を見出した。
検死の結果、心臓麻痺と診断された。娘から来た十何円の金は、そっくりそのまま枕頭の財布の中に入っていた。
「紙幣を握って死ぬなんて、極楽往生じゃねえか、なア」と村人はこの老爺の死をうらやんだ。
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Medium
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地図の作製
どこの国でも、その国の全体の有様を知るのには、地図がつくられていなければなりませんが、正しい地図をつくるのには、すべての場処に出かけて行って土地の測量を正確に行わなければならないのは、言うまでもありません。ところが、我が国においてそのような正確な土地の測量は、昔は殆んど行われていなかったので、従って正しい地図もまるでなかったのでした。それと云うのも、このような測量をするのにはいろいろの精密な器械も必要でありましたし、また土地測量の基準として星の位置を正しく観測することも必要であったからです。そこで、このような仕事が、我が国では最初に誰によってなされたのかと云いますと、それはここにお話ししようとする伊能忠敬に依るのでありまして、しかもその測量は日本全国に及んでいるのですから、実に驚くべき事がらでもあるのです。それは今から百数十年も前のことでありますし、その時代にはどこへ旅をするのにも、すべて自分で足を運ばなくてはならなかったので、全国の地図を完成するのにも、二十年に近い歳月を費さなくてはならなかったのでした。そのようなことを思うと、この大きな仕事を自分一人でなし遂げた伊能忠敬の功績はまことにすばらしいものであったと云わなければなりますまい。そのほかに、ちょうどこの時代にはわが国の北辺がようやく騒がしくなり始め、それに伴れて林子平の『海国兵談』なども出て、国防の問題もいろいろ議論せられるようになっていましたので、それにつけても正確な地図が必要とされたに違いないのですから、この点から見ても忠敬の仕事は大きな意味をもっていたと云わなければならないのでしょう。
ところで、忠敬がどのようにしてこの土地測量の仕事を始めるようになったかと云うことについても、ともかくも古い昔の時代であっただけに、特別な決心が必要であったのに違いないので、それらの事がらについて、次に少しくお話しして見たいと思います。
忠敬の前半生
伊能忠敬は、幼名を三治郎、後に佐忠太と云いましたが、成人して通称三郎右衞門と称し、字は子齊、東河と号し、晩年には勘解由とも称しました。上総国山武郡小関村で延享二年一月十一日に神保利左衞門貞恒の第三男として生まれたのでした。もっともこの時に父は小関村の小關家を継いでいたのでしたが、忠敬が七歳のときに妻の死歿に遭い神保家に戻りましたので、それでも、忠敬は幼かったのでその儘小關家に留まり、十一歳になってようやく父の許に帰ったと云うことです。ですから、忠敬の幼時は言わば不遇の境地に置かれていたのでしたが、その頃から学問を好んでいたということは、後に自分で記している処によっても確かであったのでした。しかしそれでもなかなかその方に向うことなどは思いもよらない処であったので、十八歳になった際には、下総佐原町の伊能家に婿養子に遣られ、その時忠敬と名のることとなったのでした。ところで伊能家は元来は佐原町の豪家であったのでしたが、この頃家運が甚だ衰えていましたので、忠敬はそこへ赴くと共に、まず家運を恢復することに全力を尽さなくてはならなかったのです。それでこの時から実に三十年の長い間、この事に熱心に従い、産業の発展に努めたのでした。この産業という中には、米穀を豊作の土池から買って来て、それを他に売りさばくことや、また醸造や薪問屋の営業などもあったと云うことです。ともかくそのようにして忠敬の一生懸命の努力のおかげで家運も再び盛んになることができたので、それに伴れて忠敬は救民の事業などをも興したので、終には尊敬されて名主ともなり、また幕府からも大いに賞められて、苗字、佩刀をも許されました。この事は忠敬が自分の仕事に対していつも忠実にはたらく人物であることを既に十分に示しているのであります。
ところが、この間に忠敬は妻の死歿に二度も遭っていたと云うので、彼の前半生は決して幸福とは云われなかったのでしたが、それでも自分の仕事に屈することなく励んで来たので、ようやく家運も盛んになったのでした。そこで彼の年齢も五十歳に達して隠居が許されるようになると、さっそくに家督を長子景敬に譲り、自分は江戸に出て、かねてから望んでいた学問の道を修めようと決心したのでした。これはその頃としてもまことに特別な心がけで、忠敬のような人物でなければとても出来なかったところであると思われるのです。
忠敬の学問修業
忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力を具えていたのでしたが、若しそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出るのと時を同じうして江戸に来合わせたということは、忠敬にとってまことに得難い奇遇であったと云わなければなりません。ともかくも忠敬はこの事を聞いて大いに喜び、さっそくに高橋作左衞門の許を訪ずれて、鄭重に入門を請いました。そして測量、地理、暦術を熱心に学びました。この時、忠敬は五十一歳であったのに対し、師の高橋は三十二歳であったのですが、忠敬は高橋を師とあがめて、いろいろな知識や技術を学んだと云うことを思うと、これも実に一つの美談であると云わなければなりますまい。
高橋作左衛門はその頃暦学では他に並ぶものがないと云われたほどの人で、寛政丁巳暦と称せられたのは彼と間重富との方寸によって成り立ったものであったのでしたが、それだけに門弟に対してもなかなかに厳しく教えたということで、それがしかし忠敬には却って幸いであったのでした。忠敬は暦学天文と共に、それを利用して行う土地測量の方法をも熱心に研究しました。土地を測量するのには、或る位置に機械を据えつけて、それで目標の観測を行わなくてはならないのですが、それぞれの土地には傾斜があったり凹凸があるのですから、実際にはいろいろの苦心が要るのです。それで方位を測る器械や、傾斜を測る器械などを工夫して、これを行わなければなりません。それはともかくも西洋で行われている方法を詳しくしらべて、それに依るのがよいと考えて、そこでいろいろな測量の器械をつくって見ました。そのなかには、ものさし(尺度)、間棹、間縄、量程車、羅鍼、方位盤、象限儀、時計、測量定分儀、圭表儀、望遠鏡などがありました。ここではこれらの器械について一々説明しているわけにもゆきませんが、これらに対して忠敬はこまかい注意を加えてできるだけ精密な測量をめざしたのでした。これらの器械のことについては、後に忠敬の門弟の渡邊愼という人が書きのこした「伊能東河先生量地伝習録」という書物にかなり詳しく記されているのですが、それを読んで見ても、忠敬がいかにこれについて苦心を重ねたかがはっきりとわかるのです。
その一つの例をとり出して見ますと、これらの器械のうちで最も簡単なものさしにしましても、その頃我が国ではこれが精密には定まっていなかったのでした。まず比較的に広く行われていた物さしとしては、享保尺というのと、又四郎尺というのとありましたが、それらも幾らか長さのちがいがありました。そこで忠敬はこの二つの物さしの平均をとって新しい尺度を定め、これを折衷尺と名づけ、これを測量の土台にしたのでした。後に明治の時代になって度量衡法を定める場合に、やはりこの忠敬の折衷尺を基として、一メートルが三尺三寸に当ると定められたのですが、ともかく測量を正しく行うのには物さしの寸法をはっきりと定めておかなくてはならないのですから、それを最初に行う人の苦心はこのような処にもあったのでした。忠敬はこの物さしを使って後に地球の緯度の一度が二十八里二分に当るという結果を出しているのですが、これは現在の測定に比べて見ても僅かに千分の二ほどしか異っていないということで、忠敬の測量がその時代としていかに精密なものであったかが、この一事でも知られるのであります。
日本全国の測量
前にも述べたように、ちょうどこの頃我が国の沿海にロシヤの艦船などが出没し、ようやく騒がしくなって来ましたので、寛政十二年になると、幕府が忠敬に命じてまず蝦夷の測量を行わせることになりました。この頃の蝦夷と云えば、まだまるで拓けてもいなかったので、その地を旅するだけでもなかなかの難事であったのでしたが、忠敬は既に五十六歳にもなる身で殆ど一年間を費してその土地測量を行い、その年の十二月に蝦夷の地図をつくり上げたということです。この蝦夷の地で、忠敬は間宮倫宗に出遇い、それから倫宗と親しく交友したのでした。
蝦夷の測量を終ってから、忠敬は更に日本全国の測量を志し、それから実に十八年の長い間到るところに旅してこの大きな仕事を果したというのは、まことに驚くべきことであると云わなければなりますまい。その間に文化元年には尾張、越前より東に当る地図を完成し、同四年にはその後の測量にかかる地図をつくり、文化六年に大体において日本輿地全図をつくり上げました。この中には全国の大図、中図、小図の三種類のものがありましたが、それらは夫々三万六千分の一、二十一万六千分の一、四十三万二千分の一の大いさに相当するものです。何れにしてもこれだけのものを、僅かに幾たりかの門弟と共に完全につくり上げた功績はまことにすばらしいことであると云わなければなりますまい。
忠敬はともかくもこのようにして自分の志した大きな事業を成し遂げた上で、文政元年の四月十三日に江戸八丁堀亀島町の邸で歿しました。その際には、特に遺言して、自分がこのように日本全国を測量するという大きな仕事をなし遂げることのできたのも、全く高橋作左衞門師のおかげであったのであるから、その恩を深く謝するためにせめてその墓側に葬ってくれと云ったとのことです。高橋至時は既にそれ以前の文化元年に歿くなって、浅草の源空寺に葬られていましたので、忠敬の遺骸もこの遺言に従ってその墓側に葬られました。しかしこの時には、その日本輿地全図と、ならびにそれに附隨している輿地実測録とがまだ完全に出来上っていなかったので、その完成を見るまでは忠敬の喪を公けに発表しないでおいたと云うことで、これらが出来上った後に、文政四年の九月四日に喪を発したのでした。
忠敬の著した書物としては、「国郡昼夜時刻対数表」、「記源術並びに用法」、「求割円八線表」、「割円八線表源法」、「地球測遠術問答」、「仏国暦衆編斥妄」などというのがあります。この外に「測量日記」二十八冊、「大日本沿海実測録」十四冊などがあり、これらはその測量の実際を知る上に、特に重要なものであります。下総の佐原町には、忠敬の旧宅が今でも残っていて、これらの書物や、測量に使った器械道具なども保存されているので、これはまことに貴重な記念物であります。
忠敬のすばらしい功績については、今日一般によく認められているのですが、明治十六年にはそれをよみして正四位を追贈せられましたし、また明治二十二年には東京地学協会で芝公園の円山に記念碑を立て、それには「贈正四位伊能忠敬先生遺功碑」としるしてあります。またその後、帝国学士院では、大谷亮吉氏に依嘱して、忠敬の事蹟を詳しく調査し、これが「伊能忠敬」と題する一書となって刊行されています。このようにして忠敬の遺した仕事はいつまでも大きな意味をもって記憶されてゆくことを考えますと、夙く学問の道に志した彼もまた安んじて瞑するに足りるのでありましょう。
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一九二三年(大正十二年)九月一日、例の関東震災で東京の劇場はことごとく灰になつた。が、翌年の三月には早くも新劇の胎動が始まつた。最も代表的なものはいうまでもなく築地小劇場の旗挙げであるが、その傍らで、いくぶん違つた道を進もうとしたいくつかの小さなグループの一つに、新劇協会という劇団があり、当時、帝国ホテル演芸場と呼ばれていたささやかなホールで、細々と公演をつづけていた。
わが岩田豊雄がフランス滞在を切りあげて日本に帰つて来たのは、ちようどその頃であつた。
私も、その少し前に故国の土を踏んだのだが、岩田と私とはほとんど同じ時代にフランスの芝居を勉強しに行つたのに、遂にそれまで相識る機会はなかつた。
彼と私とを結びつけたのは、ヴィユウ・コロンビエの廊下でも築地小劇場の楽屋でもなく、実は、この新劇協会の稽古場であつた。
もつとも、その頃、第一書房から近代劇全集が出ることになつて、私も岩田も二、三の訳を引受けた。
私は岩田の名訳「クノック」に文句なしに感服した。
新劇協会の指導を菊池から委嘱されたのは私と関口次郎、高田保であつたが、特に、私は、岩田豊雄と横光利一の協力を求めた。
岩田がパリで何をしていたか、私は、正確にも、詳しくも知らない。
ただ、芝居という芝居はピンからキリまで観て歩いたらしいことは、二人が会つて話をするたびにだんだんわかつてきた。たいてい、同じ頃、同じような芝居を観ていたことはたしかだ。
おそらく、ヨーロッパの芝居を専門に研究しようとするものでなければ見落しそうな種類の芝居は、みんな観ているので、私は非常に心強く思つた。ただそればかりではない。私がその中でも重要だと思うものを、彼もまた重要なもののなかに数え、その真価と精神とを見事につかんでいるのを知つて、これ以上信頼すべき同志はないと思つた。
新劇協会の運動は、様々な事情で長くは続かなかつたが、最初菊池の手を離れ、ついでプリマドンナ伊沢蘭奢が病死するに及んで、協会は解散したけれども、私と岩田は、関口と語らつて、その研究所だけを承け継ぐことにした。
岩田は戯曲の翻訳と演出のほかに、戯曲を二篇書いている。その一つ「東は東」などは、発表当時正宗白鳥から絶讃を浴びた。なにを感じてか、それきり劇作の筆を絶ち、専ら小説を書いているけれども、彼は、「自由学校」や「やつさもつさ」のような戯曲ならいくらでも書けると思つているに違いない。それをなぜ書かないのか、誰かひとつ訊いてみるといい。
つい二、三日前、北軽井沢から小田原へ帰る途中、私は東京駅のプラットフォームで、ひよつこり彼に出遇つた。「稽古の帰りだ」といつて、やや得意そうに笑つてみせた。私を羨ましがらせるつもりらしい。その証拠に、そのあとで、「やつぱり演出は楽しみだよ」とつけ加えた。
なるほど、彼の演出こそは、他の誰れ彼れが「戯曲」を「書く」ことをも含めた、一層複雑微妙な精神と肉体との活動を意味するのかも知れない。
序に云うが、芝居のプログラムなどで、しばしば岸田國士を岩田國士とやられているが、ごく近い間柄であるだけに、この誤植はちよつと困る。それにしても、岸田豊雄とは頼んでもしてくれそうにない。けだし「岩」さへあれば「岸」はなくとも用は足りるというわけであろうか。
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四月号の『新公論』に、「男性に対する要求」と題した、岩野清子女史の文章がある。実にあきれ返った名論だ。
「日本の男性は女性に対してあまり粗暴である。謹みをかいている。女性の前で猥䙝な話を好んでする傾きがある。……英国あたりの紳士と言われる人々は、婦人の居る席では胸より下のことは決して口にしないそうである……女性をして憤慨させあるいは醜恥心をおこさせる言語動作を謹んでもらいたい。日本服にあぐらをかいて脛や太股を出すような不謹慎なことのない様にしたい。女性に対する時、酔っていてもらいたくない。狎れ狎れしい態度や言語もつつしんでもらいたいと思う。
妻を呼ぶのに、オイコラなどと言う人がある。あれを持って来い、これをしまって置けなどとほとんど下女書生に対して言うのと同等な言葉使いをする夫がある。」
英国の偽善紳士をありがたがったり、妻を下女や書生と違うものと思っているところなどが、実に滑稽極まる。
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花巻・盛岡を巡つて帰つて、私は一顆の栗一顆の小なしを茶の間の卓上に置いてをいた。
一顆の栗と一顆の小なしはそのまゝに、幾日かそのまゝに置かれてあつた。さうした幾日かの後、それら一顆の物は二つとも箪笥の上にあつた。また幾日かして、小なしのはうは黍団子のやうに大事に、隆チヤンとタカチヤンに半分づゝやつてしまつた。
(クラムポンはわらつたよ。)
私は斯う言ふのである。
栗のはうは箪笥のなかに、さうして
(クラムポンはかぶかぶわらつたよ。)
女房は斯う言つてゐるのである。
小なしは、盛岡の菊池さんの兄さんの持地所といふところに百五十年の木があつて取つて貰つたのである。たねなしの小なしが、いま尋常三年生の隆チヤン一年生のタカチヤンの身の内に何れの時に生えるであらうか。栗は、花巻で森さんが路ばたで拾つて私に呉れた一顆の栗は、私の家の小さな庭のなかでも一本の木となるであらう。
(クラムポムは跳ねてわらつたよ。)
私はさう言つてはをれないのである。
「お父さんがなんぼ喜ぶことか、」
と言ってゐた清六さんのために、「風の又三郎」のために考へなければならない。
〔『イーハトーヴオ』創刊号、昭和一四年一一月〕
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◇
滝田君に初めて会ったのは夏目先生のお宅だったであろう。が、生憎その時のことは何も記憶に残っていない。
滝田君の初めて僕の家へ来たのは僕の大学を出た年の秋、――僕の初めて「中央公論」へ「手巾」という小説を書いた時である。滝田君は僕にその小説のことを「ちょっと皮肉なものですな」といった。
それから滝田君は二三ヵ月おきに僕の家へ来るようになった。
◇
或年の春、僕は原稿の出来ぬことに少からず屈託していた。滝田君はその時僕のために谷崎潤一郎君の原稿を示し、(それは実際苦心の痕の歴々と見える原稿だった。)大いに僕を激励した。僕はこのために勇気を得てどうにかこうにか書き上げる事が出来た。
僕の方からはあまり滝田君を尋ねていない。いつも年末に催されるという滝田君の招宴にも一度席末に列しただけである。それは確震災の前年、――大正十一年の年末だったであろう。僕はその夜田山花袋、高島米峰、大町桂月の諸氏に初めてお目にかかることが出来た。
◇
僕は又滝田君の病中にも一度しか見舞うことが出来なかった。滝田君は昔夏目先生が「金太郎」とあだ名した滝田君とは別人かと思うほど憔悴していた。が、僕や僕と一しょに行った室生犀生君に画帖などを示し、相変らず元気に話をした。
滝田君に最後に会ったのは今年の初夏、丁度ドラマ・リイグの見物日に新橋演舞場へ行った時である。小康を得た滝田君は三人のお嬢さんたちと見物に来ていた。僕はその顔を眺めた時、思わず「ずいぶんやせましたね」といった。この言葉はもちろん滝田君に不快を与えたのに違いなかった。滝田君は僕と一しょにいた佐佐木茂索君を顧みながら、「芥川さんよりも痩せていますか?」といった。
◇
滝田君の訃に接したのは、十月二十七日の夕刻である。僕は室生犀生君と一しょに滝田君の家へ悔みに行った。滝田君は庭に面した座敷に北を枕に横たわっていた。死顔は前に会った時より昔の滝田君に近いものだった。僕はそのことを奥さんに話した。「これは水気が来ておりますから、……綿を含ませたせいもあるのでございましょう。」――奥さんは僕にこういった。
滝田君についてはこの外に語りたいこともない訳ではない。しかし匆卒の間にも語ることの出来るのはこれだけである。
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イズムを持つ必要があるかどうか。かう云ふ問題が出たのですが、実を云ふと、私は生憎この問題に大分関係のありさうな岩野泡鳴氏の論文なるものを読んでゐません。だからそれに対する私の答も、幾分新潮記者なり読者なりの考と、焦点が合はないだらうと思ひます。
実を云ふとこの問題の性質が、私にはよくのみこめません。イズムと云ふ意味や必要と云ふ意味が、考へ次第でどうにでも曲げられさうです。又それを常識で一通りの解釈をしても、イズムを持つと云ふ事がどう云ふ事か、それもいろいろにこじつけられるでせう。
それを差当り、我我が皆ロマンテイケルとかナトウラリストとかになる必要があるかと云ふ、通俗な意味に解釈すれば、勿論そんな必要はありません。と云ふよりも寧それは出来ない相談だと思ひます。元来さう云ふイズムなるものは、便宜上後になつて批評家に案出されたものなんだから、自分の思想なり感情なりの傾向の全部が、それで蔽れる訳はないでせう。全部が蔽れなければそれを肩書にする必要はありますまい。(尤もそれが全部でなくとも或著しい部分を表してゐる時、批評家にさう云ふイズムの貼札をつけられたのを許容する場合はありませう。又許容しない事がよろしくない場合もありませう。これは何時か生田長江氏が、論じた事があつたと思ひますが。)
又そのイズムと云ふ意味をひつくり返して、自分の内部活動の全傾向を或イズムと名づけるなら、この問題は答を求める前に、消滅してしまひます。それからその場合のイズムに或名前をくつつけて、それを看板にする事も、勿論必要とは云はれますまい。
又もう一つイズムと云ふ語を或思想上の主張と翻訳すれば、この場合もやはり前と同じ事が云はれませう。
唯、必要と云ふ語に、幾分でも自他共便宜と云ふ意味を加へれば、まるで違つた事が云はれるかも知れません。それなら私は口を噤んだ方がいいでせう。一つにはイズムの提唱に無経験な私は、さう云ふ便宜を明にしてゐませんから。
(大正七年五月)
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役員会が17日、建労センターで開催された
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この頃何年ぶりかでイエーツの戯曲「王の玄関」をよみ返してみた。芝居としては面白くないかもしれないと思つたが、アイルランド人である作者の心がみんなの人物のうちに映つて、天才も常識者も乞食も軍人も愉快に勝手にせりふを言つてゐる。王宮の入口だけを舞台にして、うごきの少ない芝居であるが、同作者の「鷹の井戸」「カスリン・ニ・フーリハン」がさうであるやうに、一つ一つのせりふのかげにひろがる世界があり、その世界の中に時間も動きも無限にふくまれてゐるやうに思はれる。何にしても、こんなに食べ物の事ばかり言つてゐる戯曲はほかにはないやうに思はれるから、詩人には失礼であるけれど、食べものの事を言ひたがる私の随筆の中にこれを一つはさませて頂く。
この劇の主人公である詩人シヤナアンは国に並びない詩人で、今までは王宮の会議に軍人や法律家とならんで国事を議する一人であつた。この国初まつて以来、詩人はその権利を与へられてゐたのであるが、このごろ気の強くなつた軍人や法律家たちは、ただ単に詩を書くだけの人間が自分らと並んで国家の会議に列する資格はないとゐばり出したので、王はこの人たちの機嫌を損ふことを恐れて、詩人を会議の席から追つたのである。シヤナアンは詩がおとしめられ詩人全体の特権を取り上げられたのを憤がいして、その日から王宮の玄関に寝て絶食して死を待つのであつた。古代からこの国では人から堪へがたい侮辱をうけた時、また不当の待遇を受けた時は、その人の門に身を横たへて絶食して抗議するといふ習慣があつたのである。
幕があくと、王宮の玄関の階段に詩人シヤナアンが寝てゐる。その側に、詩人に食べさせようとして種々のたべものを載せた卓がある。腰かけ一つ。入口に垂れたカアテンの前、階段の一ばん上の段に王が立つてシヤナアンの一ばん弟子に話しかけるところで始まる。
よう来てくれた、お前の師匠の生命を取りとめたいと思つてお前を呼んだのだ。もう長いことはあるまい、かまどの火が揺れて消えるやうに、もうすぐ火が消えさうなのだ、王がさう言ふと、熱病でございますか、と弟子が訊く。否、自分から死を選んだので、彼は死んで抗議する積りらしい、私の玄関さきで死んでくれては、民衆が騒いで私を攻撃するだらう。王はその点を心配するのであつた。王は細かくこの三日間の話をする。弟子は、それで安心しました、古い習慣なんぞ、そのために死ぬほどの値うちはございません、私がすすめて何か食べさせませう。弱りきつてうとうとしてゐるので、王の御親切なお声が聞えなかつたかもしれません。王はいろいろな報酬を約束して退場。この時、王はその愚痴の中に詩人のことを並べて“……… His proud will that would unsettle all, most mischievous, and he himself, a most mischievous man, ……”と言つてゐる、今死なうとしてゐる詩人は最もいたづら好きな人間、いたづらつ子なのである。王の眼には常識以外のものはすべてワイルドなもの、またミスチヷスなものときめられてゐる。
弟子は、王が詩人の特権を奪つてしまふのは無理だけれど、そのため死ぬのも馬鹿げてゐる、先生、夢を覚ましてあなたの弟子たちを見て下さい、とシヤナアンを呼び起こす。
シヤナアンは衰弱しきつてうとうと夢を見てゐた、むかしのアルヴインの都の大きな屋根の家で、英雄フィンやオスガアと一しよにゐる夢で、焼豚のにほひがその辺一ぱいにほつてゐた。夢がとぎれて、こんどは王妃グラニヤが流れのそばで鮭を料理してゐるところだつた。かはいそうに、空腹が焼肉の夢をみさせたのですね、満月の夜に鶴は饑える、自分の影ときらきら光る水を恐れて。あなたはその鶴みたいだと弟子が言ふ。お前の声も顔もよく知つてるやうだけれど、お前はだれだらう、詩人が訊く。師と弟子とは詩と常識をまぜたいろいろの問答をする。師は詩人であり、弟子は常識家であるらしい。
会議の席に、王の側に坐ること、それはさほどの大事ではありません。そんな些細な事が詩にさはるのでせうか? 弟子が訊く。シヤナアンは少し起き上がつて、ゆめみるやうに前方を見ながら言ふ、燈火祭のときだつた。詩は神のお作りなされた力強いもの、又かよはいものの一つであるとお前が言つた、すこしの侮辱にも死んでしまふかよはいものであるとお前は言つた。
一ばん弟子は何と返事しようかと他の弟子たちに相談する。最年少の弟子が詩人の足下に跪いて歎く、父の畑に働いてゐた私をお手もとにお呼びになつて、今さらお捨てになるのですか、私はこれから何を愛しませう? 私の耳に音楽を聞かせて下さつたあとで、騒音の中に行かせようとなさるのですか、今からトランペツトもハアプも捨てませう、破れた心で詩は作れません。
シヤナアンはこの若い弟子に言ふ、お前に約束されたものは、詩人の悲しみではなかつたか? 私はこの階段の上に詩の学校を開く、お前が一ばん若い弟子なのだ。みんなに言ふ、すべての物がほろびて廃墟となる時、詩は歓びの声を上げる。詩はまき散らす手だ、割れる器だ、燔祭の焔にもえる犠牲者の歓喜だ、その歓喜は今この階段の上で笑つてゐる、泣いてゐる、燃えてゐる。
先生、どうぞ死なないで下さい、若い弟子が泣く。一ばん弟子は弟子たち一同を連れて王の許に詩人の特権をもう一度返して下さるやう頼みに行く。楽器を下に置き一同首垂れてしづかに退場する。
そのあとへ市長と二人の跛と、詩人の老僕ブライアンと登場。詩人の住む市キンヷラの市長である。市長は演説のけいこをするやうに諸人に向つて演説する。二人の跛は王の悪口をいふ、そして詩人の前に並べられた食物をたべたがる。老僕は詩人に食を進めると、詩人はぼんやり受けとる。跛はそれを見て、詩人が食べてしまふだらうと惜しがる。猫に蜜をくれたり、犬に木の実をやつたり、お墓の幽霊に青い林檎をくれたところで、それはもつたいない事だと惜しがる。詩人は食物をブライアンの手に返して、お前は旅をして来たのだから、これはお前がたべるがいい、と僕に言ふ。僕も市長も跛もそこでめいめい勝手なことを一度にしやべり出す。一人がいひ止めると、別のものがしやべり出し、騒音が一つのリズムをつくり出す。
しづかにしてくれ、と侍従長が階段を下りて来て騒ぎを叱る。その吊台を何処かに持つてゆき、みんな退散してくれ。王宮の玄関なるものは、特権階級や歎願者の通る道である、早くこの騒ぎを静めよ、と言ふ。老僕はかごの中に食物をしまひ込み、権力者や高位の連中は軍隊を持たないものの特権なんぞ構ふものか、と答へる。
侍従長は杖で一同を追ひ払ふ。市長はその杖を避けながら侍従長に幾度もお辞儀をして、詩人は私の言葉をきき入れない、誰の言葉も聞きいれないから、詩人の婚約者をつれて来ませうと退場。侍従長はシヤナアンに、王も貴族も自分もこんなに好意を寄せてゐるのに、無理に物を食はず死んで、民衆を叛かせようとするのですかと愚痴を言ふ。そこへ坊さんが王宮から出て来たので、一言いつて下さいと頼む。坊さんは、自分は勝手気儘な詩人の空想を攻撃した説教を今までにたくさん作つてゐるから、今さら詩人の御機嫌はとれないと断る。侍従長はまた軍人に頼む。軍人は、強情つぱりは死ぬのがよろしいと言ふ。王宮に仕へる若い貴婦人が軍人に頼む、あんなに骨と皮ばかしにやせてるんだから、何か食べさせて上げてよ、と第一の貴婦人がいふ。第二の貴婦人は、琴手たちはもう誰も琴を弾いてくれないでせうから、私たちダンスも出来ません、あの人に何か食べさせて頂戴、と頼む。二人の女たちはかはるがはる右手に軍人の手を取り左手で撫でる。一人が皿をもつて来て軍人に持たせるので、軍人はシヤナアンの前に皿を出す。君は死ぬ気かい? そこに寝ころんで料理のにほひでも嗅ぐがよい。王もじつに手ぬるいことだ、と憎らしさうに言ふ。王の犬よ、王の前に行つて尾を振つてゐろ、詩人がやり返すので軍人は剣を抜く。侍従長はそれを抑へて、詩人に怪我でもさせたら、民衆がどんな騒動を起すか分らないから、我慢してくれと頼む。軍人は、今になつて詩人を甘やかす位なら、会議の席に置いとけばよいのにと、怒りながら剣を納める。侍従長は微笑したりお辞儀をしたりひどく丁寧な言葉で御機嫌をとる。詩人は荒つぽい空想の言葉を投げつけて侍従長やみんなを退散させる。坊さんは、シヤナアンよ、もうお別れする、生きてるあなたの顔もこれが見納めだ、何か最後の願ひは? と顔をよせる。詩人は、あなたのあの気荒い神はこの頃おとなしくなりましたか? あなたが王から俸給を貰ふ前には、神はずゐぶんあなたに苦労をさせたらう? この頃あなたは神を手なづけて、王の食事のあひだにさへづることを教へたかね? 王の手にとまつて物をたべることを教へたかね? 王の位置にあれば、始終疲れる。そんな時、王は慰安をあたへる神が欲しいだらう。坊さんは詩人に掴まれてゐる上着を引きはなして王宮に入る。詩人は鳥がとまつてゐる恰好に片手を出して、その鳥を撫でる振りをして言ふ、小さい神、きれいな羽根の、光る眼の、小さい神よ。
二人の王女が王宮から現はれて登場、詩人が貴婦人らに何か言つてるあひだ、王女たちは互に手をつなぎ、怖さうに立つてゐる。貴婦人らは、王女たちを投球に誘ふが、かれらは先づ父王の命令どほり詩人に食事をすすめるのである。お父様は、会議の席にあなたを坐らせることは出来ないけれど、ほかの事ならどんな事でも叶へて上げるとおつしやつてよ。お料理とお酒あがつて下さい、一人の王女が杯を出すとシヤナアンは片手にそれを取り、片手に王女の手を持つて暫らく見てゐる。長い柔かい指、白い指先、白い手、すこし白すぎる。王女さま、思ひ出したことがあります。あなたの生れる少し前に、お母様は路ばたに椅子を出して腰かけてをられると、そこへ通りかかつた癩病人に町へゆく道をゆびさして教へてやつたのです。すると癩病人は手を挙げてお母さんの手を祝福しました。その時病気が伝染したのではないですか? どれ、手をお見せなさい。病気がうつつてゐるかもしれない。王女は恐れて身を退らせる。軍人は怒つて剣をぬく。
シヤナアンは立ち上がり、あなたたちの手はみんな駄目だ、みんなが癩病だ。ここへ持つて来た大皿も小皿も汚れてゐる。酒も汚れてゐる。さう言ひながら杯の酒を撒きちらす。路をゆく癩病人から病気が伝染つたのだ。いま空を歩いてゐるあれがその病人だ。青い空から白い手を出して、みんなを癩病で祝福してゐる。シヤナアンは月を指す、癩病が怖くなつてみんなが逃げてゆく時二人の跛が詩人の前にある皿の料理をねだる。しかし彼等も怖くなつて逃げる。入れちがひに市長が詩人の婚約者フェルムを連れて登場、市長はすぐ退場する。シヤナアン、シヤナアン、とフェルムが呼んでも、詩人はまだ空を見てゐる。シヤナアン、私よ。さう言はれて詩人は初めて彼女を見、その手を取る。
刈入が済んだら、お迎へに来ると約束したでせう。さあ、すぐ私と一しよに行きませう。うん、一しよに行かう。だが刈入はもう済んだのか、空気には夏の味がしてゐる。フェルムは手を貸して詩人を卓のところまで連れて来て腰かけさせ、パンを酒に浸して食べさせやうとする。大へん疲れていらつしやるから、旅行する前にこれを食べて力をつけて頂戴。シヤナアンはパンを手にとる、躊躇し、彼女にパンを返す。私は食べてはいけないのだ。なぜお前はここへ来たのだ? フェルムが答へる、私をすこしでも愛するのなら、この小さい一きれを食べて下さい。もし愛するのなら、ほかの事は考へないでよい筈です。シヤナアンは彼女の手をかたく握り、お前は子供だ。窓の中から男を見てゐただけのお前が愛を知つてゐるのか? 昨夜一ばん中、星は狂はしく光り、天地は無数の結婚に満ちてゐた。だが、もう私の戦ひは終つた、私は死ぬのだ。フェルムは両手に彼を抱き、私はあなたと離れない。あなたを死なせない、黒い土よりもこの白い腕に寝て下さい。詩人は荒い言葉で突き放すが又両手に彼女を抱いて、森の小鳩よ、私の乱暴な言葉を許してくれ。だが、お前は帰れ、私は死ななければならぬ、と接吻する。この時、王が二人の王女をつれて登場。もう食べたか? とフェルムに訊く。いいえ、詩人の特権をお許し下さるまでは、食べません、とフェルムが答へる。王は階段を下りて詩人に近づいて言ふ、シヤナアンよ、私は自分のプライドを捨てた、お前も捨ててくれ。先日までお前は私の友人だつた。今お前は民家の爐辺から私に反抗の声をあげさせようとしてゐる。お前の望みを許せば、貴族や高官たちが王位に背くだらう。私にどうしろと言ふのか? 王よ、詩人らはあなたに安全の道を約束しましたか? シヤナアンは王自身が進めるパンをフェルムの手を借りて押し退ける。私のパンを受けないか? 頂きません、とシヤナアンが言ふ。今まで私は我慢してゐた、これで終りだ。私は王で、お前は臣下なのだ。貴族たちよ、詩人どもを連れ出せ。
貴婦人たち、坊さん、軍人、侍従長、高官ら登場、頸に絞首索をむすばれた詩人の弟子たちを引き出す。王はこの弟子たちに、彼が死ぬのは勝手だが、彼が死ねばお前らも死ぬのだ。お前の生命乞ひを彼に頼め、と兄弟子に言ふ。先生、死んで下さい、詩人の権利のために、と兄弟子が言ふ。王は驚いて最年少の弟子に言ふ、お前が頼め、お前はまだ若い。すると、若い弟子が言ふ、先生、死んで下さい、詩人の権利のために。
シヤナアンは弟子たちを身近に呼ぶ。肉身よりも親しいもの、子よりも近いもの、私のひな鳥よ、と別れを告げて、立つてよろよろ階段を下りる。私もお前らも死んで、どこかの山に捨てられるとき、死人の顔が笑ふのを人が見るだらう、月もみるだらう。
詩人は倒れてまた少し起き上がる、王よ、王よ、死人の顔が笑ひます。さう言つて詩人が死ぬ。
死人の顔が笑ふ。古い権利は失はれ、新しい権利即ち死が残つてゐます、若い弟子はさう言つて彼等の絞首索を王の前に出す。みんなを追ひ払へ、彼の死体を持つて、何処へでも行け。王はさう言ひ捨てて王宮に入る。軍人ら弟子たちの前に立つて道をふさぐ。弟子たちは釣台を作りシヤナアンを寝かせる。人の住む家を追はれて、わが先生は山みづと山鳥の孤独を分けに行く、と兄弟子が言ふ、若い弟子がそれに附け加へる、山を寝床に、山を枕に。
釣台を彼等の肩にになひ数歩進む。フェルムと弟子たち退場。悲しい音楽。
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或る肉体は、インキによつて充たされてゐる。
傷つけても、傷つけても、常にインキを流す。
二十年、インキに浸つた魂の貧困!
或る魂は、自らインキにすぎぬことを誇る。
自分の存在を隠蔽せんがために
象徴の烏賊は、好んでインキを射出する。
或る蛇は、常に毒液を蓄へてゐる。
至大の恐怖に駆られると、蛇は噛みつく。
致命の毒を対象に注入しながら
自らまた力尽きて斃れる旱魃の河!
或る蛇の技術は、自己防衛とその喪失、
夏夕の花火、一瞬の竜と天上する。
或る貝は、海底に幻怪な宮殿を築く。
あらゆる苦悩は重く、不幸は塩辛く、
利刃に刺された傷口は甘く涙を流す。
或る真珠の涙は、清雅な復讐である。
奸黠な商売の金庫に光空しく死せども、
美しい夫人の手に彼の涙は輝く。
或る植物は、常にじめじめした湿地に生え、
その身をあまりに夥多なる液汁に包む。
深夜、或る暗い空洞から空洞へ注ぎこまれ、
その畸形なる尻尾を振つて游泳する
或る菌はしばしば死と復讐の神である。
漠雲の中哄笑する、目に見えぬものは神である。
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あらゆる芸術の分野に於て、誰かが、自分こそは独自の道を歩いてゐる――何人からも、教へられるところはない――模倣は生来自分の性に合はない――と広言したならば、その人間はたしかに、自分の世界をせばめてゐる。その意気や壮なりと雖も、甚だ「子供臭い」と云はなければならない。
現代の日本劇作家中、誰が「人の真似」をせずして、戯曲に筆を染め得たらう。真似といふ言葉を使ふのは、必ずしも嫌やがらせではない。誰の真似をしたと云はれれば一寸困るかもしれない。それだからと云つて、それが誰の真似もしないといふ証拠にはならない。実際、われわれは、色々の人の真似をしてゐるのである。殊に、われわれは西洋の作家の真似をしてゐるのである。或は西洋の作家の真似をした日本作家の真似をしてゐるのである。初めは、猿真似にすぎなかつた。近頃は、だんだん上手になつて来た。真似をしてゐるやうには見えなくなつて来た。しかし、どこかまだ「もの」になつてゐない。それは、真似られるところだけ真似て、真似られないところが「どうもしてない」からである。すつかり真似たつもりでゐても、「それはさういふ風に真似るのではない」といふところがまだあるのである。
それは何故かと云ふと、今まで度々云つたことであるが、お手本がよく解つてゐないのである。勿論、程度の差はあるが肝腎な処から先が、よく呑込めないでゐるのである。西洋の作品を――それが戯曲であるがために――読みこなせないでゐる。訳しこなせないでゐる。その、好い加減に解つた頭で、時によると、とんでもない解り方をした頭で戯曲を書く。それが、お手本と違はない程の出来栄えであると信じ得たにしても、それは、お手本まではまだまだといふ代物、時によると、お手本とは似てもつかぬ代物である訳なのである。
それでもまだ、戯曲の創作には、まがりなりにもお手本がある。多少とも「教へられるところ」がある。然るに、俳優の演技に至つては、仮令、外国に渡つて外国の名優が演じる舞台を見、なるほど、ああやればいいのかと思つたところで、それはかの劇作家が、外国の戯曲を読んで「わかる」ほどにもわからないのが普通である。若しそれが、ある程度までわかるとしても、今度はそれを真似ることが、戯曲の創作に於けるより困難であらう。何となれば、その時はもうお手本が眼の前にないから。
これがつまり、わが国に於ける新劇俳優の技芸が、いつまでも素人の域から脱しない第一の理由であらう。
わが国の新劇俳優が、いつまでも素人であるといふ事実は、即ち新劇なるものに対する世間の軽侮を生み、新劇は退屈なもの、巫山戯半分なもの、ぎごちないもの、金を出して見に行くのは馬鹿らしいものといふことになり、興行師も一方旧劇といふものがある以上、わざわざこの不景気な新劇に手を染めようとせず、俳優志願者も、少し素質のあるものは、映画などに走り、従つて、またいつまでたつても、優れた新劇俳優が出て来ない。
優れた俳優がゐないから、仮令相当な新作戯曲が現はれても、それを演出して効果を収めることができず、新作劇の優れた演出を見得ない結果は、若い劇作家も若い俳優志望者も、舞台から何等の霊感を受けることが不可能であり、十年一日の如くわが新興劇壇は、欧米劇壇の糟粕を嘗めて、気息奄々たりである。
ここで私は、誰にといふことはないが、一つの提議をしたい。それは速かに新劇俳優の養成機関を設け、やや理想的に舞台的教育を施すことである。
さてその次に来る問題は、何人がその任に当り、如何なる組織と方法が選ばれるかといふことである。
その前に一寸お断りをしておきたいのは、所謂、俳優学校無用論についてである。この論者の根拠とするところに、由来、西洋の例に見るも、俳優学校の課程を踏まない名優がいくらもゐるといふこと、俳優学校の課程は踏んでも、在学中又は卒業時の成績があまり思はしくないために、何人の注意も惹かなかつたものが、それ以後に於て俄然頭角を現はし、一代の名声を博したものが可なりあるのに反して、優等卒業生が、実際の舞台では一向才能を認められず、平々凡々な生涯を送つた例が少くないといふことである。
この論拠については多言を要しない。それは俳優学校に限らないからである。音楽学校然り、美術学校然り、更に文科大学然りである。要するに、官学あつての私学、学校あつての独学である。
国立演劇学校の教育を攻撃するアントワアヌや、ジャック・コポオは、自ら理想とする俳優教育法を実行してゐるのである。アントワアヌの如きは、コンセルヴァトワアルの入学試験に失敗して以来、独学的修業をしたのであるが、その修業の道程が、少しもコンセルヴァトワアルの教育法から暗示を受けてゐないとは云へないのである。否寧ろその点、肯定的に或は否定的に、大なる影響を受けてゐると断定し得るのである。
愈々俳優学校の必要を認めるものとして、現在日本では如何なる組織の下に、如何なる方法を以て、この種の学校を設けたらよいか。これにはいろいろ議論があることと思ふ。
先づ俳優の教育は、俳優自身これに当るべきであるが、その適任者を求め得るか。これが問題であるに違ひない。前に述べた事実に遡るまでもなく、さういふ適任者が既にあるなら、かういふ学校の必要を、れれわれが説くには及ばなかつただらうと云ひ得るのである。さうすれば勢ひ、俳優以外のもので、俳優の演技の批判者であり、且つ舞台芸術の分析的研究をしてゐるものが、主として理論的に、時としては実際的に俳優の演技に必要な基礎的知識を与へるといふくらゐで、当分満足しなければなるまい。そこでは少くとも、今日の俳優として有つてゐなければならない一般文学的教養を与へ、演劇美学と演劇史の概念を授け、所謂劇詩の伝統と本質に明かな眼を開かしめ、造形美と動性の原理に徹底した見解を作らせなければならない。
私はここで参考までに、ヴィユウ・コロンビエ座附属演劇学校の内容を紹介しておきたい。(前掲国立音楽演劇学校の内容は、われわれに直接の参考とはならない)
教務部を左の如く区分す。
文学部 主任ジュウル・ロマン
演劇部 同 ジャック・コポオ
音楽部 同 ダニエル・ラザルュス
体操部 同 エベエル中尉
講義及び作業科目
演劇理論
(第一年度――宗教的起原と社会的意義。劇的観念、悲劇形式及び舞台的手段の発生と進化。劇場建築と演劇材料。上演。俳優の演技と舞台装置。劇的作品)
劇的訓練
(第一年度――自発性及び創造性の訓練。話術。機智の訓練。即興的対話及び演技。ミミック。仮面使用法、其他実習)
学派、共同生活、文明に関する諸問題
(国。種族。精神。文明史概説。偉人と協同力。哲学及び芸術の諸派。団体。個人、団体及び都市の日常生活。それらの生活が詩、音楽及び演劇中に表現されてゐる状態)
仏蘭西語――文法。語義。訳解。記憶練習
白。朗読。発声法。物言ふ術。朗誦術
話術の機制。措辞法。文学の種目及び文体の研究。演習
音楽
A、音楽的教養――古代及び中世音楽の研究。古典派、浪漫派及び近代大家の作品解説
B、声楽――合唱
C、舞踊――古典舞踊の歩及び姿態。舞踊の劇的応用
D、古代詩の吟誦
生理的訓練――衛生学。各種体操。軽業
工場作業
A――素描、スケッチ、模型製作、実物教示
B――衣裳
C――舞台装飾――材料研究――実物研究(博物館、記念物、公園参観)
座附俳優の組特別講義
詩的文体の研究――ジュウル・ロマン
演出の原理――ジャック・コポオ
声楽
舞踊
科白の完成
劇的感覚の訓練――コポオ
其他――公開講義(毎年科目を変更す)
大体右の通りであるが、第二年度に於て多少変更されてゐる部分もある。
研究生は、単に俳優志望者のみならず、一般演劇研究者の便宜をはかり、ある科目を限り聴講を許す制度がある。
そこで、その区別を附けるために三つの組に分けてある。
一、A組――十二歳以上の男女にして、数年間完全なる俳優教育を受けんとするもの
二、B組――十八歳以上の男女にして、三年間、俳優として必要なる専門教育を受け、ヴィユウ・コロンビエ座又は其他の劇場に専属せんとするもの
三、C組――俳優を志望せざるものにして、特殊の目的より本校課程の一部を修得せんとするもの。劇作家、劇評家、舞台監督、素人俳優等を志望するもの
A組及びB組は入学試験がある。
日本で今、演劇学校を設立するとして、直ちにこれを範とすることはできないが、少くともある種の科目については、そのまま取入れて差支ないと思はれる。ただ問題は先に述べた如く、講師並びに指導者にその人を得るかどうかといふことであるが、それは実際やつて見なければわかるまい。一番困るのは科白の実際的指導であるが、これは、どうしても、既成の俳優に委せたくない。多少無理でも、演出家として経験ある新人に依嘱するより外あるまい。
なほ、私としてこの学校の組織に関しては、相当具体的の案を有つてゐるが、それはいつかの機会に述べることとして、今はただ、この種の学校を設立するのが目下の急務であるといふ輿論を喚起することができればそれでいいのである。
政府は既に、音楽学校と美術学校とを管理してゐる。差当り、音楽学校を拡張して、演劇科を設けるくらゐの進歩振りを見せて欲しい。
なほ、日本に於ける唯一の権威ある演劇研究所たる築地小劇場が、如何なるメトオドによつて「新しい俳優」の養成に当つてゐるか、機会があつたら、それを知りたいと思つてゐる。若し差支へがなかつたら、適当の時機に於て一般演劇研究者、殊に真面目な俳優志願者のために、同劇場の俳優教育方針及びその機関について、詳細を発表するやうにして欲しい。これは単に、同劇場の真摯な努力を語る好宣伝であるばかりでなく、五里霧中の新劇界に一道の光明と、正しい刺激とを与へることに役立つであらう。
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一
僕の二十六歳の時なりしと覚ゆ。大学院学生となりをりしが、当時東京に住せざりしため、退学届を出す期限に遅れ、期限後数日を経て事務所に退学届を出したりしに、事務の人は規則を厳守して受けつけず「既に期限に遅れし故、三十円の金を収めよ」といふ。大正五六年の三十円は大金なり。僕はこの大金を出し難き事情ありしが故に「然らばやむを得ず除名処分を受くべし」といへり。事務の人は僕の将来を気づかひ「君にして除名処分を受けん乎、今後の就職口を如何せん」といひしが、畢に除名処分を受くることとなれり。
僕の同級の哲学科の学生、僕の為に感激して曰、「君もシエリングの如く除名処分を受けしか」と! シエリングも亦僕の如く三十円の金を出し渋りしや否や、僕は未だ寡聞にしてこれを知らざるを遺憾とするものなり。
二
僕達のイギリス文学科の先生は、故ロオレンス先生なり、先生は一日僕を路上に捉へ、娓々数千言を述べられてやまず。然れども僕は先生の言を少しも解すること能はざりし故、唯雷に打たれたる唖の如く瞠目して先生の顔を見守り居たり。先生も亦僕の容子に多少の疑惑を感ぜられしなるべし。突如として僕に問うて曰く、“Are you Mr. K. ?”僕、答へて曰く、“No, Sir.”先生は――先生もまた雷に打たれたる唖の如く瞠目せらるること少時の後、僕を後にして立ち去られたり。僕の親しく先生に接したるは実にこの路上の数分間なるのみ。
三
僕等「新思潮社」同人の列したるは大正天皇の行幸し給へる最後の卒業式なりしなるべし。僕等は久米正雄と共に夏の制服を持たざりし為、裸の上に冬の制服を着、恐る恐る大勢の中にまじり居たり。
四
僕はケエベル先生を知れり。先生はいつもフランネルのシヤツを着られ、シヨオペンハウエルを講ぜられしが、そのシヨオペンハウエルの本の上等なりしことは今に至つて忘るること能はず。
五
僕は確か二年生の時独逸語の出来のよかりし為、独乙大使グラアフ・レツクスよりアルントの詩集を四冊貰へり。然れどもこは真に出来のよかりしにあらず、一つには喜多床に髪を刈りに行きし時、独乙語の先生に順を譲り、先に刈らせたる為なるべし。こは謙遜にあらず、今なほかく信じて疑はざる所なり。
僕はこのアルントを郁文堂に売り金六円にかへたるを記憶す、時来星霜を閲すること十余、僕のアルントを知らざることは少しも当時に異ることなし。知らず、天涯のグラアフ・レツクスは今果赭顔旧の如くなりや否や。
六
僕は二年生か三年生かの時、矢代幸雄、久米正雄の二人と共にイギリス文学科の教授方針を攻撃したり。場所は一つ橋の学士会館なりしと覚ゆ。僕等は寡を以て衆にあたり、大いに凱歌を奏したり。然れども久米は勝誇りたる為、忽ち心臓に異状を呈し、本郷まで歩きて帰ること能ず。僕は矢代と共に久米を担ぎ、人跡絶えたる電車通りをやつと本郷の下宿へ帰れり。(昭和二・二・一七)
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帝王世紀にありといふ。日の怪しきを射て世に聞えたる羿、嘗て呉賀と北に遊べることあり。呉賀雀を指して羿に對つて射よといふ。羿悠然として問うていふ、生之乎。殺之乎。賀の曰く、其の左の目を射よ。羿すなはち弓を引いて射て、誤つて右の目にあつ。首を抑へて愧ぢて終身不忘。術や、其の愧ぢたるに在り。
また陽州の役に、顏息といへる名譽の射手、敵を射て其の眉に中つ。退いて曰く、我無勇。吾れの其の目を志して狙へるものを、と此の事左傳に見ゆとぞ。術や、其の無勇に在り。
飛衞は昔の善く射るものなり。同じ時紀昌といふもの、飛衞に請うて射を學ばんとす。教て曰く、爾先瞬きせざることを學んで然る後に可言射。
紀昌こゝに於て、家に歸りて、其の妻が機織る下に仰けに臥して、眼を睜いて蝗の如き梭を承く。二年の後、錐末眥に達すと雖も瞬かざるに至る。往いて以て飛衞に告ぐ、願くは射を學ぶを得ん。
飛衞肯ずして曰く、未也。亞で視ることを學ぶべし。小を視て大に、微を視て著しくんば更に來れと。昌、絲を以て虱を牖に懸け、南面して之を臨む。旬日にして漸く大也。三年の後は大さ如車輪焉。
かくて餘物を覩るや。皆丘山もたゞならず、乃ち自ら射る。射るに從うて、𥶡盡く蟲の心を貫く。以て飛衞に告ぐ。先生、高踏して手を取つて曰く、汝得之矣。得之たるは、知らず、機の下に寢て梭の飛ぶを視て細君の艷を見ざるによるか、非乎。
明治三十九年二月
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水族館の近所にある植込を見ると茶の木が一、二本眼につくでしょう。あれは昔の名残で、明治の初年には、あの辺一帯茶畠で、今活動写真のある六区は田でした。これが種々の変遷を経て、今のようになったのですから、浅草寺寺内のお話をするだけでもなかなか容易な事ではありません。その中で私は面白い事を選んでお話しましょう。
明治の八、九年頃、寺内にいい合わしたように変人が寄り集りました。浅草寺寺内の奇人団とでも題を附けましょうか、その筆頭には先ず私の父の椿岳を挙げます。私の父も伯父も浅草寺とは種々関係があって、父は公園の取払になるまで、あの辺一帯の開拓者となって働きましたし、伯父は浅草寺の僧侶の取締みたような役をしていました。ところで父は変人ですから、人に勧められるままに、御経も碌々読めない癖に、淡島堂の堂守となりました。それで堂守には、坊主の方がいいといって、頭をクリクリ坊主にした事がありました。ところで有難い事に、淡島堂に参詣の方は、この坊主がお経を出鱈目によむのを御存知なく、椿岳さんになってから、お経も沢山誦んで下さるし、御蝋燭も沢山つけて下さる、と悦んで礼をいいましたね。堂守になる前には仁王門の二階に住んでいました。(仁王門に住むとは今から考えたら随分奇抜です。またそれを見ても当時浅草寺の秩序がなかったのが判ります。)この仁王門の住居は出入によほど不自由でしたが、それでもかなり長く住んでいました。後になっては画家の鏑木雪庵さんに頼んで、十六羅漢の絵をかいて貰って、それを陳列して参詣の人々を仁王門に上らせてお茶を飲ませた事がありました。それから父は瓢箪池の傍で万国一覧という覗眼鏡を拵えて見世物を開きました。眼鏡の覗口は軍艦の窓のようで、中には普仏戦争とか、グリーンランドの熊狩とか、そんな風な絵を沢山に入れて、暗くすると夜景となる趣向をしましたが、余り繁昌したので面倒になり知人ででもなければ滅多にこの夜景と早替りの工夫をして見せませんでした。このレンズは初め土佐の山内侯が外国から取寄せられたもので、それが渡り渡って典物となり、遂に父の手に入ったもので、当時よほど珍物に思われていたものと見えます。その小屋の看板にした万国一覧の四字は、西郷さんが、まだ吉之助といっていた頃に書いて下さったものだといいます。それで眼鏡を見せ、お茶を飲ませて一銭貰ったのです。処で例の新門辰五郎が、見世物をするならおれの処に渡りをつけろ、といって来た事がありました。しかし父は変人ですし、それに水戸の藩から出た武士気質は、なかなか一朝一夕にぬけないで、新門のいう話なぞはまるで初めから取合わず、この興行の仕舞まで渡りをつけないで、別派の見世物として取扱われていたのでした。
それから次には伊井蓉峰の親父さんのヘヾライさん。まるで毛唐人のような名前ですが、それでも江戸ッ子です。何故ヘヾライと名を附けたかというと、これにはなかなか由来があります。これは変人の事を変方来な人といって、この変方来を、もう一つ通り越したのでヘヾライだという訳だそうです。このヘヾライさんは、写真屋を始めてなかなか繁昌しました。写真師ではこの人の他に、北庭筑波、その弟子に花輪吉野などいうやはり奇人がいました。
次に、久里浜で外国船が来たのを、十里離れて遠眼鏡で見て、それを注進したという、あの名高い、下岡蓮杖さんが、やはり寺内で函館戦争、台湾戦争の絵をかいて見せました。これは今でも九段の遊就館にあります。この他、浅草で始めて電気の見世物をかけたのは広瀬じゅこくさんで、太鼓に指をふれると、それが自然に鳴ったり、人形の髪の毛が自然に立ったりする処を見せました。
曲馬が東京に来た初めでしょう。仏蘭西人のスリエというのが、天幕を張って寺内で興行しました。曲馬の馬で非常にいいのを沢山外国から連れて来たもので、私などは毎日のように出掛けて、それを見せてもらいました。この連中に、英国生れの力持がいて、一人で大砲のようなものを担ぎあげ、毎日ドンドンえらい音を立てたので、一時は観音様の鳩が一羽もいなくなりました。
それから最後に狸の騒動があった話をしましょう。ただ今の六区辺は淋しい処で、田だの森だのがありました。それを開いたのは、大橋門蔵という百姓でした。森の木を伐ったり、叢を刈ったりしたので、隠れ家を奪われたと見えて、幾匹かの狸が伝法院の院代をしている人の家の縁の下に隠れて、そろそろ持前の悪戯を始めました。ちょっと申せば、天井から石を投げたり、玄関に置いた下駄を、台所の鍋の中に並べて置いたり、木の葉を座敷に撒いたり、揚句の果には、誰かが木の葉がお金であったらいいといったのを聞いたとかで、観音様の御賽銭をつかみ出して、それを降らせたりしたので、その騒ぎといったらありませんでした。前に申したスリエの曲馬で大砲をうった男が、よし来たというので、鉄砲をドンドン縁の下に打込む、それでもなお悪戯が止まなかったので、仕方がないから祀ってやろうとなって、祠を建てました。これは御狸様といって昔と位置は変っていますが、今でも区役所の傍にあります。
(明治四十五年四月『新小説』第十七年第四巻)
◇
その御狸様のお告げに、ここに祀ってくれた上からは永く浅草寺の火防の神として寺内安泰を計るであろうとのことであったということです。
今浅草寺ではこのお狸様を鎮護大使者として祀っています。当時私の父椿岳はこの祠堂に奉納額をあげましたが、今は遺っていないようです。
毎年三月の中旬に近い日に祭礼を催します。水商売の女性たちの参詣が盛んであるようですが、これは御鎮護様をオチンボサマに懸けた洒落参りなのかも知れません。
(大正十四年十一月『聖潮』第二巻第十号より追補)
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ひとくちに慈悲ぶかい人といえば、誰にでもものを遣る人、誰のいうことをも直ぐ聞き入れてやる人、何事も他人の為に辞せない人、こう極めて仕舞うのが普通でしょう。それはそうに違いないでしょう、それが慈悲ぶかい人の他人に対する原則ですから。
然し、原則というのは結局原則であります。ものごとが凡て、原則どおり単純に行って済むのなら世の中は案外やさしいものです。お医者でも原則通りですべて病人が都合よく処理出来るなら、どのお医者でもみな病理学研究室に閉じこもって居れば世話はありません。なにも、面倒な臨床学など習って実地研究の何年間など費す必要は無いわけです。処が、その必要がある。ありますとも、其処が臨機応変、仏教のいわゆる、「時、処、位」に適する方法に於いて原則を実地に応用しなければなりません。
本当の慈悲とは、此処に本当にものを与えるに適当な事情を持つ人がある。その時、その人に適当な程のものを与へる。それが本当の慈悲であります。ここに一人の怠け者があって、それが口を上手にして縋って来たとする。その口上手に乗ぜられ、ものをやったとする。それは慈悲に似て非なるものであります。おだてに乗った、うかつものの愚な所行です。そんな時、ものを遣る代りに、そのなまけ者のお上手者の頬に平手の一つも見舞ってやる。誡めになり発憤剤になるかもしれません。その方が本当の慈悲です。
人の云うことを聞けば宜いと云って人を甘やかすばかりが慈悲ではありません。お砂糖ばかりで煮たお料理は却ってまずい。ひとつまみの塩を入れてたちまち味の調和がとれるではありませんか。時には、いつくしみのなかに味ひとつまみの小言もいれなくては完全な慈悲とはならないでしょう。
愛情ばかりで智慧の判断の伴わない慈悲は往々にしてまた利己主義の慈悲になります。折角、自分は善良な慈悲心でして居るつもりのことが、利己主義の慈悲心になっては残念です。
トルストイの作品のうちにあった例だと思います。何の職業をして居る人だったか忘れましたが、とにかく慈悲を心がけて暮らして居る或る男がありました。或る冬の夜、非常に天候が荒れ(或いは雪の夜だったかもしれません)ました。慈悲深い男は、家外の寒さを思い遣り乍ら室内のストーヴの火に暖を採り、椅子にふかふかと身を埋めて静に読書して居りました。と、家外の吹雪の中に一人のヴァイオリン弾きの老爺の乞食が立ち、やがてそれは寒さのために縮んで主人の室の硝子扉に貼りつくように体を寄せました。主人はもとより慈悲の心で生きて居る人です。しばらくヴァイオリン弾きの乞食姿をあわれと思って見て居りましたが、やがて意を決して硝子扉を開けました。主人はそして、ひたすら恐縮するヴァイオリン弾きを室内へ招じ、暖い喰べものを与え、ストーヴの火をどんどん焚き足して長時間吹雪のなかにさすらってこごえて来た乞食の老爺の体をあたためて遣りました。
翌日、その翌日となり雪は晴れ道もよくなりました。ヴァイオリン弾きの老爺はしきりに主人の邸内から辞してまたさすらいの旅に出ようとしました。しかし、主人はきき入れませんでした。何処までも、自分の邸内にとどめて可哀想な乞食音楽師を安楽に暮らさせ様と心掛けました。それにもかかわらず老爺のヴァイオリン弾きはしきりに辞去したがる。するとなおさら主人は引きとめる。ほとんど強制的にひきとめる。
ある夜、主人はヴァイオリン弾きの老爺が、突然無断で邸内から抜け出し、何処とも知らず、逃げ失せたのを知りました。「ああ、彼は、矢張り空飛ぶ鳥であったか。」こう気がついたのは、主人であったか、読者たる私であったか忘れましたが、とにかく利己主義な慈悲の例証にこの話は役立つものです。即ち、主人は、ヴァイオリン弾きの本質を達観し得なかった。彼の放浪的な運命をつくった性格を見透さなかった。彼の生き方は、どんな憂き艱難をしても、野に山に、街に部落にさすらって歩くのがその性質に合う生き方なのでした。そういうものには、そうさせて置くのが好いのです。彼の幸福は、決して暖衣飽食して富家に飼われ養われて居る生活のなかには感じられなかったのです。彼は主人に引き留めれられて居るうちどんなに窮屈であり、旅が、さすらいが恋しかったか知れないのです。彼は主人の好意がむしろ迷惑だったでしょう。主人の慈悲は彼に取ってむしろ無くもがなの邪魔だったでしょう。
それにもかかわらず、主人は自分が慈悲を行って居ることに満足を感じて居たでしょう。自分の「志」を立てることばかり考えて居た主人は、それがために相手が、どんな不自由や迷惑を感じて居るかに気がつかなかったのです。つまり自己満足、利己主義の慈悲とはこういうことなのです。
有がた迷惑の好意についても一つ云えば、某外国に一百六十歳近い長寿者がありました。皇室ではそれをよみせられ、召し上げられて飽衣美食でもてなしました。長寿者はたちまち死にました。粗食故に長寿して居た生命が、美食に遇ってたちまち破損して仕舞ったのだそうです。
要するに本当の慈悲とは、相手の立場や本質を考え、自分の慈善的感情本位でない施行に於いて本然の達成が遂げられるのです。
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上
何心なく、背戸の小橋を、向こうの蘆へ渡りかけて、思わず足を留めた。
不図、鳥の鳴音がする。……いかにも優しい、しおらしい声で、きりきり、きりりりり。
その声が、直ぐ耳近に聞こえたが、つい目前の樹の枝や、茄子畑の垣根にした藤豆の葉蔭ではなく、歩行く足許の低い処。
其処で、立ち佇って、ちょっと気を注けたが、もう留んで寂りする。――秋の彼岸過ぎ三時下りの、西日が薄曇った時であった。この秋の空ながら、まだ降りそうではない。桜山の背後に、薄黒い雲は流れたが、玄武寺の峰は浅葱色に晴れ渡って、石を伐り出した岩の膚が、中空に蒼白く、底に光を帯びて、月を宿していそうに見えた。
その麓まで見通しの、小橋の彼方は、一面の蘆で、出揃って早や乱れかかった穂が、霧のように群立って、藁屋を包み森を蔽うて、何物にも目を遮らせず、山々の茅薄と一連に靡いて、風はないが、さやさやと何処かで秋の暮を囁き合う。
その蘆の根を、折れた葉が網に組み合せた、裏づたいの畦路へ入ろうと思って、やがて踏み出す、とまたきりりりりと鳴いた。
「なんだろう」
虫ではない、確かに鳥らしく聞こえるが、やっぱり下の方で、どうやら橋杭にでもいるらしかった。
「千鳥かしらん」
いや、磯でもなし、岩はなし、それの留まりそうな澪標もない。あったにしても、こう人近く、羽を驚かさぬ理由はない。
汀の蘆に潜むか、と透かしながら、今度は心してもう一歩。続いて、がたがたと些と荒く出ると、拍子に掛かって、きりきりきり、きりりりり、と鳴き頻る。
熟と聞きながら、うかうかと早や渡り果てた。
橋は、丸木を削って、三、四本並べたものにすぎぬ。合せ目も中透いて、板も朽ちたり、人通りにはほろほろと崩れて落ちる。形ばかりの竹を縄搦げにした欄干もついた、それも膝までは高くないのが、往き還り何時もぐらぐらと動く。橋杭ももう痩せて――潮入りの小川の、なだらかにのんびりと薄墨色して、瀬は愚か、流れるほどは揺れもしないのに、水に映る影は弱って、倒に宿る蘆の葉とともに蹌踉する。
が、いかに朽ちたればといって、立樹の洞でないものを、橋杭に鳥は棲むまい。馬の尾に巣くう鼠はありと聞けど。
「どうも橋らしい」
もう一度、試みに踏み直して、橋の袂へ乗り返すと、跫音とともに、忽ち鳴き出す。
(きりきりきり、きりりりりり……)
あまり爪尖に響いたので、はっと思って浮足で飛び退った。その時は、雛の鶯を蹂み躙ったようにも思った、傷々しいばかり可憐な声かな。
確かに今乗った下らしいから、また葉を分けて……ちょうど二、三日前、激しく雨水の落とした後の、汀が崩れて、草の根のまだ白い泥土の欠目から、楔の弛んだ、洪水の引いた天井裏見るような、横木と橋板との暗い中を見たが何もおらぬ。……顔を倒にして、捻じ向いて覗いたが、ト真赤な蟹が、ざわざわと動いたばかり。やどかりはうようよ数珠形に、其処ら暗い処に蠢いたが、声のありそうなものは形もなかった。
手を払って、
「ははあ、岡沙魚が鳴くんだ」
と独りで笑った。
中
虎沙魚、衣沙魚、ダボ沙魚も名にあるが、岡沙魚と言うのがあろうか、あっても鳴くかどうか、覚束ない。
けれどもその時、ただ何となくそう思った。
久しい後で、その頃薬研堀にいた友だちと二人で、木場から八幡様へ詣って、汐入町を土手へ出て、永代へ引っ返したことがある。それも秋で、土手を通ったのは黄昏時、果てしのない一面の蘆原は、ただ見る水のない雲で、対方は雲のない海である。路には処々、葉の落ちた雑樹が、乏しい粗朶のごとく疎に散らかって見えた。
「こういう時、こんな処へは岡沙魚というのが出て遊ぶ」
と渠は言った。
「岡沙魚ってなんだろう」と私が聞いた。
「陸に棲む沙魚なんです。蘆の根から這い上がって、其処らへ樹上りをする……性が魚だからね、あまり高くは不可ません。猫柳の枝なぞに、ちょんと留まって澄ましている。人の跫音がするとね、ひっそりと、飛んで隠れるんです……この土手の名物だよ。……劫の経た奴は鳴くとさ」
「なんだか化けそうだね」
「いずれ怪性のものです。ちょいと気味の悪いものだよ」
で、なんとなく、お伽話を聞くようで、黄昏のものの気勢が胸に染みた。――なるほど、そんなものも居そうに思って、ほぼその色も、黒の処へ黄味がかって、ヒヤリとしたものらしく考えた。
後で拵え言、と分かったが、何故か、ありそうにも思われる。
それが鳴く……と独りで可笑しい。
もう、一度、今度は両手に両側の蘆を取って、ぶら下るようにして、橋の片端を拍子に掛けて、トンと遣る、キイと鳴る、トントン、きりりと鳴く。
(きりりりり、
きり、から、きい、から、
きりりりり、きいから、きいから、)
紅の綱で曳く、玉の轆轤が、黄金の井の底に響く音。
「ああ、橋板が、きしむんだ。削ったら、名器の琴になろうもしれぬ」
そこで、欄干を掻い擦った、この楽器に別れて、散策の畦を行く。
と蘆の中に池……というが、やがて十坪ばかりの窪地がある。汐が上げて来た時ばかり、水を湛えて、真水には干て了う。池の周囲はおどろおどろと蘆の葉が大童で、真中所、河童の皿にぴちゃぴちゃと水を溜めて、其処を、干潟に取り残された小魚の泳ぐのが不断であるから、村の小児が袖を結って水悪戯に掻き廻す。……やどかりも、うようよいる。が、真夏などは暫時の汐の絶間にも乾き果てる、壁のように固まり着いて、稲妻の亀裂が入る。さっと一汐、田越川へ上げて来ると、じゅうと水が染みて、その破れ目にぶつぶつ泡立って、やがて、満々と水を湛える。
汐が入ると、さて、さすがに濡れずには越せないから、此処にも一つ、――以前の橋とは間十間とは隔たらぬに、また橋を渡してある。これはまた、纔かに板を持って来て、投げたにすぎぬ。池のつづまる、この板を置いた切れ口は、ものの五歩はない。水は川から灌いで、橋を抜ける、と土手形の畦に沿って、蘆の根へ染み込むように、何処となく隠れて、田の畦へと落ちて行く。
今、汐時で、薄く一面に水がかかっていた。が、水よりは蘆の葉の影が濃かった。
今日は、無意味では此処が渡れぬ、後の橋が鳴ったから。待て、これは唄おうもしれない。
と踏み掛けて、二足ばかり、板の半ばで、立ち停ったが、何にも聞こえぬ。固より聞こうとしたほどでもなしに、何となく夕暮の静かな水の音が身に染みる。
岩端や、ここにも一人、と、納涼台に掛けたように、其処に居て、さして来る汐を視めて少時経った。
下
水の面とすれすれに、むらむらと動くものあり。何か影のように浮いて行く。……はじめは蘆の葉に縋った蟹が映って、流るる水に漾うのであろう、と見たが、あらず、然も心あるもののごとく、橋に沿うて行きつ戻りつする。さしたての潮が澄んでいるから差し覗くとよく分かった――幼児の拳ほどで、ふわふわと泡を束ねた形。取り留めのなさは、ちぎれ雲が大空から影を落としたか、と視められ、ぬぺりとして、ふうわり軽い。全体が薄樺で、黄色い斑がむらむらして、流れのままに出たり、消えたり、結んだり、解けたり、どんよりと濁肉の、半ば、水なりに透き通るのは、是なん、別のものではない、虎斑の海月である。
生ある一物、不思議はないが、いや、快く戯れる。自在に動く。……が、底ともなく、中ほどともなく、上面ともなく、一条、流れの薄衣を被いで、ふらふら、ふらふら、……斜に伸びて流るるかと思えば、むっくり真直に頭を立てる、と見ると横になって、すいと通る。
時に、他に浮んだものはなんにもない。
この池を独り占め、得意の体で、目も耳もない所為か、熟と視める人の顔の映った上を、ふい、と勝手に泳いで通る、通る、と引き返してまた横切る。
それがまた思うばかりではなかった。実際、其処に踞んだ、胸の幅、唯、一尺ばかりの間を、故とらしく泳ぎ廻って、これ見よがしの、ぬっぺらぼう!
憎い気がする。
と膝を割って衝と手を突ッ込む、と水がさらさらと腕に搦んで、一来法師、さしつらりで、ついと退いた、影も溜らず。腕を伸ばしても届かぬ向こうで、くるりと廻る風して、澄ましてまた泳ぐ。
「此奴」
と思わず呟いて苦笑した。
「待てよ」
獲物を、と立って橋の詰へ寄って行く、とふわふわと着いて来て、板と蘆の根の行き逢った隅へ、足近く、ついと来たが、蟹の穴か、蘆の根か、ぶくぶく白泡が立ったのを、ひょい、と気なしに被ったらしい。
ふッ、と言いそうなその容体。泡を払うがごとく、むくりと浮いて出た。
その内、一本根から断って、逆手に取ったが、くなくなした奴、胴中を巻いて水分かれをさして遣れ。
で、密と離れた処から突ッ込んで、横寄せに、そろりと寄せて、這奴が夢中で泳ぐ処を、すいと掻きあげると、つるりと懸かった。
蓴菜が搦んだようにみえたが、上へ引く雫とともに、つるつると辷って、もう何にもなかった。
「鮹の燐火、退散だ」
それみろ、と何か早や、勝ち誇った気構えして、蘆の穂を頬摺りに、と弓杖をついた処は可かったが、同時に目の着く潮のさし口。
川から、さらさらと押して来る、蘆の根の、約二間ばかりの切れ目の真中。橋と正面に向き合う処に、くるくると渦を巻いて、坊主め、色も濃く赫と赤らんで見えるまで、躍り上がる勢いで、むくむく浮き上がった。
ああ、人間に恐れをなして、其処から、川筋を乗って海へ落ち行くよ、と思う、と違う。
しばらく同じ処に影を練って、浮いつ沈みつしていたが、やがて、すいすい、横泳ぎで、しかし用心深そうな態度で、蘆の根づたいに大廻りに、ひらひらと引き返す。
穂は白く、葉の中に暗くなって、黄昏の色は、うらがれかかった草の葉末に敷き詰めた。
海月に黒い影が添って、水を捌く輪が大きくなる。
そして動くに連れて、潮はしだいに増すようである。水の面が、水の面が、脈を打って、ずんずん拡がる。嵩増す潮は、さし口を挟んで、川べりの蘆の根を揺すぶる、……ゆらゆら揺すぶる。一揺り揺れて、ざわざわと動くごとに、池は底から浮き上がるものに見えて、しだいに水は増して来た。映る影は人も橋も深く沈んだ。早や、これでは、玄武寺を倒に投げうっても、峰は水底に支えまい。
蘆のまわりに、円く拡がり、大洋の潮を取って、穂先に滝津瀬、水筋の高くなり行く川面から灌ぎ込むのが、一揉み揉んで、どうと落ちる……一方口のはけ路なれば、橋の下は颯々と瀬になって、畦に突き当たって渦を巻くと、其処の蘆は、裏を乱して、ぐるぐると舞うに連れて、穂綿が、はらはらと薄暮あいを蒼く飛んだ。
(さっ、さっ、さっ、
しゅっ、しゅっ、しゅっ、
エイさ、エイさ!)
と矢声を懸けて、潮を射て駈けるがごとく、水の声が聞きなさるる。と見ると、竜宮の松火を灯したように、彼の身体がどんよりと光を放った。
白い炎が、影もなく橋にぴたりと寄せた時、水が穂に被るばかりに見えた。
ぴたぴたと板が鳴って、足がぐらぐらとしたので私は飛び退いた。土に下りると、はや其処に水があった。
橋がだぶりと動いた、と思うと、海月は、むくむくと泳ぎ上がった。水はしだいに溢れて、光物は衝々と尾を曳く。
この動物は、風の腥い夜に、空を飛んで人を襲うと聞いた……暴風雨の沖には、海坊主にも化るであろう。
逢魔ヶ時を、慌しく引き返して、旧来た橋へ乗る、と、
(きりりりり)
と鳴った。この橋はやや高いから、船に乗った心地して、まず意を安んじたが、振り返ると、もうこれも袂まで潮が来て、海月はひたひたと詰め寄せた。が、さすがに、ぶくぶくと其処で留った、そして、泡が呼吸をするような仇光で、
(さっさっさっ。
しゅっしゅっ、
さっ、さっ!)
と曳々声で、水を押し上げようと努力る気勢。
玄武寺の頂なる砥のごとき巌の面へ、月影が颯とさした。――
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前代文明の残溜地
東海道の奥から、信州伊那谷へ通じてゐる道が、大体三通りあります。其中、一筋は遠州から這入るもの、他の二筋は三河から越える道です。その真中にあたる道が、丁度花祭りの行はれる三州北設楽の村々を通つてゐるので、極僅かな傾斜を登ると、すぐ信州領になつてゐます。所謂新野峠が其境目で、此から半里も下ると、旦開村新野の町になるのです。而もこゝは、西へも北へも、或は東へも、すべて又、山坂を越えなければ通れない、盆地です。
東海道方面からやつて来た前代の文明は、或期間、此風の吹き溜りの様な山の窪地に、あたかも、吹き寄せられた木の葉の様に残溜してゐたのだと見られます。此村の伊豆権現、或は、以前此地の開発主であつた、伊東家に関聯した神事・儀式の伝承が、其を明らかに示してゐます。
我々、民俗芸術の会の仲間では、近い中に一度、皆で手わけをして此土地だけの村落調査をやつて見たいと言ひ合つて居る事です。若しさういふ事になれば詳細な報告を作る事が出来るでせうが、最近新野の雪祭りなる祭儀が東京へ来る事になつたのを機会に、先、小手調べとして、其に対する調査報告集を、同人の方々でお作りになる事になつてゐます。「花祭り」号の後に「雪祭り」号が出る事は、感じの上で、まことに快い事だと、我々も思ひます。それで、当然その時にも、行きがゝり上、私も仲間入りをしなければなりませんから、こゝにはほんのざつとした此春の祭りの輪廓だけを書いて、追つて行はれる雪祭り試演の為の、引札がはりにしたいと思ひます。
伊豆権現と伊東家
一体、下伊那の南部地方は、明治の初めに、謂はゞ奴隷解放とも言ふべき運動の盛んに行はれたところであります。つまり、昔から被官と称して居つた門百姓が、親方から独立した為に、大変もめた事でした。聞くところに依ると、理窟ばつた信州人の間でも、殊に解放問題を喧しく言ふのは、未だに下伊那が最甚しい相です。或は被官解放運動の名残りかも知れませんし、其運動自身が、起るべき理由のまた此土地に強く根ざして居たのかも知れません。新野ではさういふ運動があつたとは聞きませんでしたが、さうした気分は見えて居たと思ひます。
此雪祭りの行はれる、伊豆権現は、豆州の伊豆山権現が将来せられたものに違ひありません。そして此を携へて来たのが伊東氏なのです。だから、新野の土地と、伊東の家と、伊豆権現の社とは、村の開発の最初から、放つべからざる関係を持つて居ました。其が、明治になつて、完全に伊東家の手を離れたので、たゞ、社と村との続きあひだけが、前よりも一層濃くなつた様に思はれます。伊東氏の古邸は、現在でも新野の東方、大村といふところに残つては居ますが、しかし伊東家の人は、既に先代の時から村を追はれて、山沢一つ越えた北に住み替へてしまつたと言ふ事です。
此伊東家を中心とした行事が、今日では、多少形をかへて残つても居り、或は、既に伝説にくみ込まれた部分もあります。残つて居る部分は、大抵、伊東邸の代りに、同じ大村の中の諏訪神社の社殿で行はれる事になつて居る様です。一月十三日の此雪祭りも、元は、伊東家から行列が練り出したものですが、今では諏訪神社から出て、西へ長い新野の町を通つて、伊豆権現の山へ登る事になつて居ります。
元々此行事は、土地の精霊を意味する、夜叉神・羅刹神・麻陀羅神などゝ一つのものが群行して、まづ伊東家を訪れ、此を祝福した後、伊豆権現、或は其別当寺なる二善寺をことほぎする形だつたと思はれます。其は丁度、田楽に、水駅・飯駅・蒭駅など言ふ、立ち寄り場が考へられて居つたのと同じ意味で、精霊が群行して、豪家・宮・寺の祝福に廻る訣です。だから、大体は伊東家に於ても同じ事を行つたものと見られます。だが勿論此は、伊豆権現の神前で行ふのが本式と考へられて居ます。
南から来た芸と北から来た芸と
只今残つて居る形を見ますと、さま〴〵なものゝ複合した跡は明らかでありますが、中心は何としても、田楽、殊に「夜田楽」と称すべきものだと思ひます。三州北設楽の花祭りと比べても、非常に似た部分が多い様です。が、よく見ますと、南から上つて来た芸能と、東から来て国境を南へ越えて三州へ行つた芸能との、交り合つて居る度合ひが、信・遠・三の国境地方の村々で、濃淡がいろ〳〵になつてゐる様です。私は、只今のところでは、南から来たものと、北から来たものとを見なければなるまいと考へて居ります。其北から来たものゝ或時期の足溜りになつたのが、此新野の雪祭りに印象して居ると見られます。尤、部分的に見れば、三河鳳来寺、或は田峯の芸能と共通するものがあります。しかし其は、根本的のものだとは受けとれません。
行事の意味
此祭りを、雪祭りと通称して居ますのは、譬ひ一握りの雪でも神前に供へなければ、此日の祭儀は行はれないと信じられて来て居たからです。それで若し、近辺に雪のない時には、二里余も西北に隔つた平谷峠あたりまでも出かけて雪をとつて来る相です。此は、言ふまでもなく、雪を以つて田の作の象徴と見るので、祭りの夜に当つて雪が降らなければ、当年の成り物は望みがないと考へたところから出た、変化であります。
此祭りを始める前に、第一に、社の上にあるがらん様と言ふ祠を祀ります。此は、所謂伽藍神で、前に申した、社・寺の地主なる、精霊の発動を意味する行事であります。此から、神事やら芸能が引き続いて行はれるので、翌朝午前まで続きます。只今では、大体午前の十時か十一時に終りますが、昔は、明け方、日の出を限りとしたらしいのです。
此行事の最後に行はれるのは、田遊びと称へるもので、宣命と称するものを、社地の一部で唱へて居る間に、芸能がすべて結着する様になつて居るのです。朝に残る芸が少々はありますが、大体は、日の出前に三匹の鬼が出て、神主に退散させられる儀式を境として居ります。鬼が退散するに当つて、其口へ朝日が差し込む様に事を運ばなければ、其年は不作だと言うた相ですが、今では、さうは出来なくなつて居ります。
行事の主なるもの
私が、日本の芸能の歴史を考へようとした最初に、非常な興奮を催してくれたのが、此雪祭りの田楽の話を聞いた事でありました。しかし、こゝでは、其中二三の刺戟を含んだ部分を申すのに止めませう。
此行事の、主なる役廻りをするものは、右の鬼に扮する人達です。行列の山に上るのを迎へるのも、此人々です。後に言ひますが、矢取りの役を勤めるのも、やはり此人々です。
此祭りに於ける鬼は、殆、恐るべき鬼といふ考へはなく、親しむべく、信頼せられるものゝ様に見えます。そして最著しいのは、此鬼と、天狗とが、此雪祭りに於てはほゞ一つものに考へられて居る事です。
鬼の外に目につくのは、もどき・翁でありまして、もどきは二様に繰り返されて居ます。一つはさいほうと言ひ、更に其繰り返しをもどきと言うてゐます。二つながら、所謂鬼の面を被つて舞ふものです。翁は三種類あります。翁・松かげ・しやうじつきり、と言ふ三種類の面を被つて、引き続いて出て来て、各違つた唱へ言をします。つまり、翁の言ひ立てを三部分に区劃して語る事になるらしいのです。此翁に就いては、鳳来寺・田峯、或は花祭りのものと、比較研究の興味があります。
其外に、面をかついで出る役としては、此も一つ事でせうが、田畑の害物を圧伏するらしい、しづめの行事があります。これが二つに分れて、しづめ及び八幡として、面形も違ひ、身振りも変つて居ります。そして其対象も、鹿と駒とになつて居ります。此を見ますと、神楽系統の獅子の様に、獅子に扮するものが能動するのでなく、征服せられるものだといふ形が見えます。
人間の直面で行ふものとしては、牛系統のものと、簓・編木系統のものと、二つに分つ事が出来ます。牛の方では、競馬と称する三分芸を分化して居りますが、此は、乗りものに乗つた弓とりの姿を原とする様です。即、所謂牛が其です。此牛に乗る役は、最神聖なものと考へられて居ます。矢をつがへて、一度は社殿の屋根に向けて射放ち、今一度は、社地の境に居る鬼に向けて射る行事があります。鬼の場合は常識的にも解釈出来ますが、社殿に向つて射る形が残つて居るのは面白いと思ひます。つまり、矢は遠方に居る精霊、或は神に奉りものをする為の媒介物であります。此牛一つを見ても、日本の狩り場の社が、山の神・木の神・境の神に、上差しの矢を捧げた古俗の説明が思はれます。
秩序もなく、また、報告か解釈か訣らない様な文章を綴つて来ましたが、雪祭りの試演を御覧になるのに、此だけの漠然たる用意でも持たれる様にと思つたのです。
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秋も末のことでありました。年老ったさるが岩の上にうずくまって、ぼんやりと空をながめていました。なにかしらん心に悲しいものを感じたからでありましょう。夏のころは、あのようにいきいきとしていた木の葉が、もうみんな枯れかかっていて、やがては、自分たちの身の上にもやってくるであろう、永い眠りを考えたのかもしれない。たとえ、はっきりと頭に考えなくとも、一時にせよ、その予感に囚えられたのかもしれない。いつになく、遠い静かな気持ちで、彼は、雲のゆくのをじっと見守っていました。
夕日は、重なり合った、高い山のかなたに沈んだのであります。さんらんとして、百花の咲き乱れている、そして、いつも平和な楽土が、そこにはあるもののごとく思われました。いましも、サフランの花びらのように、また石竹の花のように、美しく散った雲を見ながら、哀れな老いざるは、しかし、自分の小さな頭の働きより以上のことは考えることができませんでした。
「あの先にいくのは、山にすんでいるおおかみくんに似ているな。そういえば、つぎにいくのは、あの大きいくまくんか、その後から、旗を持っていくのは、いつか森であったきつねくんによく似ている。」
そう思って、雲の姿をながめていると、自分の知るかぎりの山にすむ獣物も、小鳥も、みんな空の雲の一つ一つに見ることができるのでありました。それらは、楽しく、仲よくして、神さまの前に遊んでいました。
彼は、この不思議な有り様を、岩の上でじっと見上げていました。
「ああわかった。私も年を老ったから、せめて達者のうちに、一度、みんなとこうして遊んでみよと、神さまがおっしゃるにちがいない。」
こう思いつくと、老いざるは、悲しそうに一声高く、友だちを呼び集めるべく、空に向かって叫んだのです。
いつしか、空の雲は、どこへか姿を消してしまいました。もし、気がつかなかったら、永遠に知られずにしまったような、それは、はかない天の暗示でありました。
老いざるの叫び声をききつけて、すぐにやってきたのは、近くのくるみの木に上っていたりすであります。
「どうしたのですか、さるさん、なにか変わったことでも起こったのですか?」と、ききました。
この年老ったさるは、この近傍の山や、森にすむ、獣物や、鳥たちから尊敬されていました。それは、この山の生活に対して、多くの経験を持っていたためです。
老いざるは、まず、りすに向かって、いましがた見た雲の教訓を物語りました。
「それは、すてきだった。みんな集まって、雪の降らないうちに仲よく遊んだらいいと神さまはおっしゃるのだ。」と、老いざるは、諭すようにいいました。
「ほんとうに、いいことですが、平常私たちをばかにしているくまや、おおかみさんが、なんといいますかしらん。」と、りすは、小さな頭を傾けました。
「私が、いまここで見た、雲の話をすれば、いやとはいわないだろう。」と、老いざるが、答えました。
「じゃ、さるさん、早く、懇親会を開いてください。私が、小さいのでばかにされなければ、こんなうれしいことはありません。」と、りすは、喜んで飛び上がりました。
そこへ、のっそりときつねがやってきました。
「さるさん、なにか変わったことがあったのですか。あなたの呼び声をきいて、びっくりしてやってきました。」と、ずるそうな顔つきをしたきつねがいいました。しかし、このときだけは、きつねもまじめだったのです。
老いざるは、いま見た雲の話をしました。
「きつねさん、あなたは、旗を持って、その行列の中に入っていましたよ。私たちがやるときにも、どうかあのようにしてください。」
これをきくと、きつねは、そり身になって、
「あ、私も、ここにいて、その雲を見るのだった。いままで、竹やぶの中で、眠ってしまいました。あなたの声をききつけて、びっくりして目をさましたのです。」といいました。
老いざるは、ふたりに、使いを頼みました。きつねは、洞穴にいるくまのところへ、そして、りすは、谷川のところで獲物を待っているであろうおおかみのところへいくことにしました。
りすは、いきがけに、老いざるを振り向きながら、
「ぶどうは、すこし過ぎたが、まだいいのがあります。かきもなっているところを知っていますし、くりや、どんぐりや、山なしの実など、まだ探せばありますから、かならずいい宴会ができますぜ。なんといっても、これから、長い冬に入るのだから、うんと一日みんなで仲よく遊びましょうよ。だいいち、この山にすむものの好みですから、おそらく不賛成のものはありますまい。」といいました。
同じく、異った道の方へいきかけたきつねは、
「そうとも、たとえ人間ほどに道理がわからなくとも、俺たちにだって義理はあるからな。」といいました。
「人間の義理なんて、あてになるもんじゃないよ。」と、りすが、小さな頭を振りました。
「そんなことはない。」と、きつねは、人間の弁護をしました。
「じゃ、律義もののくまや、勇敢なおおかみが、人間を助けたことはあるが、人間は、どうだ、くまや、おおかみを見つけたが最後殺してしまうだろう。」と、やっきになって、りすがいい張りました。
すると、老いざるは、笑いながら、
「こんどは、人間ともお友だちになろうさ。」といいました。
「そういうさるさんだって、人間からは、さる智恵といって、けっして、よくはいわれていませんぜ。」と、りすがいうと、さすがのさるもきまりの悪そうな顔つきをしました。
「そんな話はどうだっていい。まあ、早くいってこよう。」と、きつねがいったので、りすは、一飛びに谷の方へ駆けていきました。
峠の上には、一軒の茶屋がありました。夏から秋にかけて、この嶮しい山道を歩いて、山を越して、他国へゆく旅人があったからですが、もう秋もふけたので、この数日間というものまったく人の影を見なかったのであります。
茶屋の主人は、家族のものをみんな山から下ろしてしまって、自分だけが残り、あとかたづけをしてから山をおりようとしていました。雪が見えて、また来年ともなって、木々のこずえに新しい緑が萌し、小鳥のさえずるころにならなければ、ここへ上がってくる用事もなかったのでした。彼は、費い残りのしょうゆや、みそや、酒や、お菓子などの始末もつけなければならぬと思っていました。
「また、きょうも人の顔を見なかったな。」
そのとき、障子の破れ目から吹き込んだ風は、急に寒くなって身に浸み入るのを覚えたのでした。
「どこか、近くの山へ雪がやってきたな。」と、主人は、思いました。そして、明日の朝にでも、外へ出て、あちらの山を見たら、白くなっているであろうと、その山の姿を目に想像したのでした。音ひとつしない、寂然としたへやのうちにすわっていると、ブ、ブーッという障子の破れを鳴らす風の音だけが、きこえていました。
「去年も、この月半ばに山を下りたのだが、今年は、いつもより冬が早いらしい。」と、主人は、立って、窓の障子を開けて、裏山の方をながめました。
夕日は、もう沈んでしまって、怖ろしい灰色の雲が、嶺の頂からのぞいていました。このとき、キイー、キイーとさるのなき声がしたので、彼は、雪が降って、山奥からさるが出てきたのを知りました。そして、まだ鉄砲の手入れをしておかなかったのを、迂濶であったと気づいたのです。その翌日、昼すぎごろのこと、入り口へなにかきたけはいがしたので、見ると怪物が顔を突き出していました。主人は、びっくりして、声も立てられずにしりもちをつきました。なぜなら、意外にも大きなくまだったからです。
彼は、もう命がないものと思い、体じゅうの血が凍ってしまいました。
「どうぞ、お助けください。」と、心の中で、ひたすら神を念じたのでした。
けれど、くまは、すぐに飛びかかってはこなかった。かえって、なにか訴えるような目つきをして、手にはかきの木とまたたびのつるを握っていました。そして、いよいよくまが、彼に危害を加えるためにやってきたのではないことがわかると、
「命さえ助けてくれたら、なんでもきいてやるが。」と、おそるおそる顔を上げて、彼は、くまのすることを見たのでありました。くまは、さも同意を求めるように、ただちに、酒だるの前にきて、じっとそれに見入っていたのです。
「ははあ、酒がほしくて、やってきたのか。」と、主人は悟りました。
「もし、俺が、酒をやらなければ、くまは、きっと怒って、俺をかみ殺すにちがいない。どのみち敵だ! いっそたくさん酒を飲ませて、酔いつぶしてから、やっつけてしまおうか?」
主人の頭の中には、この瞬間、すさまじい速力で、さまざまな考えが回転しました。
「ばかな、この大きなくまに思う存分、酒を飲ませるなんて、そんな酒がどこにあるか。神さまは、この瀬戸際で、俺が、どれほどの智恵者であるか、おためしなされたのだ。まず、この高い酒をやらぬ工夫をしなければならぬ。」
彼は、もうすっかり打算的になっていました。たなの上から徳利を下ろして、奥へ持ってはいると、やがてもどってきてたるの酒をうつすようすをして、徳利を振ってみせました。酒が、チョロ、チョロと音をたてて鳴りました。くまは、信ずるもののように、おとなしくしていましたが、やがて持ってきた、かきとまたたびをそこへ捨てると、徳利を抱えるようにして、まるまる肥ったからだで、前の山道を後をも見ずに、駆けて去りました。
長年山に住んでいて、獣物にも情けがあり、また礼儀のあることを聞いていた主人は、くまが、酒を買いにきたのだということだけはわかったのです。
「なにか、山の中で、獣物たちの催しでもあるのかもしれない。」と、思いました。
それよりか、自分が、損をせずに、うまく危険から脱れたことを喜んだのでありました。
「長く山にいると、ろくなことはない。早く村に下りよう。」と、主人は、考えました。
この日、山の獣物たちは、老いざるの指揮に従って、行列を整えて、嶺から嶺へと練って歩きました。先頭には、かわいらしいうさぎが、つぎにおおかみが、そして、徳利を持ったくまが、きつねが、りすが、という順序に、ちょうど、さるが、岩の上で見た、天上の行列そのままであったのです。ことに人間が、足跡を絶ってから、まったく清浄となった山中で、彼らは、あわただしく暮れていく、美しい秋を心から惜しむごとく、一日を楽しく遊んだのでありました。やがて、彼らの列がある高い広場に達したときに、かつて天上の神々たちよりほかには知られていなかった芸当をして、打ち興じたことでありましょう。
そのころ、峠の茶屋の主人は、そそくさと山を降りる仕度をしていました。酒だるの上には、くまが置いていった、かきや、またたびまで載せてありました。村へ帰ってからの、自慢話にするのでしょう。そして、もう来年の夏、客があるまでは、この小舎にも用がないといわぬばかりに、閉めきった戸の一つ一つに、ガン、ガンとくぎを打ちつけていました。彼は、金鎚をふり上げながら、
「酢に水を割って入れてやったが、獣物たちは、酒の味がわかるまいから、たぶん人間は、こんなものを飲んでいると思うことであろう。それとも酒でないと悟るだろうか?」
山は静かであり、木々の紅葉はこのうえもなく美しかったが、独り彼はなにか心におちつかないものを感じたのでした。峠を降りかけると、ざわざわといって、そばの竹やぶが鳴ったので、くまが、復讐にやってきたかと足がすくんでしまった。しかし、それは、西風であって、高い嶺を滑った夕日は、雪をはらんで黒雲のうず巻く中に落ちかかっていたのです。
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善とは何か、悪とは何か、善はなにゆえになすべきか、悪はなにゆえになすべからざるか等の問題は、すでに二千何百年も前のギリシア時代から今日にいたるまで、大勢の人々の論じたところであるが、昔の賢人の説いたところも、今の学者の論ずるところも、みな万物の霊たる人間についてのことばかりで、他の動物一般に関したことはほとんど皆無のようであるから、この点について日ごろ心に浮かんだことを試みに短くここに述べてみよう。
動物には単独の生活をなすものと、団体を造って生活するものとあるが、全く単独の生活をなす動物の行為は、善悪の二字をもって批評すべき限りでない。世人は狼が羊を捕えて噛み殺すのを見れば、羊の苦しみを憐れむ心から狼の所行を悪と名づけたく感ずるが、これは罪なき他人を害する人間を悪人と呼ぶのから連想したことで、単に狼のみについて言えば、その羊を食うのはあたかも人間が飯を食うのと同じく、ただ生活に必要なことをするというだけで、善とも名づけられねば、また悪とも名づけられぬ。かかる動物では各自の行為の結果は、ただその個体自身に影響をおよぼすだけで、成功しても他に利益を与えることもなく、失敗しても他に迷惑をかけるでもなく、強ければ栄え、弱ければ滅び、たれの恩をこうむることもなく、たれの巻き添えに遇うこともない。それゆえ、かりに身をこの境遇において想像してみると、善悪という文字は全くその意味を失ってしまう。
また団体生活の充分完結している動物、たとえば蟻、蜂等のごときものの行為も善悪をもって評しがたい。なぜというに、これらの動物では各個体はただその属する団体の一分子としてのみ価値を有し、団体を離れ、単に個体としては少しも特別の個体価値を認めることができぬ。すなわち各団体はあたかも一の意志を持った個体のごとくに働き、これを組み立てている各個体はあたかも個体を造り成せる細胞のごとく、単に団体の意志に従うて働くのみである。言を換えていえば、これらの動物では各個体の精神は個体の利害のみに重きをおく小我の境を脱して、自己の属する全団体の維持繁栄を目的とする大我の域に達しているのである。蜂や蟻が終日忙わしく食物を探し集めたり、幼虫の世話をしたり、勉強しているのはすべて自分の属する団体のために役に立つばかりで、一つも直接にその一身のためにはならぬ。またもはや団体にとって無用となった個体は、他のものが集まって容赦なく殺し片づけてしまい、決して単に蟻であるから、あるいは蜂であるからというだけの理由で、蟻格を尊ぶとか蜂権を重んずるとかいう名義のもとにこれを助けておくことはない。たとえば雄蜂のごときは種属の維持には欠くべからざるもので、生殖作用のすんだ後の雄蜂は蜂仲間から考えたら、実に元勲とも称すべき者であるにかかわらず、もはや団体にとって無用であると定まった以上は、直ちに団体から殺し捨てられること、あたかも用の済んだ乳歯が、子供の身体から抜けて捨てられるのに異ならぬ。かくのごとき次第であるから、蟻や蜂はただ他の単独生活をなす動物が一個体ですることを一団体でするというだけにとどまり、その行為はとうてい善悪の二字をもって評することはできぬ。
動物の中には、蟻、蜂ほどに完結した団体は造らぬが、しかしやはり一生涯多数相集まって暮らすものがある。猿類のごときはその一例であるが、この類の動物にいたって、初めて行為に善悪の区別をつけて論ずることができる。
そもそも動物の各個体が生活し得るためには、相当の食物が入用であるゆえ、同一の食物を要する動物が多数同じ場所に棲んでいると、必ず食物を得るための競争が起こり、互いに敵とならざるを得ない。もっとも食物の供給が需要の額よりはるかに多い間は競争も起こらぬが、そのような結構なことは決して長く続くものではない。なぜかというに食物が充分であれば動物の繁殖が盛んになり、子孫の数が殖えればたちまち食物の不足が生ずる。しかして際限のある食物を多数のものが分けて食うことになれば、遠慮していてはとうてい餓死するをまぬがれぬから、各自競争して、他人を餓死せしめても、自分だけは飽食しようと心掛けるにいたるはむろんのことである。それゆえ同一の種類に属し、したがって同一の食物を要する動物個体は、みな互いに劇烈なる仇敵たるべき資格を備えているもので、現に食物不足の場合には、同一団体に属する個体同志で互いに相戦い、相かみ、相殺し、相食うことがつねである。豹は猿を殺して食うからむろん猿の敵であるが、猿同志は互いに食物を奪い合うものゆえ、猿もたしかに猿の敵である(Simia simiae lupus)、頸をかみ切って殺すも、餌を奪い去って殺すも、ただ多少直接と間接との相違があるだけで、その結果にいたっては毫も異なるところはない。
かく互いに仇敵たるべき資格を充分に備えている動物個体が、なぜ相集まり団体をなして生活するかというに、これは全く敵に対して身をまもるためである。種属の維持、すなわち生殖作用を行なうために一時団体をなすものもあるが、これは全くそのとき限りで、目的を達した後はたちまち散じてしまう。俗に螢の合戦、蛙の合戦と称するものはかかる団体である。また力をあわせて餌を捕えるために、狼などが団体を造ることがあるが、これも全く一時的で、首尾よく餌を捕えた後には、直ちに利益の分配について争いが起こり、たちまちにして互いにはげしい仇敵となってしまう。されば一生涯団体をなして暮らすものは、みな力をあわせて共同の敵に当たり、もって身を全うすることを目的とするもの、すなわち合すれば立ち、離るれば倒れる(United we stand, divided we fall)という理由に基づいたものばかりであるというてよろしい。
猿などの団体はここに述べたごとき理由で成立しているのであるゆえ、その中の各個体はいずれも他はどうなっても自分だけ利益を得たいという欲情を盛んに持っている。しかし各個体がこの欲情をたくましくして互いに戦うならば、その団体はたちまち破壊して、とうてい敵なる団体に対して生存することができなくなり、したがって各個体も身を全うすることができぬ。それゆえ猿の団体においては個体の欲情と、団体の要求とはとうてい一致すべきようなく、各個体は強いても欲情の一部を制して全団体の維持繁栄を計らなければ、各自の生存もおぼつかない。すなわち強者は勝ちたいという欲を制して弱者を助け、賢者はだましたいという情を忍んで愚者を教えるようにせねば、全団体が滅亡する。かかる団体中の各個体はつねに自己の欲情すなわち利己心(Egoismus)と団体の要求すなわち利他心(Altruismus)との間にはさまれ、ある時は奮って団体の要求に従い、全団体に利益を与えることもあり、ある時は心弱くも自己の欲情に負けて全団体に迷惑をおよぼすこともあるが、これがすなわち善悪のわかれるところで、一個体の行為の結果が全団体に利益を与える時は、利益の分配にあずかる同僚はこれをほめて善(Bonum)と称し、一個体の行為の結果が全団体に損害を与える時は、頭割りに損害をこうむる同僚はこれを責めて悪(Malum)というのはむろんのことである。
以上述べたるところは、団体がやや少数の個体より成る場合について想像したことであるが、一団体をなす個体の数が多くなると善悪の関係がかように明瞭でなくなる。そのゆえは、個体の数がふえるにしたがい、一個体が団体全部におよぼす利害を頭数に割りつけると、実に僅少となり、ついにはありがたいとか迷惑とか感ずる最低限(Schwellenwert)以下となって、他の個体は全くこれを感じなくなるからである。しかしながら、いかに団体が大きくなっても、各個体が欲情の一部を制して団体の要求に応じなければ、団体の生存が保てぬことは依然として変わらぬから、各個体には無意識的に多少全団体の利益となる行為をなすの習性が本能として残り、なにゆえという理由を知らずに、ただ善を善として行なっているごとき外観を呈するにいたる。熱帯地方を旅行して猿の習性を調べた学者の報告などを読んでみるに、戦うて傷を受けた猿があると、他の猿等はこれを助け保護し、食物を与えたり、水を飲ましたりして、非常にこれを介抱し慰める。また子を遺して親が死ねば他の猿が直ちにその子を養い取り、実子同様にこれを慈しみ育てることなどが、ていねいに記載してあるが、単にこの所行だけを考えると、あたかも猿には猿道(Simianitas)とでもいうものがあり、博愛(Philopithecia)の精神に基づいてしているごとくに見える。
少数の個体より成れる団体のありさまに比較して猿のかかる行為の原因を考えてみるに、団体の要求に応ずるのは敵に対してわが団体を維持し、したごうてわが身を全うするためであるという観念は個体の数のふえるにしたごうて漸次個体の意識の範囲より脱し去り、個体はただ漠然とこれを義務のごとくに感じて実行しているのであろう。そのありさまを形容して言えば、あたかも別にすべての個体に共通の団体意志(Volitio cormi)とでも名づくべきものが、意識の範囲以外の精神的作用として各個体に存し、これが各個体にかかる行為をなさしめているので、操り人形が糸に従うて動くごとくに、各自は少しも理由を知らずに、団体の要求に従うてかかる動作をなしているように見える。もし猿に人間ほどの知力と言語とがあったならば、猿は必ず自己の行為の規範とやらを研究し、団体意志に操られて本能的に働いていることは自分らには気が付かぬから、自分らの行為の原因目的がわからず、ただなんとなく心の奥にかかる行為を命ずる或る物が隠れているかのごとくに感じて、あるいは厳粛命令(Kategorischer Imperativ)に従えばよいとか、あるいは至善(Summum bonum)に向こうて進めばよいとか種々雑多の空論を考え出すことであろう。
また各個体が自己の欲情をたくましくしては団体が保てぬから、団体の要求にそむいた個体がある場合には、他の個体等が集まって必ずこれに制裁を加えるが、これも一団体内の個体の数がふえるにしたがい、あたかも単に悪を悪として罰するごとき観を呈するにいたる。烏などを見るに、他の烏のるすに乗じて巣の材料を盗みきたり、これを用いて自分の巣を造るものが往々あるが、かかる所行が露顕すると、近辺の烏等はみなそこに集まり、被告を取り巻いて、暫時カーカーとやかましく鳴いた後、五六匹の折檻委員を選んで、かの罪烏をつつき殺してしまう。このことは烏類の習性を書いた書物にはすでに出ているが、あえて珍しいことではなく、著者も数年前に東京お茶の水の聖堂の森の側でこれを実見したことがある。この時だけを見るといかにも残酷のようであるが、悪事に対してはかく制裁を加えなければ烏社会の秩序が保てぬから、これもよんどころないことである。かように多くの烏に囲まれて、今か今かと死刑の宣告を待っている烏の心を推察するに、ああ悪いことはできぬものなり、あんなことをしなかったならばこのような憂目にはあうまいにと、後悔の念に堪えぬであろう。またこれを見ている他の烏らも心中に、われも悪事を働いて露顕すればこのとおりの目にあうであろう、恐るべし、謹しむべしと自ら戒めるに相違ない。これがすなわち良心と名づくるものである。言を換えれば、動物の良心とは団体の要求にそむいた行為をなしたる後、団体の制裁を恐れる個体の感覚に過ぎぬ。ただしこの場合においても、団体が大きくなるにしたがい以上のごとき関係は漸々不明瞭になり、ついには良心は全く一種の本能として心の底に残るだけとなってしまう。
前にも述べたとおり、行為に善悪の区別のあるのは団体生活を営む動物のみに限られてあるが、猿などはただ共同の敵に対して身を護るの方便として団体を造っているものゆえ、その団体は決して永久不変のものではない。数個の団体が相対立し相敵視しているためにようやく各団体内の個体が結合しているのであるから、敵がなくなったら、団体はあたかも桶の輪がはずれたのと同じく、たちまち破れて数個の小団体に分裂してしまう。敵国外寇なければ国たちまち滅びるということは、人間の国にも猿の団体にも同様にあてはまる文句である。また昨日までは数個の団体であったものも、共同の大敵にあたるために今日は攻守同盟を結んで、あたかも一大団体のごとくになることもあり、首尾よく敵を打ち滅ぼせば自然に分裂して旧のごとくに復することもあれば、あちらで二団体が同盟を結んだのに対して、勢力平均のために、こちらでは三団体が同盟を結ぶこともあって、団体なるものは世の変遷につれて絶えずその範囲が変ずる。されば団体の要求もその時々に変じ、これを標準とした善悪なる語も時によって相異なり、同一の行為でも昨日善と言われたものが今日は悪となることもあるべきはずである。一例をあげて見るに甲乙二団体が相敵視している間は、甲団体の猿が乙団体の猿を殺すことは敵の戦闘力を減ずるとの理由で善なりとほめられ、最も多く殺した猿ほど偉勲赫赫などと激賞せられるが、さらに丙なる大団体の攻撃に遇うて甲乙相同盟したときには、甲団体の猿が乙団体の猿を殺すことは、自己の同盟軍の戦闘力を減じて敵を利するにあたるゆえ、悪として罰せられるのである。その行為は全く同一でもその事情によって善とも言われ、悪とも言われる標準の違うことはこれを見ても明らかであろう。
共同の敵にあたるためには団体は同盟し、同盟すれば強くなって敵を倒すこともできる。敵が倒れれば同盟は破れ、同盟が破れればみな互いに敵である。動物の団体はこの順序に従うてつねに変遷するものゆえ、善悪の標準ももとよりこれとともに変ぜざるを得ない。かくのごとくであるゆえ、団体生活から離して単にある行為のみを取って、善とか悪とか評することはとうてい無意味のことで、団体生活と関連してある行為を評する場合にも、評者自身がその団体内の一員としての資格で論ずるときにのみ善悪の批評ができるのである。また個体の集まって成れる団体と団体との間の行為について言えば、これはあたかも単独生活をなす動物個体の行為と同様で、まさった者が勝ち、劣った者が負け、強ければ栄え弱ければ亡びること、あたかも水が流れ火が燃えると同然で、善とも悪とも名づくべき限りではない。動物界において、個体の行為を善悪に分けて批評することのできるのは、団体生活をなす動物の中で、団体の意志と個体の欲情との相矛盾する場合だけであるが、かかる場合は猿などのごとくに、個体はおのおの自分の欲情を遂げんと欲しながら、敵に対して身を護る方便として、欲情の一部を制して、ようやく社会を組み立てている動物において見いだすを得るものである。
生物学の一分科として動物の習性を研究する学科を生態学(Ethologia)と名づけるが、その語原は倫理学(Ethica)と同じく、ともにギリシア語の「習慣」という字からきている。かくのごとくこの二学科は元来同様の性質のもので、その間にはきわめて深い関係のあるべきはずなることは名前の上に現われているにかかわらず、倫理学者は今日まで動物生態学を度外してもっぱら抽象的の議論のみをたたかわしていたのであるが、われらの考えるところによれば、倫理学の根柢はぜひともこれを生態学に求めなければならぬ。ショペンハウエルは倫理に関する一論文の初めに「道徳を説法するは易く、道徳の根柢を明らかにするは難し」と書いたが、従来の方法で研究している間はいつまでもそのとおりに違いない。生態学によって種々の動物の習性を調べ、下等動物より漸々高等動物にいたる間の習性の移り行きを明らかにし、単独生活と団体生活との関係をさぐって、ついに人間にまでおよぼせば、ここに初めて、倫理学の確固たる基が定まるのであろう。今ここに動物界における善悪について述べたことは、われらの考えの中から最もわかりやすい二三の例をあげたに過ぎぬゆえ、もとよりきわめて不完全なものではあるが、倫理学と生態学との間に離るべからざる関係のあることだけは、これによって多少明らかに知れるであろう。
(明治三十五年十月)
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一
アメリカ数学史を調べている途中、黒板の来歴という問題に触れたので、少しばかり書き付けて見よう。ただこれは主として数学の面のみからの考察に止まるので、中には大きな誤りを冒しているかも計り難い。各方面の識者の御示教をお待ちする次第である。
わが国で黒板が盛んに使用されるようになったのは、何といっても明治初年に、アメリカ人による教育上の指導からである。明治五年(一八七二)九月師範学校(東京高等師範学校(1)の前身)が開かれたとき、大学南校(2)の教師であったスコット(M. M. Scott)を招いて、小学校に於ける実際の教授法を伝えて貰った。スコットは母国の師範学校出身者であり、東京の師範学校では、主として英語と算術を教えたが、教科用書や教具器械の類は米国からの到着を待って使用したという。更に翌年には、ラトガース・カレッヂの数学・天文学教授マーレー(David Murray)が聘されて文部省学監となり、日本における教育の全面的指導に当ることになった。
さてマーレーが黒板の使用を奨励したことは、彼の報告書から伺うことが出来る(3)。
「各般ノ書籍ヲ飜譯編輯シ、各般ノ器械ヲ備具ス。即チ……懸圖・模範塗板ノ如キ既ニ之ヲ製造シテ、從来煩多キ方法ニ代ヘ、以テ廣ク之ヲ小學校ニ採用セリ。……師範學校ノ功用ハ既ニ東京ニ設立セルモノニ於テ、其實驗ヲ表セリ。……學科ヲシテ理解シ易カラシメンガ爲、懸圖及塗板ヲ用ヒ、……(傍点は小倉)」
(1)今の東京教育大学の前身 (2)今の東京大学の前身 (3)『ダビット・モルレー申報』(明治六年)。
師範学校で、黒板がスコットによってどんな風に使用されたかは、『師範学校、小学校教授法』(明治六年八月刊)という、師範学校長諸葛信澄らの校閲にかかる書物によっても明かである。その中には、算術の授業に黒板を使用している絵があり、そこには「図の如く、教師、数字と算用数字を呼で石盤に記さしめ、一同記し終りたるとき、教師盤上に記し、これと照準せしめ、正しく出来たる者は各の手を上げしめ、誤りたる者は手を上げざるを法とす」と、書かれている。
更に校長諸葛信澄自身の著にかかる『小学教師必携』(明治六年十二月刊)においては、読物・算術・習字・書取・問答などの教授法が述べられ、そこには黒板の使用法も詳しく説かれている。例えば第八級(一年級の前半)の習字については、
「五十音圖ヲ用ヰ、書法ヲ説キ明シテ塗板ヘ書シ、生徒各自ノ石盤ヘ書セシムベシ……。生徒石盤ニ書スルニ當リテ、或ハ細字ヲ書シ、或ハ石盤全面ノ大字ヲ書シ、或ハ亂雜ニ書スル等ノ不規則ヲ生ズル故ニ、教師塗板ヘ書スルトキ、縱横ニ直線ヲ引キ、其内ニ正シク書シ、生徒ヘモ亦此ノ如ク、石盤ヘ線ヲ引キテ書セシムベシ、塗板ヘ書スルトキ、傍ラニ、字畫ヲ缺キ、又ハ筆順等ノ違ヘタル、不正ノ文字ヲ書シテ、其不正ナルコトヲ説キ示シ、生徒ヲシテ其不正ヲ理解セシム……。塗板ヘ書スルニ、字畫ノ多キ文字ハ、二度或ハ三度ニ書スベシ、必ズ一度ニ書シ終ルベカラズ。……」
また例えば第六級(二年級の前半)の算術については、
「……右ノ如ク暗算ヲ教フルトキ、兼テ二段ノ加算ノ題ヲ塗板ニ書シ、各ノ生徒ヲシテ一列同音ニ、加算九々ヲ誦シテ之ヲ加ヘシメ、其答數ヲ塗板ヘ記スベシ、但シ其記シ方ハ、何レノ位ニ何數ノ字ヲ書スルヤヲ生徒ニ尋ネ、然ル後之ヲ書スベシ。二段ノ加法ニ熟スル後、三段以上ノ題ヲ塗板ニ書シ、生徒各自ノ石盤ニテ之ヲ加ヘシメ、然ル後一人ノ生徒ノ答數ヲ塗板ヘ書シ、各ノ生徒ニ照看セシメ、之ト同ジキ者ニハ右手ヲ擧ゲシムベシ。若シ此答數正シカラザルトキハ、更ニ又、他ノ生徒ノ答數ヲ書シテ、之ニ照準セシムベシ……」
何かあまりに形式的ではあるけれども、それは兎も角、まことに至れり尽せりの、模範的な説明振りではないか。黒板の使用が比較的短日月の間に広く普及したのも、決して偶然ではなかったと思う。
二
それなら黒板はアメリカで発明されたものなのか。否、それは多分一八一〇年代に、フランス人によってアメリカに伝えられたものなのである。アメリカの普通の学校では、独立戦争(一七七五―一七八三)前は勿論、独立後の数年間も、まだ石盤さえ使用されていなかった。生徒も教師も、書き物や算術計算を皆紙に書いていたのである。
ところでボストンの牧師メー(Samuel J. May)という人の伝記(一八六六)によると、彼はカトリック教徒のフランス人ブロシウス師(Francis Xavier Brosius)が、数学の学校で黒板を用いているのを、一八一三年にはじめて見た。それでメー師は自分の学校で黒板を使用しはじめた、とのことである。
しかしアメリカの初等学校に黒板の普及を見るに至ったのは、大体一八六〇年頃からであるといわれているが、そうすると、スコットは案外はやく、新しい黒板を日本に普及させたことになる。
もっとも大学やカレッヂの数学教室では、もっと早くから黒板が使用された。それは一八二〇―一八四〇年の期間に、アメリカの数学界に大きな影響を及ぼした、ウェスト・ポイント陸軍士官学校における、数学の教授から発したのである。
一八一二年の米英戦争は、いろいろの意味で、アメリカ史の転換期といわれている。この戦争が終ったとき、ウェスト・ポイント陸軍士官学校の主脳部は、ヨーロッパの陸軍制度調査研究の結果、フランスのエコール・ポリテクニク(高等理工科学校)を模範として、一八一七年から士官学校の改造を断行した。それでこの学校は、当時のアメリカにおける普通の大学などとは全く趣きを異にして、最も数学や理化学を重要視することになり、それは若々しい教授たちによって実現されたのであるが、その一人にフランス人クローゼー(Claude Crozet)があった。
クローゼーはエコール・ポリテクニクの卒業生、ナポレオン部下の砲兵士官として、ワグラムの戦(一八〇九)にも参加した人であったが、一八一六年から、一八二三年まで、ウェスト・ポイントの工学の教師として活躍した。彼が軍事工学――「戦争と築城の科学」――を教授しようとした時、その学修上、先ず予備知識として必要な数学から始めなければならなかった。その中に画法幾何学があったのである。
思えばこの画法幾何学という学問は、その創始者(エコール・ポリテクニク)のモンジュ(Gaspard Monge)によって公表されてから、ようやく二十年を超えたに過ぎない。そんな新しい学問があることを知っていた科学者は、アメリカに何人もいなかったし、勿論それを教わった人もなければ、英語で書かれた本もなかった時代である。教科書もなければ、またこの幾何学は(学問の性質上)口頭だけで教えることも出来なかった。そこでクローゼーは大工と絵具屋に頼み込んで、黒板と白墨を作らせたのである。「私たちが知っている限りでは、黒板の使用はクローゼーに負うものである。彼はそれをフランスのエコール・ポリテクニクで見ていたのであった」とは、当時のウェスト・ポイント出身者の回想である。
考えて見ると、私がこれまで挙げて来たマーレー、スコット、ブロシウスのような人々は、皆何等かの意味で、数学の関係者であった。しかしクローゼーこそは、学問の性質上、最も本格的な意味で黒板を使用したというべきであろう。一八二一年になって、クローゼーは英文の画法幾何入門書(百五〇頁ばかりの)を著した。彼は「アメリカに於ける画法幾何学の父」と呼ばれている。
ウェスト・ポイントに於ける画法幾何学の講義は、クローゼーが去った後、ウェスト・ポイントの出身者デヴィース(Charles Davies)によって継続された。デヴィースはクローゼーよりも遙かに大部な画法幾何の教科書を書いたばかりでなく、優秀な数学教師として、また多くの数学教科書の著者として、有名な人物となった。最初はフランス数学書の翻訳から出発して、非常な成功を博したが、後には算術の初歩から微積分にわたる、彼自身の一聯の教科書を著わした。それは非常に普及したので、そのためにウェスト・ポイントの名を高くすることになったのである。
三
ところで、私たちは、クローゼーの母校、パリのエコール・ポリテクニクにまで遡らなければならない。この学校こそは、「一九世紀の初めにおける、すべての科学の光は、エコール・ポリテクニクから発して、ヨーロッパに於ける科学的思考の進展を照した」と呼ばれるほどの、「ヨーロッパの羨望」の的となった学校である。それはフランス大革命の恐怖時代が終って間もなく、生産拡充のための科学技術者と、優秀な砲工の士官を養成する、二重の目的を以て、一七九四年に開校されたのであり、その中心人物はモンジュその人であった。
元来モンジュは、築城術の設計のために、面倒な計算の代りに簡単な幾何学的作図を考案したのを動機として、一七六五年頃には、既に画法幾何学の建設を始めていたのであった。しかしながらその方法は、軍事技術上の秘密に属するという理由で、革命前の旧体制下に於ては、公表を禁止されていたのである。今や革命政府によってエコール・ポリテクニクが創立され、しかもそこでは学問の性質上、画法幾何学は一躍して非常に重要な科目となり、モンジュ及びその高弟によって、極めて熱心に教授されるに至った。(モンジュは一八〇六年までは教授として、その年に上院議長となってからも、一八一〇年までは引きつづき講義をしたのであるから、クローゼーはモンジュの直弟子なのである。)モンジュは教授の際に、黒板や投影図や曲面の模型を用いたばかりでなく、学生の実習のために製図室を設けた。かような設備は、当時のヨーロッパにあっては 、実に空前の計画だったのである。
元来、黒板のようなものは、或はもっと以前から、フランスで多少は使用されていたのかも知れない。しかし黒板を他の科学的模型や器具といっしょに、科学、技術の教授研究上の要具にした上に、その学校の驚嘆すべき成功によって、優秀な教科書や諸設備と共に、それを広く世界に普及させた点で、エコール・ポリテクニクは大きな役割を果したといわねばならぬ。また、そういう意味で、“画法幾何学と黒板とは、フランス革命の副産物である”といっても、大した過言ではあるまいと考えられる。今日わが民主革命の時代に当り、私たちが黒板の前に立ったとき、われわれは深くこの偉大な民主革命――フランス革命について、回想すべきである。
四
ここに至って再び出発点に帰ろう。明治の初期に、わが教育がマーレーやスコットによって指導されたとき、わが数学界はどういう勢力の下に置かれたのか。それは当時圧倒的な勢力を占めたのは、いうまでもなくアメリカの数学であった。しかも明治八年頃までの間最も有力であったのは、かのウェスト・ポイント陸軍士官学校のデヴィース――彼は後には他に転じたが――の書であった。それは独り原書で広く読まれたばかりでなく、数種の書物が翻訳され翻案されたのだった。彼の名は漢字で代威斯、第維氏などと書かれた。
学問文化伝達の歴史は、多く偶然的な要素に支配されるかのように見えても、必ずしもそうではない。問題はむしろ、主として私たち自らの理論・分析の力の強弱に係っているのである。
(一九四七年五月三日稿同年「別冊文芸春秋」一〇月号)
*〔追記〕デヴィースの業績とその日本訳については、『数学教育史』(岩波書店)に詳しい。またエコール・ポリテクニクおよびモンジュについては、『数学史研究』(岩波書店)第一輯および第二輯を参照されたい。
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秋になつて来ると、何がなし故郷がなつかしまれる。村はづれの深山の紅葉とか、それから全体として山や水やを恋するやうな心持が頻りに強く動く。
周防の方に私の故郷の村がある。隣村は長門の国になつてゐて、そこに、長門峡、といふ奇勝がある。なんでもA川の上流が、七八里余り渓山の間を流れつづいて、べつだん村落が展けるでもなく、両岸には蒼潤の山が迫り、怪石奇巌駢び立つて、はげしい曲折の水が流れては急渓、湛へては深潭――といつた具合で、田山先生も曾遊の地らしく、耶馬渓などおよびもつかない、真に天下の絶景であると言つてゐられた。
その入口から二里くらゐ入つたところに雪舟の山荘の跡とつたへらるるところがある。そこらは川幅も広く、瑠璃一碧の水に山色を映して、ほんたうに高爽脱塵の境である。
私は秋になると、毎年、紅葉を見にそこへ行つた。何百年もの昔、旅の画家が、雨の降るとき、日の照るとき、くらくなるとき、あかるいとき、この山この水に対して、朝夕画道に専念したのであらうか? 徹底印象派ともいふべき雪舟の作品が、その取材の多くを支那の山水に求めてゐることは言ふまでもないが、この長門峡にも亦ひそかに負うてゐるのではないかしら。私は折があつたら専門の方に問うて見たいと思つてゐる。
雪舟が周防のY町の雲谷に住んでゐたのは、四十歳を五つ六つ過ぎた頃であらう。文芸復興期の明から帰つて来て、豊後にちよつとゐて、それから当時大内氏が領主であるY町に来たのである。室町幕府は義政ぐらゐのところで、京都よりY町の方が棲みいいと思つたのであらうか。Y町在のM村の常栄寺にも長い間寄食してゐて、その寺は大層気に入つたと見え、裏山に走り懸つた飛泉を引いて、支那の洞庭湖を模した庭を作つたりした。その庭は、その寺に遺された多くの仏画や山水画と共に国宝になつてゐる。他にも雪舟の作つた庭と伝へられるのが一二ヶ所ある。
「どうだ、和尚、支那流の庭を築いてやらうか。」
そんな風の押柄なことを言つて、寺から寺を歩いたかもしれん。或は、居候三ばい目には箸をおき、であつたかもしれん。おそらく後者であつたらうと私は信じてゐる。今でこそ、画聖と崇められ、名宝展などで朝野の貴顕に騒がれようとも、応永の昔の雪舟は高が雲水乞食に過ぎないのである。よし、当時は大内氏の全盛時代で、Y町の文化が逈に京都を凌ぐものがあつたにしろ、他の通俗的な工芸美術の跋扈に圧倒されて、雪舟の墨絵ぐらゐ、それほど重きに置かるわけはない。
「おれは、北京の礼部院の壁画をかいて、あつちの天子共を駭かしてやつたわい。」
と、威張つて見たところで、さう本当に聞く人は沢山なかつたであらう。それにかれは峻峭な性質で、気節を以て自ら持してゐたから、領主の招きに応ずることもいさぎよしとしなかつたらしい痕跡がある。私は、Y町の県の図書館で、いろ〳〵読んでみたので、幼稚な独断を書き記して見たのである。
少年の頃京都の寺にやられ、絵がすきでお経を覚えないところから、短気者の和尚さんに荒縄で柱に縛り付けられて、口惜しい余り傍らにあつた硯の墨を踵になすつて畳の上に五六疋の鼠を描くと、その黒い鼠の群がむつくと起き上つて忽ち荒縄を喰ひ切つて少年の雪舟を助けたといふ童話を、私は今でも信じたいやうな気がしてゐる。
自然こそは我が師なり――と言つてゐたさうであるが、それも非常にきびしい意味であらう。あふるる強い感情を外界の自然物象に託してゐる著しい点は、かれが青年時代に私淑したとか師と仰いだとかいふ周文などの消極的な作品とは、隔絶した雄渾なものと私は思つてゐる。私の田舎の家に、末派の模写した雪舟の仏画があるが、厚い脣などには、実に生々しい苦悶の色が見え、長く切れた眼尻など、決して決して澄んだ感じのものではない。濁つた〳〵、気味の悪い、それでゐて、どうにも抜き差しならないのである。一切のイデオロギーは、極く初歩の思想であることを故郷の家の床の間の、あの懸軸を思ひ浮ぶ時、私には然う分つて来るのである。
真のリアルには、思想を叫ぶ余裕がない。如何なる高遠な理想でも、理想を遠ざかれば遠ざかるほど、その人生と芸術とは高くなつて行くのであるが、そこに永遠に人生の迷ひがあるのである。所詮、日の下に、ほんたうに新しいといふことは、新しい自覚の衝動のみである。
雪舟はやがてY町を去つてしまつた。石見岩見の方へ旅をつづけた。一簑一笠の旅であり生活である。そして、もう老いた。七十、八十といふ歳になつた。日本海の浦々を歩いた。岩に砕ける荒浪は恐ろしくなつた。髣髴たる海天に青螺のごとく浮いてゐる美しい島島の散在を望んでも、も早詩が胸から無くなつた。人間墳墓の地を忘れてはならない!
雪舟は生れ故郷の備中とやらに帰らうとでもしたらうか。待つ人はなくても故郷へ帰りたかつたであらうが、病を得て、石見か岩見のあたりで死んだ。
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謡の「砧」に取材したものですが、章句の中には格別に時代が決定されていませんので、私の自由に徳川時代元禄から享保頃迄の人物にこれを表現してみました。最初は横物にして腰元の夕霧も描くつもりでしたが、寸法が制限されてますのでこの構図になりましたが縦七尺七寸、横四尺あります。
九州芦屋の里に家柄のある武士があり、訴訟事があって都に上ったが、かりそめの旅が三年という月日を数え妻は淋しく夫の帰りを待ち詫びていたところが、三年目の秋、夫に仕えて都に上った腰元の夕霧が帰国して夫の帰る日の近いことを喜ばしくも報じる。この話の最中に何処からともなく物音が聞えてくる。「あの音は何か」という妻女の問いに夕霧はあれこそは賎が女の打つ砧の音だと告げ、蘇武が胡国にさすらえていた折、故国にあるその妻が寒暑につけても夫の身を案じつつ打った砧の音が遠く万里を隔てた夫の枕上に響いたという故事を話して聞かす。
この話を聞いて妻はそれでは私も砧を打ってみようという。夕霧は、一旦は良家の女人の業でないと止めるが、その熱心さにひかされて砧を部屋の中にしつらえ二人で互に打つというのが謡「砧」の筋ですが、左の章句が良くこの情景を現わしています。
「いざいざ砧を打たんとて馴れし襖の床の上、涙かたしき狭筵に思いをのぶる便りぞと夕ぎり立寄り主従とともに、恨みの砧打つとかや、衣に落つる松の声〳〵、夜寒を風やしらすらん」
秋酣の、折しも円らかなる月のさし出づるころで都にある夫を想いながら空の一角を仰いで月を見、これから砧を打とうというところの妻女を、肖像のような又仏像のような気持で描いて見たものです。砧は黒漆が塗ってあるもので、灯台の蝋燭の灯のゆらぎに動きを齎してあります。
(昭和十三年)
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公園でHしたことある?
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一 関城の趾
東京の人士、若し土曜日より泊りがけにて山に上らむとならば、余は先づ筑波登山を提出せむとする也。
上野より水戸線に由りて、土浦まで汽車にて二時間半、土浦より北条まで四里、馬車にて二時間、北条より筑波町まで一里、徒歩して一時間、都合六時間以内の行程、これ東京よりの順路なるが、上野発が午後二時二十分なれば、途中にて日が暮るべし。山に上らうといふ者は、それくらゐの事は辛捧せざるべからず。筑波山麓より筑波町まで、ほんの五六町の坂路也。筑波町に着きさへすれば、旅館四つ五つあり。その夜一泊して、翌朝山に上るべし。往復五時間あれば十分也。筑波町にて午食して、昨日の路を帰るとすれば、土浦まで歩きても、その日の中には、東京に帰らるゝ也。
ことしの九月二十四日と二十五日と、休日が二日つゞきければ、三児を伴ひ、桃葉をあはせて同行五人、上野より日光線に由り、小山にて乗りかへて下館に下る。下館より筑波町まで五里、大島までは馬車通ず。されど、我等は下妻さして行くこと二里、梶内より右折して関城の趾を探り、若柳、中上野、東石田、沼田を経て、一時間ばかりは闇中を歩きて、筑波町に宿りぬ。全二日の行程なれば、筑波登山の外、関城趾の覧古を兼ねたる也。
日本歴史に趣味を有する者は、何人も北畠親房の関城書といふ者を知れるなるべし。其書、群書類従の中に収めらる。これ当年親房が結城親朝に与へたる手紙をひとまとめにしたるもの也。親房は言ふまでもなく、南朝の柱石也。親朝も、もとは南朝の忠臣なりき。其父宗広は建武中興に与つて大いに功ありて、勤王に始終したりき。親朝父と共に王事につくしたり。宗広死するに臨みて、必ず賊を滅せよとさへ遺言したり。親房の子顕家、鎮守府将軍となりて陸奥に至りし時、親朝は評定衆、兼引付頭人となりて国政に参与したり。後に下野守護となり、大蔵権大輔となり、従四位を授けられ、修理権太夫にまでも進めり。思ふに関東の一大豪族、武略と共に材能もありて、当時有数の人材也。然るに、南風競はず、北朝の勢、益々隆んなるに及び、父の遺言を反古にし、半生の忠節に泥を塗りて、終に賊に附したり。関城書は、親房が関城に孤立せし際、親朝がまだ形勢を観望せるに当り、大義を説きて、その心を飜へさむとせしもの也。辞意痛切、所謂懦夫を起たしむるの概あり。然れども、親朝の腐れたる心には、馬耳に東風、城陥りて、親房の雄志終に伸びず。名文空しく万古に存す。
当年の関城主は誰ぞや。関宗祐、宗政父子也。延元三年、親房は宗良親王を奉じて東下せしに、颶風に遭ひて、一行の船四散し、親房は常陸に漂着し、ひと先づ小田城に入る。然るに城主小田治久賊に心を寄せければ、関城に移れり。宗祐は無二の忠臣也。親房を奉じて忠節を尽せり。当時、関東は幾んどすべて賊に附して、結城親朝さへ心を飜しぬ。唯々宗祐の関城を根拠として、伊佐城主の伊達行親、真壁城主の真壁幹重、大宝城主の下妻政泰、駒城主の中御門実寛だけが南朝に属せしが、興国四年十一月、高師冬大挙して来り攻むるに及び、大宝城陥りて政泰討死し、関城も陥りて宗祐父子討死し、親房は吉野に走れり。これより関東全く北朝に帰するに至りぬ。
大宝沼の北端、三方水に囲まれたる丘上は、これ関城の趾也。沼に臨みて宗祐父子の墓あり。関城の碑も立てり。大宝沼は城趾の両側を挟さんで、遠く南に延び、その尽くる処を知らず、東の方二三里を隔てて、筑波の積翠を天半に仰ぐ。風光の美、既に人をして去る能はざらしむるに、忠魂長く留まれる処、山河更に威霊を添ふるを覚ゆ。茫々五百年、恩讐両つながら存せず。苦節ひとり万古にかをる。明治の世になりて、宗祐は正四位を贈られ、宗政は従四位を贈らる。地下の枯骨、茲に聖恩に沽へる也。
二 筑波登山
路傍の草中に、蛙の悲鳴するを聞く。蛇が蛙を呑み居るならん。助けてやれとて、石をなぐれば、蛙をくはへたる蛇あらはれて逃げゆく。木の枝を折り取りて蛇を打てば、蛇弱りて、蛙飛び去る。今一打を蛇の頭上に加ふれば、頭つぶれて死す。子供ども、快哉と呼ぶ。日暮れたる後、また蛙の悲鳴を聞く。小石を二つ三つなぐれど、なほ悲鳴を聞く。大なる石をなげつくれば、悲鳴は聞えずなりぬ。蛇死して蛙のがれたるか、蛇蛙共に死したるか、それとも蛇命を全うして蛙を呑み了りたるか、闇中の事なれば、知るに由なし。これ筑波の途上、親子が興じあひたるいたづら也。
沼田村より山路にさしかゝる。林間の一路、闇さは闇し、家は無し。十六をかしらに、末の子が十一、何も見えざるに、足の疲れを覚えけむ、筑波町はまだですか、まだですか。もうぢきだ、ぢきだ、男だ。辛捧せよと呼びかはして行く程に、灯光路に当る。これが筑波町かと思ひの外、山中の一軒家也。まだ何町あるかと聞けば、もう二三町也。この闇きに、提灯なきは危し。提灯つけて送らせんといふ。田舎にうれしきは、人の深切也。それには及ばずと断りて、なほ闇をさぐり、筑波町に達して宿りぬ。
筑波に遊ぶこと、これで三度目也。在来の書物には、筑波町より頂上まで一里卅二町とあれどこの頃新しく処々に立てられたる木標の示す所によれば、男体山まで廿一町廿三間、男体山より女体山まで八町、女体山より廿五町半、往復都合凡そ五十五町也。それを朝七時に宿を出て、十二時に戻り来りぬ。茶店の路を要するもの、男体の途に三つ、女体の途に二つ、頂上に三つ。下からわざわざ上つて来て居ります。やすんでいらつしやれと強ひられて、素通りも出来ず。一軒に五分づゝ休むとしても、都合四十分かゝる。蘭を採つたり、つくばねの実を採つたり、山毛欅茸を採つたり、路草くふことも多かりしかば、斯く五時間も長くかゝりたる也。
男体山へ上る途の名所は、小町桜と、水無川の、水源と也。小町桜のある処は、むかし日本武尊の休憩あらせられし処と称す。水無川は、百人一首にある陽成院の『筑波根の峯より落つる水無川恋ぞつもりて淵となりぬる』にて、有名なるもの也。女体の途の名所には、弁慶七戻あり、一種の石門也。上に横はれる大石、落ちんとして落ちず、さすがの弁慶も、過ぐるをはゞかりたりとは、とんだ引合に出されたるもの也。
頂上には、男体女体の二尖峯相並びて突起し、南に離れて連歌岳あり、東につらなりて宝珠岳あり。なほ女体よりの下り路に、北斗石、紫雲石、高天原、側面大黒石、背面大黒石、出船入船などの奇巌、峯上に突起す。就中女体峯頭が最も高く、且つ眺望最もすぐれたれど、この日は濃霧濛々として眺望少しも開けざりき。男体山には伊弉諾尊を祀り、女体山には伊弉冊尊を祀る。其外、頂上に摂社頗る多し。男体の一角に測候所あり。これ明治三十五年に故山階宮菊磨王殿下の設立し給へる所、筑波山新たに光彩を添へぬ。然るに、殿下今や亡し。測候所は文部省が引継げりと聞く。金枝玉葉の御身を以て、斯かる山上に測候所を設立し給ひし御志の程、世にも尊く仰がるゝ哉。殿下御在世の時、同妃殿下、登山せさせ給ひて、
筑波根の峯に建てたるやぐらにも
あらはれにけり君がいさをは
三 小田城と太田三楽
筑波山は山しげ山しげけれど
思ひ入るにはさはらざりけり
げに、古より樹木しげかりけむ。筑波山の高さは僅に三千尺ぐらゐなれど、関東平野の中に孤立せるを以て、関東にては、何処からも見ゆ。随つて、筑波山上よりは、関東を残らず見渡すを得べし。関城趾方面よりは、男体のみが見えて、女体は見えず。右に豊凶山をひかへ、左に葦穂、加波、雨引の三山をひかへて、勢、秀抜也。これ側面観なるが、正面より、即ち山麓の臼井村より見れば、男体女体の双峯天を刺して満山鬱蒼たり。春日山や、嵐山や、東山や、近畿には鬱蒼たる山多けれども、関東の山には樹木少なし。唯々筑波山のみは樹木鬱蒼として、関東の単調を破る。
午後一時、筑波町を発足して帰路に就く。北条まで歩きて馬車に乗る。小田村の路傍、「これより南三町小田城趾」としるせる木標の立てるを見る。これ当年北畠親房が一時たてこもりたる処也。然るに城主小田治久は勢を見て北朝に附しぬ。瓜のつるに茄子はならず。祖先が祖先なれば、子孫も子孫、この小田氏は戦国時代になりても、勢を見て北条氏に附しぬ。されど、本城は太田三楽に取られたり。
太田三楽は、太田道灌の曾孫也。智仁勇を兼ねたる名将として鳴りとゞろきたる英雄なるが、其一生は失敗の歴史也。豊臣秀吉小田原征伐の際、徳川家康に謂つて曰く、関東に二つの不思議あり。卿之を知れりや。曰く、其一は太田三楽ならむ。曰く、然り。曰く、今一つは思ひうかばず。曰く、矢張り太田三楽也。我等の如き者でも、天下を取れるに、三楽の如き人が一国も取り得ざるが不思議なる也と。三楽は非凡の英雄也。故に秀吉も家康も期せずして、これを関東の一不思議としたり。宇佐美定行も言へり、当代、主君と仰ぐに足るべき人は、わが謙信公の外に唯々三楽あるのみと。斯かる英雄が一国も取り得ざるは、不思議と云へば不思議なれども、実は不思議に非ず。三楽が若しも小田氏の如く勢に附したらば、失敗はせざりしならむ。三楽は鯁骨を有す。成敗以外に、巍然として男子の意気地を貫きたり。成敗を以て英雄を論ずべからずとは、三楽の事也。滅亡に瀕せる上杉氏を助けて、旭日の勢ある北条氏に抗したり。安房の里見義弘と結びたるも、鴻の台の一戦に大敗したり。越後の上杉謙信を頼みたるも、謙信は関東に全力を注ぐ能はざりき。失敗又失敗、本城の岩槻さへ取られ、はる〴〵常陸まで落ちゆきて佐竹義宣をたより、片野に老後の身を寄せたり。然れども、雄志毫も衰へず。老武者の英姿は、いつも筑波山下に躍動したりき。
父の小田天庵、藤沢に居り、子の守治、小田に居る。三楽は程近き片野に在りて日夜工夫をこらせど、如何せむ。敵の城はかたく、我兵は少なし。唯々小田天庵は毎年大晦日に、年忘とて連歌の会を催し、酒宴暁に至るを定例とせり。三楽之を聞き知りて、乗ずべきは此時なりと勇みぬ。されど、手兵のみにては不足也。茲に真壁掃部助と言ひあはせて、一の窮策を案じ出だせり。小田の重臣に内応するものあり、乗ずべしとて、佐竹方や多賀方の豪傑どもを招き、その内応の手紙さへ示したるに、豪傑ども、三楽に加勢することを諾す。然るに愈々小田城に押しよせて見れば、一向内応の模様なし。諸将こは如何にと怪しめば、実は内応ありたるに非ず。手紙も、にせ手紙也。唯々連歌の酒宴ある夜なれば、内応にもまして都合よし。願はくは一臂の力をかされよといふ。これも一理あり。今更ぐず〳〵言ひても仕方なしとて、一呼して城を抜きたり。その後、天庵は一度小田城をとりかへしたるが、再び三楽に取られたり。かゝる程に、大敵外よりあらはれ、北条氏は秀吉の為に亡ぼされたり。かくて、三楽の宿志は、思ひがけずも、秀吉によりて達せられたるが、三楽其人は、あくまでも不運の英雄なりき。北条氏滅亡の後、間もなく病死して、英魂むなしく筑波山下に眠る。
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戯曲界不振の声を聞くことすでに久しい。一見、まさにその通りである。本紙記者からその問題について書けと言われた時、私は書けばどうなるのだろうと思った。が、よく考えてみると、なるほど戯曲は小説ほど人目にたゝないけれども、この一、二年来、決して不振とは言い切れない、ある新しい気運をはらみ、私などの眼からみると、これまでにない活発な動きを示しだしているのである。
もちろん、まだ、新劇団の多くは、相変らず外国劇の上演によって乏しいレパアトリイを埋めているし、結果から言えば、イプセン、チエーホフ等の西洋近代古典の再演が圧倒的に人気をさらい、更にアメリカ・ブウルヴァル劇の新鮮味が観衆の心を強く捉えたことは事実である。
しかし、それにも拘わらず、おのおのの新劇団は、以前にもまして創作戯曲の力作を求めつゝあり、われわれ戯曲家もまた、奮ってその要求に応えようとしているのである。たゞ、この需要供給の原則だけでは、問題が解決しないところに、すべての悩みがある。
それなら、問題は一歩も解決の道へ進んでいないかというと決してそうではなく、その上、更に、戯曲文学への時代的な関心という好条件がこれに加わって来たことを見逃してはならない。
まず、極めて顕著な現象として、第二次大戦後の欧州ことにフランスの文学界を通じて、最も華々しい活躍をつゞけている作家が、サルトルにしろ、カミュにしろ、揃いもそろって、小説家であると同時に戯曲家であるということ、そのことはまた、戯曲なる文学形式を大戦後の新文学運動の主流にまで押しあげたということを注意すべきである。
この傾向は、あたかも、かつてのロマンチシズムの運動が、ユゴォの戯曲「エルナニ」の上演によって火蓋を切ったのとやゝ共通するところがあるようだけれども、それはむしろ外観の類似であって、本質的には、非常に違ったものである。即ち、彼にあっては、劇は時の方便であり、今日のそれは、劇は小説とその領域を判然と分ち合っている。一つの進化である。そして、それは、バルザックやモォパッサンやゴンクールなどが試みて失敗した散文の劇化とはまったく異質のものであり、クロォデル、ジュウル・ロマン、ジロォドウウの流れを汲んで、しかも一層民衆的な演劇の創造を目指したものゝように思われる。
時を同じくして、わが戦後の文学界にも、演劇に対する一種の関心、久しく打ち絶えていた戯曲への興味が、局部的にではあるが、そろそろ眼ざめかけた気配が感じられる。
私は必ずしもこの原因を「小説」の行きづまりにあると断じるつもりはないが、少くとも、文学におけるジャンルの限界の再認識、更に、戯曲というジャンルの可能性への新しい期待から生れた気運ではないかと思う。
そう言えば私の記憶にある限りでも、例の関東大震災の直後、小説家の数多くが戯曲を書いた時代があった。それがほんの一時の現象にすぎなかったことは、今から思うと残念であるが、当時はまだ、新しい演劇運動はほんとに地についていなかった。築地小劇場に外国劇万能の主張をかゝげ、微々たる創作劇には目もくれぬ風があった。私たちは、新劇協会という貧弱な劇団に拠ってそれらの新作を取りあげはしたが、反響は少かった。今日は事情はまったく違っている。
われわれ戯曲を本業とするものにとって、現在ほど力の入れ甲斐のある時代は未だかつてなかったのみならず、小説家で戯曲も書ける人が現在ほど求められている時代も、また、これまでにはなかったのである。
戯曲家が戯曲を書くのは当り前だが、詩人や小説家が戯曲を書くということを、必要以上に特別なことと考える習慣がなくもない。これは旧い観念だから是非とも打破しなければならぬ。しかし、実際問題として、それには、なにか十分な動機があればこれに越したことはない。一般的に、その有力な動機となるのは、ともかくも劇場に足を向けることであり、最初は面倒でも、多少は楽屋裏の空気を吸うことである。俳優の生態を知ることは、舞台のイメージを豊富にする手っとり早い方法である。
私たちは、現在の一つの気運に乗じ、これを更に有効に発展させるために「雲の会」というグループを結成し、着々仕事のプログラムを実行に移しつゝあるのだが、新しい演劇を育てる道はこれ以外にないという私たちの信念の現われである。いささか宣伝めくが、われわれの努力がどういう形で実を結ぶか、近く同会編集の雑誌「演劇」の刊行によって一般演劇愛好者と固く手を結びたいと希っている。
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わたしは帝劇のために「小坂部姫」をかいた。それを書くことに就いて参考のために、小坂部のことをいろいろ調べてみたが、どうも確かなことが判らない。伝説の方でも播州姫路の小坂部といえば誰も知っている。芝居の方でも小坂部といえば、尾上家に取っては家の芸として知られている。それほど有名でありながら、伝説の方でも芝居の方でもそれがはっきりしていないのである。
まず伝説の方から云うと、人皇第九十二代のみかど伏見天皇のおんときに、小刑部という美しい女房が何かの科によって京都から播磨国に流され、姫山――むかしは姫路を姫山と云った。それが姫路と呼びかえられたのは慶長以後のことで、むかしは土地全体を姫山と称していたのを、慶長以後には土地の名を姫路といい、城の所在地のみを姫山ということになったのである――に隠れて世を終わったので、それを祭って小刑部明神と崇めたというのであるが、それには又種々の反対説があって、播磨鑑には小刑部明神は女神にあらずと云っている。播磨名所巡覧図会には「正一位小刑部大明神は姫路城内の本丸に鎮座、祭神二座、深秘の神とす。」とある。それらの考証は藤沢衛彦氏の日本伝説播磨の巻に詳しいから、今ここに多くを云わないが、まだ別に刑部姫は高師直のむすめだと云う説もあって、わたしはそれによって一篇の長編小説をかいたこともある。しかし、小坂部――小刑部とも刑部ともいう――明神の本体が女神であるか無いかという議論以外に、その正体は年ふる狐であるという説が一般に信じられているらしい。なぜそんな伝説が拡まったのか、その由来は勿論わからない。
一体、姫路の城の起源は歴史の上で判っていない。赤松が初めて築いたものか、赤松以前から存在したものか判然しないのであるが、とにかくに赤松以来その名を世に知られ、殊に羽柴筑前守秀吉が中国攻めの根拠地となるに至っていよいよ有名になったのである。慶長五年に池田輝政がここに入って天主閣を作ったので、それがまた姫路の天主として有名なものになった。しかし徳川時代になってからも、ここの城主はたびたび代っている。池田の次に本多忠政、次は松平忠明、次は松平直基、次は松平忠次、次は榊原政房、次は松平直矩、次は本多政武、次は榊原政邦、次は松平明矩という順序で約百四十年のあいだに城主が十代も代っている。平均すると一代わずかに十四年ということになるわけで、こんなに城主の交代するところは珍しい。それはこの姫路という土地が中国の要鎮であるためでもあるが、城主が余りにたびたび変更するということも、小坂部伝説にはよほどの影響をあたえているらしい。
それについて、こんなことが伝えられている。この城の持ち主が代替りになるたびに、かならず一度ずつは彼の小坂部が姿をあらわして、新しい城主にむかってここは誰の物であるかと訊く。こっちもそれを心得ていて、ここはお前様のものでござりますと答えればよいが、間違った返事をすると必ず何かの祟りがある。現にある城主が庭をあるいていると、見馴れない美しい上﨟があらわれて、例の通りの質問を出すと、この城主は気の強い人で、ここは将軍家から拝領したのであるから、俺のものだと、きっぱり云い切った。すると、その女は怖い眼をしてじろりと睨んだままで、どこへかその姿を隠したかと思うと、城主のうしろに立っている桜の大木が突然に倒れて来た。城主は早くも身をかわしたので無事であったが、風もない晴天の日にこれほどの大木が俄かに根こぎになって倒れるというのは不思議である。つづいて何かの禍いがなければよいがと、家中一同ひそかに心配していると、その城主は間もなく国換えを命じられたということである。こんな話が昔からいろいろ伝えられているが、要するに口碑にとどまって、確かな記録も証拠もない。
小坂部明神なるものが祀られてあるにも拘らず、かれは天主閣に棲んでいると伝えられている。由来、古い櫓や天主閣の頂上には年古る猫や鼬その他の獣が棲んでいることがあるから、それらを混じて小坂部の怪談を作り出したのかも知れない。支那にも何か類似の伝説があるかと思って心がけているが、寡聞にして未だ見あたらない。日本の怪談は九尾の狐ばかりでなく、大抵は三国伝来で、日本固有のものは少ないのであるから、これも何か支那の小説か伝説がわが国に移植されたものではないかとも想像されるが、出所が判然しないので確かなことは云えない。
さて、それから芝居の方であるが、これは専門家の渥美さんに訊いた方がいい。現にわたしも渥美さんに教えられて、初代並木五瓶作の「袖簿播州廻」をくりかえして読んだ。角書にも姫館妖怪、古佐壁忠臣と書いてあるのをみても、かの小坂部を主題としていることはわかる。二つ目の姫ヶ城門前の場とその城内の場とが即ちそれであるが、この狂言では桃井家の後室碪の前がこの古城にかくれ棲み、妖怪といつわって家再興の味方をあつめるという筋で、若殿陸次郎などというのもある。これは淀君と秀頼とになぞらえたもので、小坂部の怪談に託して豊臣滅亡後の大坂城をかいたのである。現に大坂城内には不入の間があって、そこには淀君の霊が生けるがごとくに棲んでいるなどと伝えられている。それらを取り入れて小坂部の狂言をこしらえあげたと云うのは、作者が大坂の人であるのから考えても容易に想像されることである。しかし、ともかくも小坂部というものを一部の纏まった狂言に作ってあるのは、この脚本のほかには無いらしい。これは安永八年三月、大坂の角の芝居に書きおろされたものである。
尾上家でそれを家の芸としているのいうのは、かの尾上松緑から始まったのであるが、一体それはどういう狂言であるか判っていない。他の通し狂言のなかに一幕はさみ込まれたもので、取り立ててこれぞというほどの筋のあるものではないらしい。しかし江戸では松緑の小坂部が有名であったことは、「復再松緑刑部話」などという狂言のあるのを見ても知られる。この狂言は例の四代目鶴屋南北の作で、文化十一年五月に森田座で上演している。すでに「復再」と名乗るくらいであるから、その以前にもしばしば好評を博していたものと察しられるが、それがわからない。明治三十三年の正月、歌舞伎座の大切浄瑠璃「闇梅百物語」で五代目菊五郎が小坂部をつとめた時にも、家の芸だというのでいろいろに穿索したそうであるが、一向に手がかりがないので、古い番附面の絵すがたを頼りに、三代目河竹新七が講釈種によって劇に書きおろしたのであった。今度もわたしは尾上松助老人について何か心あたりは無いかと訊いてみたが、老人もやはりかの歌舞伎座当時の話をして、自分も多年小坂部の名を聴いているだけで、その狂言については何にも知らないと云っていた。
小坂部の正体が妖狐で、十二ひとえを着て姫路の古城の天主閣に棲んでいて、それを宮本無三四が退治するというのが、最も世間に知られている伝説らしく、わたしは子供のときに寄席の写し絵などで幾度も見せられたものである。こんなことを書いていながらも、一種今昔の感に堪えないような気がする。
そういうわけで、芝居の方では有名でありながら、その狂言が伝わっていない。そこを付け目にして、わたしは新しく三幕物に書いて見たのであるが、何分にも材料が正確でないので、まずいろいろの伝説を取りあわせて、自分の勝手に脚色したのである。
松緑のも菊五郎のも、小坂部の正体を狐にしているのであるが、狐と決めてしまうのはどうも面白くないと思ったので、わたしは正体を説明せず、単に一種の妖麗幽怪な魔女ということにして置いた。したがって、あれは一体何者だと云うような疑問が起こるかも知れないが、それは私にも返答は出来ない。くどくも云う通り、昔は播州姫路の城内にああいう一種の魔女が棲んでいて、ああいう奇怪な事件が発生したのだと思って貰いたい。又、その以上には御穿索の必要もあるまいと思っている。
今度の上演について、おそらく此の小坂部の身許しらべが始まるだろうと思われるから、ちょっと申し上げておく。(大正一四・二・演芸画報)
(昭和三十一年二月、青蛙房刊『綺堂劇談』所収「甲字楼夜話」より)
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彼女がそんな感じに見えます
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ぜいたくにと、ひと口に言っても、上には上、下には下の段々がある。若鮎を賞味できる人というのは上の上に属する。丹波の秀山、和知川などの若鮎と来てはたまらない。
第一姿のよさに魅せられる。すばらしい香気に鼻がうごめく。呑口は一杯やらずには納まらない。頭から尾先まで二寸から二寸五分というくらいの大きさが若鮎の初物で、その小味はたとえようもない。若鮎には気品の高さというものがある。その気品の高さは出盛り七、八寸――一人前の鮎に較べて問題でないまでに調子の高さがある。口ぜいたくを極めた後に初めてわかる味である。
金串の極小に刺して、塩焼きにするのはふつうのことで、これを生のまま赤出しに入れて、若鮎の味噌汁をつくる。温室の蓼を添えてもよし、皮山椒をひと粒入れるもよい。
鮎は頭から尾先まで余さず、ひと口かふた口に食う。鮎のわたの苦味は、また格別の風韻が口に美しく残る。流れのにぶい川の鮎は、肉がでぶでぶしていて不味い。川瀬のはげしい水の美しいところにいるものでなくては、ほんとうの鮎とは言えない。東京近くでは若鮎ならば酒匂川の下流が割合によい。多摩、厚木などのものは、私どもの口に合わない。
若鮎も三寸五分、四寸となると、いよいようれしい姿になって、ひと目見ただけで、矢も楯もたまらず食指は動く。しかし、川の水を離れて十時間以内でなくては、その価値はない。それも充分にいたまぬ手当をしてのことである。十時間以上も経てば、佃煮にでもするほか仕様はあるまい。川を離れて三、四時間以内で食いたいものである。
四寸ぐらいの若鮎を三枚におろし、洗いづくりにして、わさびで、あるいは蓼で舌鼓を打つなどは、時節柄、あまり最高を狙う美食道楽に過ぎるものだ。鮎は同時に同所で釣り上げたものでも、大小が混ざっている。大は発育良好のもの、小は発育不良のものと見てよい。もとより発育良好をよしとする。
料理法に魚田などと言って、味噌をつけて焼くのがある。田舎で有合わせの味噌をつけて焼くのは、田舎らしい風情があってうれしいが、料理屋が気取って調味料で味をつけた味噌などを、お体裁本位につけて出すのは面白くない。味噌にかつおぶしや味の素で味をつけるなどは愚の骨頂である。鮎は鮎の味生一本を賞味するのでなければもったいない。さればこそ、川を離れて間のない新鮮なのが欲しいわけとなる。若鮎とて、あり余るほどあれば、煮ても揚げても別であるが、少しばかりだとすれば煮るのは惜しい。油で揚げるのも鮎の特徴の大半を殺してしまって、甚だ忍びない。また、頭や腸を除いて若鮎を食うような人は、鮎でなくてもよいだろうから、牛肉とでも取り換えてもらうがよい。
(昭和十三年)
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Medium
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かういふ標題で、最近のヌウヴェル・リテレエルは、リュシアン・デカアヴの興味ある調査を掲げてゐる。別に結論らしい結論もないから、面白い「事実」だけを拾つてみる。
モオリス・バレスは一八八四年、「墨痕」といふ文芸雑誌を出したが、その創刊号に次の如き宣言を書いた。
「この雑誌は文芸雑誌であるから、滅多に演劇に関する記事は載せないつもりだ」
十年後、彼は、「議会の一日」といふ一幕物を書いてアントワアヌの自由劇場に持ち込んだ。ところで、この戯曲を単行本にして出す時、その序文で、彼は、再び戯曲に筆を染めるかどうかわからぬと告白し、ヴィニイが「舞台の芸術くらゐ狭い芸術はない。しかもあらゆる拘束を受けなければならぬ」と云つた言葉を引いて、それとなく芝居は苦手だといふ顔をして見せた。
シャトオブリヤンには、「モイズ」といふ詩劇があるが、一度も上演されなかつた。
バルベエ・ドオルヴィリイは、芝居に縁のない作家の一人であるが、戯曲のことをかう書いてゐる。
「乞食芸術である。誰彼となく手を差し出す――劇場主に、背景画家に、衣裳係に、俳優に……。そして、何れの時代に於ても、大衆の頭と同じ水準に自分をおくことにのみ汲々としてゐる。それは、大衆に支へられて生き、大衆に向つて呼びかけるものだからである」。彼はなほ云ふ。「人類の総ての愚劣さのなかにあつて、劇文学のみは最も結構な愚劣さなのだらうか」
大作家と呼ばれる人々のうちで、芝居に手をつけない人は少い。ラマルチィヌ、ミシュレ、テエヌ、などは芝居に関係がないらしい。
アミアンの図書館に保管されてあるボオドレエルの遺稿の中から、韻文劇「イデオルス或はマノエル」の草案が発見された。これは、プラロンといふ無名の協力者と合作をする筈だつたらしい。
三年前に、エドガア・ポオの未完成のドラマが、出版された。モルガン図書館で発見されたものである。断片的な草稿であるが、ポオの劇作家的天分を知らしめるといふほどのものではない。
ルナンも一時芝居に食指を動かしたことがある。一八八六年、ヴィクトオル・ユゴオの誕生日に、「千八百〇二年」と題する対話劇をコメディイ・フランセエズで上演させてゐる。
これは、死者の対話であつて、死者とは即ち、コルネイユ、ラシイヌ、ボアロオ、ヴォルテエル、ディドロの面々である。
それからまた、「哲学劇」数篇を物してゐるが、ルナン自ら、「上演の意図毛頭これなし」と云つてゐるにも拘はらず、ラ・デュウゼが、そのうちの一篇「ジュアアルの尼院長」を伊太利で舞台にかけた。
アントワアヌも、自由劇場の上演目録中にこれを加へようと思つて、ルナンに許を乞ふた。ところが、ルナンの返事は「ユゴオの誕生日に一寸した思ひつきをやつてみたのだが、その経験によると、自分の書くやうな仏蘭西語は、どうも役者が覚えにくいらしいから」といふのであつた。でも、兎に角といふ話になると、ルナンは、アントワアヌに、それでは、主人公ジュリイの役を誰がやる。心当りがあるかと問ふた。アントワアヌは早速サラ・ベルナアルのところへ駈けつけた。そして、ラ・デュウゼが演つた役だと話すと、サラは傍らの侍女を顧みて、「お前、ラ・デュウゼつて女を知つてるかい」と尋ねたものである。侍女の答はかうであつた。「はい、存じをります。でも、いい加減なもんでございますよ」
そこで、「ジュアアルの尼院長」は自由劇場の上演目録から消え失せた次第である。
一八〇四年頃はスタンダアルにとつて、芝居でなければ夜が明けぬ時代だつた。彼は、いろいろな脚本のプランを樹てた。悲劇二つ、浪漫劇一つ、オペラ一つ、喜劇数種、そのなかで、韻文の喜劇一つは書きかけて完成しなかつたが、標題を初め「ルテリエ家の人々」とし、次に「二人の男」と変へ、更に「果報」と改めた。彼は金のいる時代だつた。二十一歳の遊蕩児である。国立劇場に脚本を売り込む算段をしてゐたのである。彼は後年、その天職を他の形式に見出した。損はしてゐない筈だ。
フロオベエルの劇文学侵入が、無残な結果を生んだことは周知の事実である。喜劇「候補者」、夢幻劇「心の城」は「ボヷリイ夫人」の足もとにも及ばない。
ヴェルレエヌも、リラダンも舞台では失敗である。ヴェルレエヌの韻文狂言「お互に」は、ポオル・フォオルの肝入りでゴオギャン後援のために催された慈善興行の上演目録に加へられた。それから「オオバン夫人」といふ戯曲の草稿が遺つてゐることも附け加へよう。
リラダンの戯曲「新世界」は、一八七五年、亜米利加独立記念賞金を受けたことで有名になつた。アントワアヌが、自由劇場で「脱走」一幕を上演したことも記録に遺つてゐる。ゴンクウルの「教姉フィロメエヌ」と同時である。それから、「反逆」といふのはデュマ・フィスにデディケエトされた脚本で、これもデュマの骨折りで脚光を見た筈である。
ルコント・ド・リイル、ヴェルハアレン、ロデンバッハ、サマンなど詩人たちの戯曲は、何れも一時的の評判をとつただけである。
ロチイ、マルグリット、ジイド、ボルドオなどの小説家も戯曲を書いたが、これも余技の程度を出ない。
詩人にして小説家アナトオル・フランスはブウルジェと共に自作の小説を脚色してゐるが、若い頃、「ピエロの化身」といふ韻文劇一幕を書いたことを世人は大方忘れてゐる。
新しい時代の有名な作家中、タロオ兄弟、アンドレ・モオロア、ポオル・モオラン、モオリヤックなどは、揃ひも揃つて、芝居に仏頂面を向けてゐる。しかし、立てまじきは誓ひである。現に、近頃まで木石と見えたアルヌウが、そろそろこの道の味を解し出した。(一九二九・五)
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今度の銓衡では、出席者のほとんど全部が、この「広場の孤独」を第一に推し、私もやゝ意を強くすることができた。といふのは、これまで屡々、私が特に推したものが選に漏れてゐるからである。
この作品は、既に識者の注目を浴び世評もおほかた定まつてゐると聞いた。芥川賞の出しおくれといふ観もあるが、それは決して作者の不名誉にはならぬと思ふから、遠慮に及ばぬであらう。
前作「歯車」から「漢奸」へと一歩進境をみせ、更に上海を舞台とするものから、今度の内地に材をとつた「広場の孤独」に至つて、作者の手腕は、もはや懸念の余地がなくなつた。
アメリカの特派員も中国記者も墺国貴族と自称する国際ゴロもなかなかよく書けてゐる。上海の異国的雰囲気は、これはちよつと誰にでも難物だが、現在の東京の植民地風景は、却つて作者の筆力にふさはしく、むしろ、作者に最も近いと思はれる人物の輪郭が浮き出て来ない憾みがあるだけである。それはどういふことかといふと、あまりに時間的な素材の中心にあつて、作者は自己の眼にうつるものを見逃さぬ努力をなすに急で、つい、自分の身近に立つ一人物の小説中における役割を軽く扱つてしまつたのではないかと思ふ。これが逆になるともつとすばらしいものになつたにちがひない。
「こけし」の作者も、しつかりした天分をもつてゐるやうに思はれる。かういふ作家の態度は、非常に日本的で、しかも、消極的には立派なのだが、探究の力になにか未来性が乏しいやうな気がして、すこし物足りない。
「原色の街」は、若い作家のある時代の告白といふやうな意味で興味をもつて読んだ。鋭さもあり、豊かな感性のひらめきもみえ、有望な作家にはちがひないが、この一作だけでは、視野のひろがりを限定する危険なきざしが感じられ、私は次の作でその杞憂を一掃したい。
他の諸作については、今、べつに言ふことはない。
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美味いさかな、それはなんと言っても、少数の例外は別として関西魚である。さかなによっては、紀州、四国、九州ももちろん瀬戸内海に同列するものである。伊勢湾あたりから漸時西方に向かい、瀬戸内海に入るに及んでは、誰しもなるほどと合点せざるを得ないまでに、段違いの美味さをもつことは、夙に天下の等しく認めるところで、関東魚はこの点、一言半句なく関西魚の前に頭を下げずにはいられない。しかし、例外の逸品にかかっては、またどうしようもないもので、これから七、八月ごろまでつづく東京近海もののピカ一、星がれいの洗いづくりの前には、関西のそれなど、とても及ぶものではない。私はめったに天下一品などと言おうとするものではないが、こればかりはどうしても天下一品と叫ばざるを得ないのである。
東京築地の魚河岸における朝の生簀には、その偉容、実に横綱玉錦といった風な面構えをもって、水底に悠然たる落着きを見せている。美味さ加減は大きさで四百匁くらいが上乗。ふつう行われる黒だいの洗いよりは少々厚目につくり、水洗いしたものを直ちに舌上に運べば、まさに夏中切っての天下第一の美肴として、誇るに足るものである。このかれい、なかなか大きく成長し、一貫目以上のものも決してめずらしくないが、味の上では問題にならない。
元来、洗いづくりは、生きた魚でなくては駄目なものである。ところが京の魚市場はもちろん大阪の市場にも、東京のそれのような生簀の設備がない。あっても不完全である。従って洗いづくりに事を欠き、洗いと言っては東京の独壇場の観がないではない。だが、東京とてもあの黒だいを紙のごとく薄く洗ったものなど、てんで問題にならないものもあって、一概に誇れたわけのものでもないが、二、三百匁くらいのすずきの洗い、同じくこちの洗いなどは、充分自慢に価する。また、三、四百匁のまだいの洗いも相当のものであるが、星がれい・すずき・こちには及ばない。特殊のものに、あかえい・なまず・たこなど、ややグロなものがあるが、まずは下手珍味の類に加うべきである。こいとふなでは格段にふなが美味く、伊勢えびと車えびでは車えびが調子高く、うなぎ・どじょうの洗いを酢味噌で食う手もあるが、夕顔棚の下ででもなければうつらない。
最後に極め付この上なしを紹介する。それは百匁くらいのいわなの洗い、成熟期七月ごろの鮎の洗いなど。都会では容易ではないが、場所を得れば、敢えて難事ではなかろう。いわなの洗いは、どうしても渓谷深く身をもって臨む以外に法のないものである。私は黒部渓谷、九谷の奥、金沢のごりやなどでしばしば試みているが、星がれいに匹敵して、しかも格別という態の風味をもっていて、絶賛に価する。
今ひとつ格別のものに、北陸ではたらばがにの洗い、東京ではしゃこの洗いがある。これも珍重するに足るのみならず、簡易美食の王者と言えるであろう。裏日本の各所になまずがいる。これも星がれいに匹敵するような美味さをもっている。
(昭和十三年)
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Medium
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白馬、常念、蝶の真白い山々を背負った穂高村にも春が一ぱいにやってきた。あんずの花が目覚めるように咲いた百姓屋の背景に、白馬岳の姿が薄雲の中に、高くそびえて、雪が日に輝いて谷の陰影が胸のすくほど気持ちよく拝める。
乾いた田圃には、鶏の一群が餌をあさっている。水車の音と籾をひく臼の音が春の空気に閉ざされて、平和な気分がいたるところに漲っていた。
一歩を踏み出して烏川の谷に入ると、もう雪が出てくる。しかし岩はぜの花の香が鼻をつき、駒鳥の声を聞くと、この雪が今にもとけて行きそうに思う。しかしやがて常念の急な谷を登って乗越に出ると、もう春の気持ちは遠く去ってしまう。雪の上に頭だけ出したはい松の上を渡って行くと、小屋の屋根が、やっと雪の上に出ている。夕日は、槍の後に沈もうとして穂高の雪がちょっと光る。寒い風が吹いてきて焚木をきる手がこごえてくる。軒から小屋にはいこんで、雪の穴に火を焚きながら吹雪の一夜を明かすと、春はまったくかげをひそめた。槍沢の小屋の屋根に八尺の雪をはかり、槍沢の恐ろしい雪崩の跡を歩いて、槍のピークへロープとアックスとアイスクリーパーでかじりついた時には、春なのか夏なのか、さっぱり分らなくなった。けれども再び上高地に下りて行くと、柳が芽をふいて、鶯の声がのどかにひびいてきた。温泉に入って、雪から起き上った熊笹と流れに泳ぐイワナを見た時に再び春にあった心地がした。
春の山は、雪が頑張ってはいるけれど、下から命に溢れた力がうごめいているのがわかる。いたるところに力がみちている。空気は澄んで、山は見え過ぎるほど明らかに眺めることができる。夏の山より人くさくないのが何よりすきだ。これからあの辺の春の山歩きについて気のついたことを書いて見る。まず槍のピークについていわねばならない。
槍沢の雪崩は想像以上に恐ろしい。どうしても雪崩の前に行かねば危険でもあるし時間も損をする。
小屋から槍の肩まで、ただ一面の大きなスロープである。急なところとところどころになだらかなところは出てくるけれど、坊主小屋も殺生小屋も大体の見当はついてもはっきりとは判らない。ただ雪の坂なのだから。小屋から坊主とおぼしき辺まで、カンジキで一時間半とみればいい。スキーでもほぼ同じではあるが雪の様子でこの時間は違ってくる。時間を気にしないのならば肩までスキーで登ることができる。ただし一尺ばかり積った雪の下は氷なのだから、上の雪が雪崩れたら、アイスクリーパーの外は役にたたないが、それは恐らく四月末のことであろう。
坊主の辺から肩までは、ひどく急な雪の壁で三方をめぐらされている。眺めているととても登れそうにも思われない。しかし登りだすと、どうにか登れてくる。肩に上ると雪は急に硬くなる。そしていままで大丈夫楽に登れると思った槍の穂が氷でとじられていることが判ってくる。
試みにアックスでステップを切ると金のような氷が飛ぶ。もちろんその上に二寸ぐらいの新雪があった。どうしてもこれからは、ロ-プとアックスとクリーパーものである。これが氷ばかりなら大いに楽なのであるが、岩がところどころに頭を出しているので、ステップが切りにくい。岩と氷のコンクリートである。
五分おきぐらいに、頂上の辺から氷と岩が落ちてくる。これは温度によるのであろうから好天気の日は多いと思う。肩から非常に時間を要する。私は小槍の標高より少し上まで行ったが、それで考えると登り二時間は大丈夫かかると思う。
肩から上下五時間をとっておく必要がある。各自がアックスを持っていなくてはいけない。アイスクリーパーは外国製のものでなければ安心はできない。夏の雪渓に用いるものなら無い方がよかろう。金のような氷に、足駄をはいて歩くようなものだ。下るのに時間もかかるが、ロープを使用しなくてはならない。今年ももう肩に下りるところで一人滑ったが幸いに杖で止った。岩と氷と雪の好きな人は相当に面白いクライミングができるが、命は保証できない。肩から小舎までは、スキーなれば二十分をとっておけば大丈夫である。しかしこれはころぶ時間は入っていない。カンジキで一時間ぐらいであろう。
これから以下気づいたことを書いておく。
雪崩。一昨年は三月二十日ごろから入ったが、少しも雪崩れていなかった。今年は約二十日遅れて入って見たら、すべての谷が雪崩れた後であった。年によって違うであろうが三月中に入る方が安全である。
グルンドラヴィーネに会ったら一たまりもない。そして雪崩の季節に入ると荒れた翌日の好天気は危険であるし、雨降りの翌日の好天気もまた雪崩れる。
それにこの時は、カンジキがもぐって人夫を連れている時は歩けないことがある。だから、どうしても雪崩前に山へ行かなければ損である。
人夫。われらの背負う荷には限りがある。だから人の全くいない山の中を一週間も歩くには、人夫を頼むほかに仕方がない。ところが人夫はカンジキであるから、スキーとなかなか歩調が一致しない。確かに不便であるが、われらが弱くて荷が背負えないのだから、この不便を忍ばねばならない。人夫は必ず猟師でなければならない。夏山を歩いた男などはかえって迷惑である。
山によっては、カンジキの道とスキーのとるべき道とは一致しないが、信州の山のように谷のほか登れないところならば、どうも仕方がない。人夫を連れていれば夜営は、そんなに早く着かないでも間にあう。木をどんどんきってもらって、われらは寝床の用意と飯の用意をすればいい。だから山男ばかりでない時には、人夫が二人は入用である。仕事にかかる前にパンを一かじりしないと仕事が早く行かない。
いつでも余分のパンをもっていなければいけない。全く雪の中で宿る時には、人夫がいないと、なかなか一晩の焚火がとれない。
腹がへり、身体が参って、おまけに寒くなってくると、仕事ははかどらない。
だから人夫なしで、歩きたいのは理想であるが、今の日本の雪中登山の程度では、やはり必要なのであろう。
スキーとカンジキ。あの辺の山は、谷をまっすぐに登らねばならぬところが出てくるから、スキーのみでは困難である。一昨年は常念の谷をスキーで登って、一時間半かかったが、今年はカンジキにはきかえて一時間で登った。
大部分スキーが楽で速いけれど、この山では時々どうしてもカンジキの方が速いところは、ただちにはきかえるがいい。他の山でもカンジキは携帯せねばならぬと思う。スキーが破損した時、負傷者のある時に必要である。スキーの靴でカンジキをつけると、ぬけ易いが、大して困難もしなかった。私はスキーと共にカンジキを携帯することを絶対に必要とする。
夜営。油紙の厚いのと、シャベルと毛布(カモシカまたはトナカイ)の寝袋があればいいと思われる。何しろ一にも毛皮、二にも毛皮、三にも毛皮である。あとは身体を適応させるほか仕方がない。植物質のものを何枚着たって防寒にはならない。
夏見た小屋は必ずしもあてにならない。場所により小屋により雪のため使用できない。
常念の小屋は偶然に穴があったから入れたが、風の吹きまわしで入れないこともあろう。猟師の入る小屋なら大丈夫である。
四月なら吹雪さえしなければ、摂氏の零下六度ぐらいで、大して下りはしない。小屋なら零度か一度ぐらいで楽に寝られる。
雪があまり積った小屋で焚火すると、つぶれる恐れがある。
吹雪。三月四月でも吹雪はなかなか多い。一週間ぐらい続くこともある。吹雪にいたっては、冬と変りはない。雨でも混じようものなら、冬よりもなお悪い。今年は常念の乗越で一日やられた。この吹雪のために、槍の肩で小鳥の群が岩にぶっつけられて、雪の上にたくさんたおれていた。一昨年も一日やられてまゆげからつららを下げたり、ちょっとぬいだスキーの金具が凍って靴が入らなくなったり、だいぶいじめられた。
しかしその時の雪のよかったことは話にならない。話を聞くと二月の上高地は、素敵な粉雪らしい。黒部の上流は温泉のあるベト雪だと聞いたから、あっちへ行くならその覚悟がいる。吹雪の恐ろしさは遇って見ねば分らない。
大体気のついたところはこのくらいである。なおアルペンストックをスキーの杖とすることは、どうしても危険であるから金の部をとりはずせるようにするか、あるいは滑降には用いないようにせねばならない。
それから人夫の中に雪の山を歩かないものがくる時は、手袋その他の注意をせねばならぬ。色眼鏡も余分にもって行き、万事に注意しないと、一人の故障のために思わぬことができる。猟師なら大丈夫であるが、金カンジキなどをわざと持って行かずに危険なところをさけることもあるから、頂上を極めようとする際には、それも確かめる必要がある。
靴はネイルドされたものがいいようだ。
自分は大変幼稚な記事を書いた。早くあの辺の雪中の登山が進歩して、こんな記事がふみにじられるといい。
(大正十年六月)
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